第二十七夜「奇跡」



 王崎と二人でいると、すべてが満たされているような気がした。それは今まで感じたことのない穏やかさでもって、丈太郎を癒してくれる。
 正体不明の恐怖や不安は氷解し、落ち着いた気持ちで何故か、もう何も心配しないでいいのだと思った。大丈夫だと、自分は愛されていて、そういうことに以前はわかっていたような錯覚をしていたものが、すんなりと胸を通っていく。
 眠る前に、誰かの為に祈りを捧げたのも初めてだった。

 その場所は澄みきった湖で、透明度が高すぎてまるで天空のようにも見える。丈太郎が目を凝らすと、水と思われたその透明なすべては、無数の文字で出来ているのがわかった。その不思議な光景は、丈太郎を圧倒させる。
 文字は無数の情報であった。その一つ一つが何をなしているのか、理解することはできない。ただこの場所は、「違うところ」なのだろうと漠然と思い至るだけだ。
(アカシックレコード…)
 その名前を、知っていたわけではない。どうしてわかったのかは、説明ができない。丈太郎は呆然と立ち尽くし、眩暈を感じて膝をつく。
「丈太郎。あなたの願いを、すべて叶えてあげましょう」
 かつて記憶を取り戻してくれた美しい人が、丈太郎の前で微笑んでいた。
「すべて…?」
「奇跡というものは、時間も、空間も…偽物の概念を超越して行われるものです」
「どうして、俺を?俺は別に…他の人間と何も変わらない」
「あなたが他人と比べて、特別なわけではありません。その目で、王崎充を媒介にして、ここまでたどりついてしまった」
(つまり王崎が、特別な存在っていうわけか?)
「誘いって何なんだ?真眼って?…今のこの、狂ったみたいな世の中は」
「誘いは、あなた方の不安や恐怖が具現化したもの。負の思い込みが伝染して、恐ろしいことになってしまった…。ですが、荒廃はいつまでも続きはしない」
 悲しみを宿した目は、丈太郎の大切な人とよく似ている。彼の幸せを、丈太郎は強く望んでいた。勿論、それだけではないけれど。
「俺は、昔から…周りから沢山のものを、奪って、生きてきた。与えられて…そんな大切なものを、いつも、持て余して。でも、もうそういうのは嫌なんだ」
「そう」
 真っ直ぐに未来を見据えて、丈太郎は強く告げるのだ。
「みんなをたすけてください」


   ***


 和ノ宮邸の一室で、百瀬は何が起こったか信じられず、無言のまま、隣りに座りパソコンを凝視している重松を伺った。
「まさか…。一体、何が起こってるってんだ?システムエラー?」
 重松は呟き、素早くキーボードを叩いて首を振る。その時初めて百瀬の視線に気がついて、言葉を繋いだ。
「システム、異常なし…」
 地図に点々と散らばる、誘いの反応が消失した。それは一瞬というよりは、徐々にその指数を弱くしていき、あっという間になくなってしまった。
「…誘いの一斉浄化?信じられない。シゲ、ちょっと俺のことビンタして。夢かもしれない」
 何の躊躇いもなくバチン!という音と共に、頬に痛みが広がる。文句を言おうと思ったが、重松は真剣な表情で報告してくる、と百瀬を相手にもせず出て行こうとしてしまう。
「シゲ!待って!!」
「ええ?」
 引き止めると、重松は怪訝そうな表情になった。そりゃ、報告しなければいけないことなのだと百瀬にもわかる。ただその感情より、もっと強く…
「今は一緒にいてほしい。怖いわけじゃないけど、こんな奇跡の瞬間に、俺はシゲといたい」
「何それ、告られてんの?オレ。オレがお前にそういうこと言うと、いっつも気持ち悪がるくせに…」
「違いますう!…ただ、この手を離したらいけない気がする。絶対に」
 初めて握りしめた手は、安堵するような温もりがある。
 パソコンの画面では、ニュースのライブ映像が流れ始めた。街中では沢山の光の柱が出現し、その美しさにリポーターが言葉を失っている。杖をつき歩いていた老婆は、その場に正座し泣きながら祈りを捧げている。不思議な光景だった。
「俺、宗教とか全然興味ないけど…祈りたい気分なんだ。シゲは黙ってつきあうべき」
「はいはい。んじゃーオレも、モモの為に祈るよ」
「…ありがとう」
 確かに今、夢のような現実に二人は直面していた。

「みほこ、みほこ!ちょっと、六番テーブルに行ってきて。お冷とおしぼり、ここね」
 洋菓子店〈ディレット〉で、みほこは他のウエイトレスにそう言われ、グラスを洗う手を休めた。
 午前中は、そんなに客の入りは多くない。もしかしたら仲良くしている常連客が来店して、教えてくれたのかもしれない。友達が、顔を見に来てくれたのかも。そう考えると、楽しみで頬が緩んだ。
 お盆の上に載せてあるお冷とおしぼりは、三名様分だ。
「はーい。すぐ行きます」
 六番テーブルは窓際の席で、今はもう来なくなってしまったけれど、あるお客様のお気に入りの場所だった。彼は一人で、あるいは誰かと、よくこの店を訪れてケーキを食べてくれていた。みほこだけでなく、他の従業員も彼のことが好きだった。
「みほこちゃん、こんにちは」
 何も変わっていない笑顔。みほこは矢代と目が合うと、驚いてお盆を落としてしまった。グラスが割れて、水が制服にかかったけれど、頓着していられなかった。
「い…いらっしゃいませ……」
 こんなご時勢だから、てっきり矢代はもう二度とこの店には来られないんだろうと思っていた。つまりもう、生きてはいないのだろうと、何となくみほこは考えていたのだ。
「大丈夫!?」
 矢代にいつも、みほこはドジな失敗ばかり見せている気がする。恥ずかしくなって、顔が赤く火照ってしまう。何を言えばいいんだろう。来店してくれて、また会えて嬉しいと、喜びというより動揺が走る。
 気づいた他のウエイトレスが、てきぱきと片付けをしてくれた。
「あーあ。矢代さんが驚かせるから」
 矢代の向かいに座った少年(みほこも二、三度見たことがある)が、そう苦笑いした。
「そうやなあ。いつでもお前が全面的に悪いとオレも思っとる。正純と同意見や」
「周防さん。僕、そこまで言ってないんですけど…」
「ひどいなあ、二人とも。おれは挨拶しただけじゃないか。挨拶は、人間関係の基本だよ?」
 周防と呼ばれた男の方が、まだ正純よりは馴染み深い。二人のやりとりを聞いて、矢代は楽しそうに笑っている。なんだか無性に懐かしい気がして、みほこは目頭が熱くなった。
「心配してました。もう二度と会えないのかなって、思って。あの」
「ありがとうね、みほこちゃん。…オーダーいいかな?」
「は、はい」
 みほこは涙を堪えようと思ったのに、オーダーの内容がやっぱり矢代なんだと再確認させられて、止まらなくなってしまった。

 楽園の中にも、異変は起きていた。
 誘いによって死んだはずの人間が甦り、まるで何事もなかったかのようにそこに存在しているのだ。不思議と気味が悪いとは、誰も思わなかった。それは自然現象のように、受け入れることができたのだ。
「仁くん…仁くんも、どこかにいるのかもしれない!」
「俺も探そう。見つけたら、すぐ連絡する」
 いてもたってもいられない。美咲の言葉に、温は頼れる返事を返す。
「私なら、ここにいますが…」
「「!!」」
 聞き覚えのあるか細い声に比べ、いくらか強い意思を感じるようになったかもしれない。
 視界に入った瞬間飛びついてきた美咲に、わかるかわからないかくらいの微笑を浮かべて、神津はねぎらうように頭を撫でる。
「伏見くんに、質問があるのですが」
「何だ?」
 こうやって話すのも随分と久しぶりで、再会の余韻に浸る間もなく、神津にはまだやるべきことがあった。
 誰の意思で世界が修正されたのか、わかっている。自分には、それが見えている。
「…御堂くんのことを、覚えていますか?」
「御堂?さあ、覚えがないな…」
「本当にわからないんですか?御堂丈太郎のことを」
 あれだけ執着していたのに。そう続けることはできなくて、視線を落とす。
「お前の脳内友達の名前か?」
 馬鹿にしたような問いかけは、これ以上期待することなどできそうもない。
 それで幸せになれるなら、胸の痛みなど捨て去ってしまった方がいいという判断なのか…。たとえ叶わない無謀な密やかな感情だとしても、抱えていられる方が神津にはマシだった。
「そうですか…。かなえ、申し訳ありませんが、私には所用がありますので失礼します」
「情緒がないよ、仁くんは相変わらず」
 神津にこんな不毛な要求をするのは、昔から美咲くらいのものだ。そのある意味での女らしさに、ところどころ気持ちは癒された。それが自分に向けられていなければ、尚更良い。
「私にそれを求めないでください。ないものは差し出せません」
 そう、誰が相手であろうと。
「神津!」
「…はい。何でしょうか」
 呼び止められて、耳を傾ける。
 やはり、違和感があるのだろうか。幻のような感傷は、完全に消えてはなくならない?
「いや…何か…言おうとしたんだが。…何なんだろうな。気にしないでくれ」
「自分以外のことは全部忘れてくれなんて望んだ人間を、当の本人が忘れるなんて皮肉ですよね…」
 神津は、誰も聞き取れないような小声で囁く。
 おそらく丈太郎は、温の心の平穏を望んだのだろう。思い出を捨てて、幼馴染が幸せになれるのなら。
「何か言ったか?」
「いえ。きっとそのうち、優様もお戻りになられることでしょう。…かなえを頼みます」
 なかったことになったわけでは、ない。ちゃんと神津は、憶えている。
 過去は今に続いているのだと…首筋のこの心もとなさが証明してくれている。


   ***


 一緒に眠ったはずの丈太郎が、目を覚ますとどこにもいなくて王崎は布団から跳ね起きた。自分でもこの動揺ぶりはどうかと思うが、あんな不安そうに悩む姿を見ていたのだから、恋人として心配するのは当然のことだ。
「御堂がいないんです。どこに行ったか、知りませんか?」
 部屋を出て、一番最初に出会った桜内に問いかける。
「御堂?誰のことだ?」
「え…?」
 問い詰めてもどうやら本当に、桜内は丈太郎の存在を忘れてしまっているらしい。その後新尾に同じことを尋ねたが、やはり丈太郎がこの世からいなくなったみたいに感じるほど、桜内と同じ反応だった。
 勝手にいなくなったなんて、そんなこと信じられない。この身体が感情が全部で丈太郎を憶えているのに、そう思って気が遠くなりそうだ。
「王崎くん、ここにいたのか。ちょっといいかい。こっちへ」
「安生さん…。御堂が」
「大丈夫」
 ふらつく身体を支えられ、一室に通される。そこには什宝会副会長の和ノ宮ゆとりがいて、その傍らに、彼にいつも付き従っている観月がいる。
「君にお客様だよ。王崎くん」
 そう告げられて現れたのは、確かに死んだはずの人間…神津を前にして、王崎は絶句した。
「仁、どうして…お前が……」
 死んだはずで、もう二度と会えないと…その悲しみが反芻されて、王崎の頭を混乱させる。生き生きとしているとは言えない表情が、それこそ神津のよく知っている姿なのだった。
 楽園と什宝会には、何かの繋がりがあるのだろうか?安生の時も、思ったことだ。それは直接は王崎に関係のないことだし、機密だろうから深く関わるつもりもないのだが。
「私は一度死んでいるので、足の生えた幽霊のようなものです。充様。またあなたにお会いできたことを、幸せに思います」
「本当に、生き返るなんてそんなことが…?」
 恐る恐る触れてみた体温は、記憶の中と同じ落ち着く低温。
「御堂くんがしたことです。私だけではなく、呼び戻された人間は沢山いるようですね。この世界の軸が、御堂くんが介入する以前と少しズレてしまった」
「悪いが、荒唐無稽な話にはついていけない」
 噛み合わない会話は、懐かしさすら感じる。溜め息混じりに、王崎はそんな風に吐き出した。こうなると、いつも神津は自分の手に負えない。
「ほとんどの人間は、彼のことを忘れてしまいました。ですが真眼を持っている我々は、別です。私たちは、記憶の装置でもある。ご安心ください。充様」
「仁。オレは今、お前の言っていることの半分も理解できない」
 色んなことを一度に沢山言われても、困ってしまう。神津の中では整理されているらしいが、王崎の思考では処理しきれない言葉の数々。
「あなたは、彼を忘れるのかと思っていました。でも忘れなかった…これは、重要なことです。みんなの幸せという言葉に、御堂くん自身も含まれているということですから。安心しました」
 丈太郎のことを忘れるなんて、ありえない。そんな世界は自分にはいらないと、王崎は唇を噛んだ。強く、強く誓ったのだ。傍にいると、ずっとその手を離さないと。
「相変わらずだな、仁…。お前はどうやら、オレの知ってる友達に間違いないようだ」
 有耶無耶にされた色んなことを思い出すと、神津に対して微妙な感情が込み上げてくる。それを殺して、王崎は気持ちを切り替えようと前向きな努力をした。
「…安生さんも、御堂のことを憶えているんだろう?真眼でもないのに」
「そりゃあ、オレの役割は彼の幸せを見届けることだからね。忘れたら、生きている意味がないよ」
「何故?」
 ずっと不思議だった、信之介の意図。
「丈太郎くんを生んだお母さんに、約束したことだ。オレは、約束を守る男なんだよ」
「まさか、アンタは御堂の…?いや、でも…似ていないし……」
 思いついた可能性を否定したい自分がいて、王崎は独り言のように呟きながら首を振る。
 そうなんだとしたら、恥ずかしすぎる。自分たちの関係が、信之介に筒抜けだなんて。
 信之介は笑って、それ以上何も答えなかった。いつも丈太郎の幸せがどうの、と言っているこの男。あながちそれは嘘ではなく、真摯な気持ちなのかもしれない。
「私が、御堂くんのところまで案内します」
 何もかもを見透かしたような目が、王崎を通して別の人間を見ている。
「そしてオレが運転する。完璧な布陣だね、腕が鳴るよ」
「……………安全運転、なんだろうな。確認だけさせてほしいんだが」
 あの悪夢の時間を、思い出したくはないが思い出そうとするだけで吐き気がした。じろりと王崎が睨みつけると、案の定聞き逃せない台詞が耳に届く。
「オレは生まれてから一度たりとも、安全な運転以外のものを経験した覚えがないなあ」
「先にアンタを殴っておきたい、安生さん」
 一瞬芽生えた殺意に正直に、王崎はギュッと拳を握る。
「謹んでお断りしておくよ、王崎くん」
「遠慮しないでいいんですよ」
「遠慮なんてしていないさ。君の美しい指を痛めたなんて知ったら、丈太郎くんに何を言われるかわかったもんじゃないからね。オレは、丈太郎くんに嫌われるのだけは避けたい。それじゃあ、出発しようか!」
「痛い、痛いっ!引っ張らないでくれ…仁、笑ってないで何とかしろ!」
 詭弁で誤魔化されてしまった。
 振り返ると笑う友の顔に、文句が言えなくなって王崎は頬を緩めるのだ。


  2008.09.28


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