第三夜「青春の日々」



 最近、嫌な夢を見る。好きな人を殺してしまう夢だ。自分ではない誰かの、思い出。見たこともない、知りもしない誰かの過去。こんな未来を迎えたくないと、目が覚める度祈るような気持ちで、涙が出る。

「…ろう。丈太郎、起きろ。もう朝だぞ」
「……うう…あと五分……」
 温の声が、目覚まし代わりだった。
 丈太郎はしっかりと布団にくるまって、温もりを逃さないように力を込める。いつものことだが、このだらしなさはどうしたものだろうと温は小さく溜息をついた。元々そんなに規律正しい人間ではない丈太郎だが、愛染を手に入れてからというもの、その傾向は益々ひどくなっている気がする。本人に、その自覚があるかどうかは定かではないにしても。
「遅刻したいのか?」
「もーあっちゃんうるさいさきいってればいいじゃん」
 毎朝毎朝、甲斐甲斐しく世話を焼くこの男。一体、何が楽しいのか。何だかんだと言いくるめられ、部屋の合い鍵を渡したのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。もごもごと返事をする丈太郎に、温は顔を近づけてそのままキスをしてしまう。
「…ん……?…う」
 いい加減、学習能力を身につけたい。心地良かった微睡みが、不意に邪魔され丈太郎は眉をひそめる。抵抗する気力も体力もないところに、舌まで絡められ苦しそうにもがいた。どう考えても、嫌がらせとしか思えない…。
「ちょっ、あっちゃん…!」
「勃った」
 信じられないその一言ですっかり、丈太郎の眠気は覚めてしまった。
「はあ?はあ!?お前って、マジ変態っ……」
 常々わかっていることだが、したくもない再確認をする。
 一番弱いところを握られて、丈太郎の身体が竦んだ。声が、上がりそうになる。…朝っぱらから、勘弁してほしい。涙目で自分を睨みつける幼なじみに、温は眼鏡の奥で笑った。余計にご機嫌になったような気すら、する。
「ああ。確かに、俺は変態だな」
 自覚がある分、更にたちが悪い。手に負えない。
「遅刻するって言ったのは、どこの誰でしたっけ?」
「十分の遅刻も、三時間の遅刻もどうせ同じだ。丈太郎、力を抜けよ」
「変態色魔馬鹿最低悪趣味」
「悪いな、可愛い寝顔だったんでな」
 少しも悪いなんて思ってない、その言いぐさ。
 自分の身体をまさぐる指に、丈太郎は堪えきれない吐息を零す。温の指使いは、熱がこもってどうしても感じてしまう。
「あ、温…っ」
 ゾクゾクと、丈太郎の背中を快楽が駆け抜ける。昔からこんな不健全な関係を、築いていたわけではなかったと思う。もっとプラトニックで、清らかだったはずなのに。同情だったのか慰めようとしてくれたのか、温がどうして手を出してきたのかはわからない。理由を、聞こうともしなかったのだ。丈太郎は。元々、二人の関係は対等ではない。
(身体は気持ちいいんだよな、男の子だもんな。はあ…)
 達した直後のやりきれなさときたら、もう何度繰り返しても慣れないのだが。
「コラ、枕で顔を隠すな」
「恥ずかしいんだよっ!!」
 セックスの行為自体より、丈太郎にとっては、最中の顔を見られるのが恥ずかしくて堪えられない。家族のような存在に、欲望剥き出しの姿を見られることがどれだけ、恥ずかしいか…。
「一緒に風呂に入った仲じゃないか。俺はもっと、丈太郎の恥ずかしいところを見たいと思うね。ずっと見ていたいくらいだ…お前が色っぽく喘ぐところを」
「耳は…や、めっ……ん…!」
「じゃあ、どこなら舐めてもいい?乳首?ペニス?…お尻か?」
 息がかかるほど顔が近くて、温が嫌な確認を取る。もう、勝手にすればいい。まだ何もしていないのに、期待に興奮した温のペニスが、丈太郎のものに押しつけられた。
 不毛だと思う。こんな風に身体を繋ぐことで安心する何かを、温は得られているのだろうか。別に、流されているわけじゃない。温が望むなら、いいと思った。
「…っ動くな!あっ、も…温……」
 丈太郎に触れる時はいつも、温は布団を剥ぎ取るし、電気も点けたままだ。よく見ていたい気持ちの表れなのだけど、丈太郎にしたらたまったものじゃない。
「エッチなスイッチが入るまで、丈太郎は時間がかかるんだよな?こうしてもまだ駄目?」
 いちいち言葉にするの、本当に止めてほしい。チロチロ孔の入り口を舐められて、丈太郎は涙を浮かべる。なるべく見ないようにしても、音を立てられるから無意味だ。時折視線で反応を窺ってくるのが、もう本当に堪らない。
「そ、れっ…やぁ…だ……アァン…」
 甘い声を自覚すると余計恥ずかしくなって、そう思うとますます感覚が研ぎ澄まされるように、触れられる熱が増す。
「駄目なことばかりなんだから。…可愛い丈太郎。そろそろ、欲しくなってきた?」
「…ア、アッ!」
 唾液をたっぷりつけられた指をアナルに挿入されて、丈太郎は身悶えた。注挿される度に、グチュグチュと卑猥な音が響く。
「……ァア…あん…そこ、ぁ……アッ…ア…」
 同じ箇所を執拗に弄られて、的確に知られている身体に、自然と腰が動き始める。引き抜かれた指の代わりに、大きな質量が圧迫してくるのさえ、快感に感じてしまう。
「あ、あ、あ、ぁ…」
「丈太郎どう?俺のペニス、気持ちいい?」
「ん…イイ……あぁん…アッ……温…温っ……」
 温は笑った。しがみつくように伸ばされる腕。この瞬間を迎えるのがたまらなくていつも、仕掛けてしまうのだ。丈太郎が快楽に堕ちる瞬間、というのが好きで…。
 初めて会った時よりも、丈太郎は随分表情豊か(どころか無意味なまでに、周囲に当たり障りなく明るい)になった。セックスの時は、もっと…見たこともないような部分まで。
「…くっ…もっと深く突いてあげる…。奥の奥まで、たっぷり…お前が感じるように」
 心が他人に向けられていても、少なくとも丈太郎の身体は今、温だけのもの。精液まみれにしてよがらせて、自分だけのことを考えてくれればいい。…今、だけは。
「あ、あっ…ぁあああっ!」
 丈太郎は柔らかい枕に顔を押しつけ、快楽と痛みの混ざった衝撃を堪えた。


   ***


 結局二人が登校したのは、昼休みになってからだった。
「二人揃って、今日は随分と遅いんだな」
 呆れたように声をかけてきた王崎に、教室を見渡した丈太郎は首を傾げる。
「王崎の方こそ、一人でいるなんて珍しいじゃないか」
 いつもなら王崎との間に、壁ともいえるような取り巻きが、何人も群がっているのだ。会話すら、成立するのが難しい。校内にいる王崎は、そういう男だった。大抵の生徒と同じく、丈太郎にとっては遠い存在。
「ひ、一人ではないですよ。御堂くん…わ、私もここにいます」
「神津…」
 どうやって現れたのか、いつの間にか王崎の隣りに立つクラスメイト。
 神津仁、王崎の取り巻きの一人である。うっとうしい前髪に、隈のとれない卑屈な目元。笑い方なんて、オカルト映画にでも出てきそうだ。朝っぱら…でもないが、あんまりにも爽やかじゃない。丈太郎は、神津が苦手だった。
「他の取り巻きはどうしたんだ?」
「お前らが寮でのんびりしている間に、転校生が来たんだよ。ホラ、あの人だかりがそうだ。…ようやくオレも、アイツらの監視から解放されるのかな」
「美咲かなえ。な、なかなかの美人ですよ…。わ、私の好みではな、ないのですが」
 意味深な王崎の言葉に、神津が後を続ける。
(監視…?どういう意味だ)
「仁も彼女に興味があるなら、あの中に混ざればいい。オレに、変な気を遣うな」
 別に、嫉妬というわけではないのだろう。普段から横柄な態度の王崎は、ちらりと美咲の方に視線を投げる。
「わ、私の個人的な意見としては…王崎くんの、ほ、方が美しいので…。も、問題ありません」
「神津のその意見自体が、違う意味で問題ありだと思うがな」
 言われ慣れているせいか今更、美しいなんて言われたところで動じもしない。肩を竦めるだけの王崎から視線を外し、丈太郎は溜息をついた。否定ができないところが、おそろしい…。
「何でも彼女、“光の楽園”の信者らしい。確かにどことなく浮いてる、って感じ」
「お前が言うな、王崎」
 思わず、丈太郎はツッコミを入れてしまった。 
 光の楽園とは、誘いに打ち勝つという名目を掲げ、大流行している宗教団体だ。今じゃ日本国民の三割が、光の楽園の教徒だというのだから信じられない。それゆえに、黒い噂も数多く存在するのだけれど。保険と宗教を、きっと勘違いしているのだ。彼らの多くは。ただ、何かに縋らずにはいられないその心理を、丈太郎はわからなくもなかった。
「ところで、さっきから伏見はずっと黙っているけど…。オレとは会話、したくないわけ?」
 不機嫌な問いかけが、王崎の形の良い唇から放たれる。
「あっちゃん?」
 返事がない。温の目は転校生の美咲に釘付けで、こちらの会話など聞こえていないようだった。確かに美人だが、神津の言うとおり王崎には敵わないと、こっそり丈太郎はそんなことを考える。独特の落ち着いた佇まいには、不思議と惹きつけられるものはあったが。
「あーっちゃん、あの転校生みたいなのが好み?」
 丈太郎が肩を叩くと、振り返った温の顔は気のせいか青ざめている。
「…どうした?」
「丈太郎…」
「だから、オレたちもいるって」
 普段から必要以上に仲の良すぎる幼なじみに、王崎は唇をとがらせた。
「俺は用事を思い出したから、早退する」
 ようやく温は、そう返事をした。
「えっ?今学校に来たばっか…」
「すまないな」
 温が逃げるように、教室から出て行く。理由を尋ねる隙も教える気も、ないようだった。
「前から言おうと思ってたけど、伏見って挙動不審だよ」
 まるっきり無視をされた王崎は面白くないらしく、しかめっ面で丈太郎に文句を言う。
「……は、はっきりどこがどう、というわけでは、な、ないんですが…。た、確かに変に感じることはあ、あります」
「いや、神津がそれを言うのも…」
 普通のところを見つける方が難しいクラスメイトに、丈太郎は苦笑いを浮かべた。
(まあ、庇いきれないところはあるよな。あっちゃん…)
 普段の行いがすべてなのだ、つまりは。何かを見透かしていそうな神津の目が細められ、丈太郎は何となく寒気を感じる。
「ふ、ふふ…。私の観察力は、み御堂くんに引けをとらないと…お、思いますよ」
「何の話だよ。あ、悪い。メールが…」
 メールの着信音は、今の丈太郎にとって救いだったかもしれない。差出人は、周防からだった。

 『話がある。今すぐ、第二校舎の会議室まで来てほしい』

 こんな時間に、いきなりのメール。もしかしたら、大事な急用なのかもしれない。
「俺、トイレ行ってくるわ」
 早々に会話を切り上げ、丈太郎は指定された場所へと駆け込んだ。いつもなら鍵が掛かっているはずの会議室は、丈太郎が手をかけると、易々とその侵入を許す。
「おう、来たか。お疲れさん、丈太郎。あ、鍵掛けてや」
 周防はいつも、丈太郎と出会った瞬間に、満面の笑顔になる。
「周防さん、アンタ、何でこんなとこに…。そのスーツ最高に似合ってないし。うちの学校、一応セキュリティの厳しさを売りにしてるはずなんだけど」
 丈太郎の通っている高校に限らず、どの学校も、部外者の立ち入りには厳しい。排他的というよりは、そうすることで辛うじて守れている何かに、縋るしかないのだろう。
「嫌やも〜、もっと嬉しそうな顔してや?何で矢代には懐くくせして、俺には冷たいんかなあ、キミたち。ひねくれた愛情表現をしても許されるんは、可愛い女の子だけやで。ホンマ」
(…コレだもんな)
 周防の前置きが長いのは、いつものことだ。
「本題」
 丈太郎は小さく机を叩いて、言葉の先を促した。
 この空気が変わる一瞬が、知り合って半年も経つのに一向に慣れないのだが。周防は笑顔を引っ込めて、抑揚のない口調で淡々と話を続ける。仕事に私情を挟まないタイプ、なのかもしれない。
「丈太郎、二年A組やったっけ。出席番号十番、佐藤弘信。十五番、中沢孝道。十六番、二宮清吾。この三人な、どうやら誘いに憑かれとるみたいや」 
(この切り替えの早いとことか、ホントついていけね…)
 什宝会にとっては、周防は優秀な人間なのだろうと思う。それを見せつけられると、丈太郎は辟易してしまうのだ。矢代とあまりにも、違うからだろうか?…比べたところで、どうにもなりはしないのに。
「どうしてそんなこと、わかるんだよ」
「丈太郎は知っとるか?誘いに対抗する為に、特殊な能力が生まれつき備わった人間のことを。その中で、“真眼(しんがん)”と呼ばれる目を持つ者がいる。見ただけで、人の本質を見抜いてしまう真眼は、什宝会の中でも特別な存在として扱われる。そいつが言うんやし、間違いない。その三人、丈太郎に任せたで」
「真眼だって?そいつが、嘘をついてるかもしれないじゃないか。誰がそんな能力を持っているか、確認のしようがない。什宝会は、そんな情報を信じるのか?」
 真眼のことに関してなら、自分より詳しい人間はいないだろうと丈太郎は思う。そんな意見を言ったところで、どういう反応が返ってくるか。
「残念ながら、そいつの当たりは今まで外したことがない。やるか、やらんのか…どっちなん?何にせよ、丈太郎はいつかは愛染を使う日が来る」
「どうしてその、三人なんだよ…」
 思わずついた溜息に、耳聡い周防が問いかけてくる。
「何か、共通点でもあるんか?」
(三人とも、王崎の取り巻きじゃないか…)
 まずいつも集団行動をしているし、どうやってタイミングを掴めばいいのかわからない。右手に填めてある指輪が熱くなってきて、丈太郎は眉をしかめた。
(王崎…)
「戦い方は、愛染が教えてくれる。丈太郎がやらんのやったら、お前のパートナーである正純に頼むだけや。どうする?」
「やるよ」
 丈太郎の吐き出すような声に、苦渋が滲んだ。その答に、自分の思考回路なんて存在しない。矢代はともかく正純に対しての、丈太郎のこの姿勢。律儀というのか、何というのか。思った通りの反応に、周防は唇を歪ませて笑った。正純の名前を出すだけで、こちらの思惑通りに丈太郎は動いてくれる。従順な駒だ。
「なあ、丈太郎はそんなに矢代のことが好きやった?何が、そんなに良かったん?矢代は正純に夢中やったし、キミのことなんか、利用できる都合の良い存在としか思ってなかった。それをわかっとって、何をそこまで一途に約束を守ろうとする?」
 質問は、何に対しての興味なのだろう。感情を話して、だから何になるというのだろう。守れない約束は、初めからしない主義だ。誓った約束は、必ず守るだけだ。
(都合が良かったのは、お互い様なんだし)
「俺は、あの人にそんな感情は抱いていない。周防さんに、事情を説明する気もない」
 周りに何と思われようが、そんなことはどうだっていいことだ。
「…一つだけ、忠告がある」
 静かな声が落ちてきて、丈太郎は、真剣な表情で自分を見つめる周防と向き合った。 
「ええか?丈太郎。愛染を持つ者には、恋愛は御法度。その感情が、身を滅ぼすことになるからや。どうしても身体が疼く時は、俺が相手になる」
「何ソレ、口説いてんの?周防さん」
 笑ってしまった。そんなことを言われるなんて、思ってもみなかった。恋愛が御法度なんて、それこそ持ち主である自分が嫌というほど理解している。
「好きにとれ。けど、冗談やないで。本気や」
「什宝会のお優しい先輩方は、可愛い後輩を身体で慰めてくださるってわけ―――…っ」
 狼に噛みつかれるような、荒々しいキスだった。唇を拭う。もう、この男の次の行動が予測できなくていつも困る。予測したくもない、が。
「あんまり俺を挑発すると、今すぐここで、それはもうグッチョグチョになるまで犯すぞ?」
「それは遠慮しとく…」
 丈太郎は苦笑して、周防から背を向ける。そんなの、冗談じゃない。周防のことは好きでも嫌いでもなかったが、今少し、嫌いに傾いた。
「手筈は整えた。今日の深夜二時、体育館にその三人は現れる。健闘を祈るよ」
(…そっちは高みの見物、ってわけかよ)
 振り返らず会議室を出て、拳を握る。一度自分が決断したことに後悔は、しないと決めた。


   ***


 いつもと変わらない教室。こんなにたくさん人がいるのに、どうしていつも、同じ視線を向けてしまうのだろう。王崎の不遜な笑顔に、丈太郎は目を奪われてしまった。どこに行ったのか、温の姿はまだ見えない。

『オレは、アイツらに好かれてるわけじゃない』
『…ようやくオレも、あいつらの監視から解放されるのかな』

 王崎の言葉を思い出す。
(わっかんねえ…)
 考えたところで何も、もし尋ねたところで何も…今夜の出来事が変わるわけじゃない。浄化に成功すれば、あの三人は自我を取り戻すことができる。失敗すれば、死だ。初仕事が三人、しかもクラスメイト。相談する相手も、そんな気も丈太郎にはない。孤独だ。死ねば、王崎は悲しむのだろうか。成功すれば喜ぶのだろうか、気づかないくらいのつきあいなのか。
(そもそも俺、王崎のことはよくわかんねえし。いっつも偉そうだと思ったら、たまに不安そうな顔を見せたりもするし…。ああ、もう!)
「おい、御堂」
 とげとげしい口調で名を呼ばれた。顔を上げると、気味悪そうな表情の王崎と目が合って、丈太郎は瞬きをする。
「用があるなら、言えばいいだろう。さっきから、人をジロジロ見せ物みたいに…。ったく、仁に教えてもらわなきゃ、いつまでも観察されてるところだった。で、何なんだ?」
「俺はお前に用なんかねえよ、王崎」
 丈太郎は冷たくそう返事をして、ふいと横を向いた。慣れというものはありがたいもので、少なくとも、いつもと変わりない態度だったはずだ。自分は。あまり、王崎に関わりたくない。それは一貫して守りたい、丈太郎のポリシーなのだ。
「…本当に、いつもそういう言い方するのな。オレに対しては」
「それくらいでへこむくらいだったら、俺に話しかけてこなきゃいいだろ?学習能力ないのかよ。ジロジロ見て悪かったな」
「お前がいつも、オレの方を見てるからじゃないか」
「!」
 非難するでもなく、ただ真実を告げる言葉に、丈太郎は瞠目してしまう。
「って、仁が言ってるだけだけど。アイツ、嘘つかないし」
 そちらを一瞥すると神津は何か言いたげな目で、丈太郎のことを見ていた。唾を飲み込む。…落ち着く間さえ与えられれば、十分に反論は可能だった。
「教室で大騒ぎしてる軍団に、目がいかない方がおかしいってもんだ」
「そうかよ」
「泣くのか?」
 意地悪で、そう尋ねたわけではなかった。ただ、潤んだ目元と頬に差した朱があまりにも綺麗だったから、丈太郎は驚いてしまったのだ。静かに首を横に振った王崎は、自分の席へと戻っていく。
(もし、泣いたらもっと、綺麗だったんだろうか…)
「ねえねえ、充く〜ん」
「ゴメン。オレ、他人に触られるの、苦手なんだ」
「えっ、そうなんだ〜。あたし、知らなかった」
 取り巻きの一人が、王崎に甲高い声で話しかけるのが聞こえた。
(…知らなかった)
 差し伸べた手は、だからこそ邪険に、振り払われたのだろうか。あの時は、自分に対して警戒しているのだと丈太郎は誤解していたのだけれど。
(さっき王崎が涙を見せたら、俺はどうしたかな…)
「…っ!」
 右手に激痛が走る。忌々しい気持ちで、丈太郎は呪いのような指輪を睨みつけた。
(わかってるよ、愛染…。ちゃんとやるから、俺は)
 不穏な事件が起こる世の中で、この学園の中だけはどこか平和なような錯覚が、安心感があったのに。日々の平穏を何よりも大切にしていた、自分がそれを壊す時が来ることになろうとは。皮肉なものだ。
(力を貸してくれ、矢代さん)
 祈るような想いで、目を閉じる。
 夢でしか会うことのできない彼は、優しい笑みを丈太郎に向けるのだった。


  2006.04.06


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