第二十八夜「御堂丈太郎」



 緩やかに訪れた春は、雪解けと一緒に何かをほどいてくれるようだった。

 正純の高校進学に、父親のように矢代と周防は喜んではしゃいでいた。照れくさくて落ち着かなくて、正純は着慣れない真新しい制服に、居心地悪くもぞもぞする。
 帰り際ウエイトレスのみほこが微笑ましそうに「おめでとうございます」と祝福してくれたので、ますます、むずがゆい気持ちになった。
「正純くん、かっこいいですよ」
「…そういうこと、言わないでください。照れるから!」
 我慢できなくなって言葉を返すと、一瞬の間の後おかしそうに、色んな方向から笑い声が聞こえて顔が赤くなってしまう。
 文句を言おうとしたら大人二人は、早々に店の外へ退散してしまった。
「ほんとに、そう思ってるんですよ。私」
「だ、だから…」
「だから、お話できるといつも嬉しいです」
 みほこがお盆を抱きしめてふわりとした笑顔を浮かべるのを見ると、正純はもうどうしていいのかわからなくなって、沈黙するしかないのだった。
「また来て下さいね。待ってますから」
「…じゃあ、また」
 矢代も周防も、ニヤニヤ笑って正純を待っていた。
 あんなに重かった矢代に対する初恋の感情は、丈太郎がどこかへと連れ去ってしまった。今は淡い好意を、育むことも放り出すこともなく、正純は大切に仕舞っている。
「ねえ、矢代さん」
「あ。そういえばおれは、用事があったんだった!広大、後よろしく」
 わざとらしく矢代にそんな態度を取られ、正純は周防と顔を見合わせる。昔はそれを許容していたけれど、そのうち一言、ガツンと言わなければと思う。 
「タイミング悪いけど、アイツ今回は本当に、この後用事があって…」
「何で周防さんが、矢代さんのフォローしてるんだか。…いいけどね、別に」
 自分には話していない幾つもの事情を、矢代は周防には話す。面白くはないが、お互いの成り立ちがそんな風なのはもう、最初から。年齢差だとかつきあいの長さに、嫉妬するなんて不毛だ。
 鬱屈としていた周防は今は、心なしか穏やかだ。他人の前ではあえて粗暴に振る舞ったりするけれど、ただのポーズだということを知っている。
 変わっていないのは、矢代くらいだった。誘いに乗っ取られ(たのかどうかは、定かではないが)丈太郎の身体を借りていた時のあの信じられない悪夢を、正純は、もう矢代だとは思っていない。
 いつでもマイペースで周りを振り回して、笑顔でかわしていってしまうのが、矢代だ。すぐにどこかに行ってしまいそうだった一種の儚さは、影を潜めてくれたけれど。
「丈太郎に逢いに行ったんや、甲斐は」
 ぽつりと告げられた言葉に顔を上げると、逆光で周防の表情はよくわからなかった。


   ***


 楽園は以前と変わらず、いつも通りあたりまえに存在していた。
 行方不明だった優は無事に発見されて、温も本当に安心したのだ。それなのに、何故か胸の奥にぽっかり穴が空いたような寂しさが拭えないことを、不思議に感じて温は日々を過ごしていた。
 失踪した間のことを、優は話そうとはしない。疲れ果てたような優を、ある日捜索を依頼した信之介と、優の兄である王崎、神津が連れて帰ってきた。
 散々心配したのだから、と一度本気で問いつめてみたら、悩んだ様子で母がどうのと青ざめた唇は要領を得ない。それ以来、何となくお互いの間でこの話は保留になっている。当の本人がこんな調子なので、王崎も神津も何も教えてくれなかった。
 信之介に関しては、状況や手段はともかく、とにかく優を連れ戻すことが条件だったせいで、とても本当のことを話してくれているとは思えない内容だったのだ。
「学校は楽しいですか?優様」
「うん。友達ができたよ、今度一緒に遊びに行くんだ。そいつ正純っていうんだけど、おっかしいの。俺と同い年とは思えないくらい、まともなことばっかり言うからさ。なんか、話聞いてるとおかしいよ」
「優様が楽しそうだと、俺も嬉しいですよ」
 これが本心なのかただの言葉なのかは、自分自身には意味がない。こんな一言で、喜んでくれる相手がいるなら、それが優ならそういう態度を取るだけだった。
 そういう淡泊さを美咲かなえに指摘されては心配されて、辟易してはいるのだが。
 温は彼女の隣りには、自分よりも神津がお似合いだと思っている。放っておけばどうせ、一生一人でいるだろうあの変人を、美咲なら喜んでその手を取ってくれるだろう。いずれにせよ、気の遠くなるような先の話。
「…温くんも笑って。俺だって、あなたの幸せを望んでるよ」
 環境の変化は、思っていたよりもずっと大きな影響を優にもたらしたらしい。
 それを眩しく羨ましく思いながら、温は力無く笑った。
「俺の願望は、叶ったためしがないんです。期待して裏切られるより、無欲でいる方がいくらか安全だ」
 自分の中で横たわる失望感の理由が、温にはよくわからない。知るのも怖いような気がするし、ずっと蓋をしたまま、いっそ生温く生きていくことを選んでいるのだ。
「俺に期待してよ!甘えて。好きになって…。そうしたら、俺、もう誰にも、温くんを傷つけさせたりしない。絶対、守ってみせるから!ねえ…」
 そんなことを優から言われるなんて思ってもいなくて、温は戸惑う。
 優が戻ってきてからというもの、今までの接し方をさすがに改めようと思って、温はストレス発散のように、その身体に触れるようなことはしなくなった。
 性欲を感じない、という表現が正しいのかもしれないが。…何に対しても。
「ずっとずっと好きなんだよ。わかってるでしょう?俺は強くなる。ずっと温くんに縋っていたけど、一緒に立てるように、頑張るから」
「………」
「俺、温くんのさがしものを知ってるよ。今はまだ教えられないけど、いつか自分が、その宝物に負けないくらいになったら、プレゼントしてあげる」
 さがしものという表現に、何か心が引っかかった。
「優様…」
 自分にもわからないものを、優が知っているはずはないのだ。それなのにどうして、期待なんてしてしまうのか…。
 教えてもらえるなら、それを、優が与えてくれるというなら。
「兄さんの代理に、ね」
「え?」
「捨ててやろうかと思ってた。でも、気が変わったんだ。友達の影響かな」
 優は明るく笑って、好きな人を抱きしめた。されるがままの温にいっそ、何もかもを自分に委ねてくれたらと願わずにいられない。


   ***


 安生探偵事務所、と書かれた表札の前で、矢代は暫く立ちつくしていた。
 どういう顔をして何を言ってこの門をくぐっていけばいいのか(この先に丈太郎がいると意識すると)、考えれば考えるほどわからなくなって、足が動かない。
 丈太郎は什宝会というよりは、この事務所で王崎充と一緒に、信之介の仕事を手伝っている。元々あったこの場所に二人を招き入れたのは信之介で、王崎の扱いを考えていた什宝会にとっても、都合が良かったのだろう。
 一連の出来事における丈太郎の功績を、よくわかっているのは真眼の和ノ宮ゆとりであったから、それが本人の希望ならと、喜んで好きにさせていた。
 矢代はといえばあまり会わないように、顔を見ないようにしていないと自分が、一瞬で丈太郎に埋め尽くされてしまうのではないかと杞憂して、ずっと遠巻きにしているだけだった。
 けれどやっぱり好きなものは好きで、自分の奥底にその感情を秘めていられるかと問われれば、丈太郎に関しては否。会いたくて顔が見たくて声が聞きたくて、その存在を確認したくて、たまらなくて来てしまった。
「何時間、そこに立ってるつもりですか?」
 突然声をかけられて目を向けると、丈太郎の美貌の君(矢代にとっては最早、名前なんて何でもいい)が、怪訝そうな表情でこちらを伺っている。
 大事な人が魅了されていたその圧倒されるような雰囲気は、丈太郎の内から見ていた時だけではなく、今も感じた。彼は特別なんだ、とよくわからない認識をしてしまいそうな類の。
「何か悩み事でも?うちは生憎、そういった…」
「丈太郎くんはいるかな」
 凛とした声音にすら嫉妬してしまいそうで、矢代はそう遮った。その名前を口にしたのも随分と久しぶりだからか、声は緊張で上擦ってしまう。
 長い睫毛が揺れ、王崎の表情が柔らかくなる。
「…矢代さんですね、どうぞ。丈太郎から、話は聞いていますから」
「おれもいつも、丈太郎くんから君の話を聞かされていたよ。昔から、丈太郎くんは君を大好きだった」
「知っています」
 その確信が、矢代には心底羨ましい。
 やがてドアが開いて、仲睦まじい恋人同士の会話のやりとり。
「丈太郎!お客さん。…そうだな、オレは歓迎のケーキでも買ってきてやるよ」
「充。俺たちは、ショートケーキ二つだから」
「ああ。信さんはチーズケーキだったな、オレは食べないが…。それじゃ、行ってきます」
 ごゆっくり。そう声をかけ王崎が去ると、矢代は廊下に膝をついて頭を下げた。
 今すぐにでも丈太郎に逢いたい気持ちと同じくらい、いざとなると恐ろしくなってしまって、どうしようもできなくなったのだ。
 自分が丈太郎にしてきたことを思えば、非難されて当然のような気がする。嫌われたら、なんて考えたら生きていけないような心地すらした。
 丈太郎が受け入れてくれる以外の選択肢なんて、冷静に考えればないように思えるのに、それでも恐ろしかった。受け入れて欲しいから、ここに来たのに…
「矢代さん、そんなところで何やってるんだか。早く感動の再会しようぜ」
 今の俺たちなら、夢じゃなく現実としてちゃんと触れ合えるよ。
 それは優しく甘美な誘いで、抗う理由など一つだって見つけられない。
 そういえば、この状況も丈太郎には丸見えなのだと思い出し、矢代は重い腰を上げた。

 抱きしめた身体は懐かしく甘いような匂いがして、他の誰にも見せない涙が零れてくる。


   了


  2008.12.07


 / タイトル一覧 / web拍手