第二十二夜「新しい朝」



 新しい朝は、雪の降る寒い日だった。
 丈太郎が目を覚ますと、もう着替えを済ませている正純が、机に向かって勉強をしているのが見えた。正純は和ノ宮邸の書庫にも入り浸っているようだし、勉強熱心で、自分と比べて随分真面目だと丈太郎はぼんやり考える。
「白鳥、おはよう」
「おはよう、御堂。…今日は寒いね、雪が降ってる」
 ほら。そう言って指し示された外の世界があまりにも白くて、丈太郎は身震いした。
「早く止んでほしい」
「御堂は雪、苦手?たまになら情緒があって、僕はいいと思うな」
「雪っていうか、白は苦手な色なんだ…。今朝みたいに一面に積もっていなければ、平気なんだけど」
 ピンク色で塗り替えてやろうか?なんて温は言っていたけれど、実現しなくて本当によかった。その色を見る度憂鬱な気持ちになるものが、二色にならなくて助かった。そんなことを考え、溜息をつく。
(温…)
 王崎は言っていた。温は丈太郎に会いたがっている、と。その王崎は王崎で、今までとは違う関係の進展を、丈太郎に求め始めている…。それは喜ぶべきことなのか、喜んでいいのか?
「なあ、白鳥。今日って、何月何日だっけ?」
 問いかけた丈太郎に、正純は目を見張る。その表情が本当に不思議そうだったので、丈太郎も首を傾げた。
(何か、変なこと言ったか?俺)
「二月八日。どうしたの?そんなこと、今まで聞いたことなかったのに」
「…そう、だな。今までは、気にしたこともなかったんだ。
 気にならなかったし、いつだろうが何曜日だろうがどうでも…よかった」
(新しい朝が来ると王崎が告げたから、その日を知っておきたいと思った)
 長い長い冬、色んなことがあった。あと少し我慢すればもうすぐ、温かい春がやって来る。
「どういう心境の変化かは聞かないけど…御堂、昨日は、あまりよく眠れてないんじゃない?もう少し、寝てていいよ」 
「白鳥は優しいな…。ありがとう。俺、朝は苦手で」
「僕は年下だけど、御堂にとって頼れる相棒になりたいんだ。矢代さんとは、そういう風になれなかったから」
「あ…」
 矢代にとっての正純。正純にとっての矢代…。そして、自分。丈太郎は胸が苦しくなって、微笑む正純から目を逸らす。…強くなりたいと願うのに、こんな年下の少年にさえ敵わない。そんな風に言ってもらえる関係に、いつかなりたいと思っていた。
 同じ時間が過ぎているはずなのに、どうしてこんなに気持ちに差ができていくのだろう?
「あの人は、僕のことを守ろう守ろうとしてくれたけど。別に傷がついたって、男なんだからなんとかするよ。憶えてて」
「ありがとう…。頼りにしてるよ、白鳥」
「まかせて。それじゃ、おやすみ。御堂」
 お言葉に甘えて、丈太郎はもう一度瞼を閉じる。その寝顔を見つめながら、正純は手元の資料に目を通した。
 楽園や誘いに関する資料…沢山ありすぎて、何から手を付けていいかわからないほどだ。だが、何も知らずにいるよりは遥かにマシだと、正純は考えるのだ。
 矢代の時のような後悔は、二度としたくない。無理やりにでも、あの引かれた線の向こう側に入っていけば良かった。そうしたら、周防まで亡くすことはなかったかもしれない。憶測で後悔なんかしても、時間の無駄なのだけれど。
 …気分転換をした方が、良さそうだ。正純はそう思いたち、静かに部屋を出た。廊下で犬上と顔を合わせ、おはようと声をかける。
「はよ。…白鳥、その…調子、どうだ?」
「どうって?普通。いつも通り。そういうお前はどうなんだよ」
「…早く立ち直らなきゃいけないとは、思うんだけどさ。オレは割り切れねえっつーか」
「好きにすればいい。悩んでるのにも、そのうち飽きるよ。大体犬上がそんなに頭使ったら、ショートするしかないだろうし」
「お前は強いよな」
「そんなことない。僕だって…!」
 何かを言おうとして口をつぐんだ正純に、悪いと犬上は頭を下げる。今の正純だって素直な羨望をまっすぐに受けとめられるような、心境ではないというのにいつも、周りが見えない。
「オレ、もっとしっかりしないと駄目だな。少なくとも、そこで八つ当たりしてもらえるくらいの器がないとな」
「…新尾がフォローしてくれるんだから、別にそのままでいいじゃない。無理に、自分を変える必要なんてない」
「確かに、オレは白鳥のパートナーじゃねえよ。けどオレは、お前との関係を変えたいわけ」
「しょうがないから、お前の扱いを、犬から人間にしてあげてもいいよ」
「そういうんじゃねえよ!茶化すなよ、真面目に言ってんだから。オレは…この間から、白鳥が心配で心配で」
「余計なお世話。周防さんが僕を贔屓してたからって、犬上がそれを受け継いだりしなくていいよ。どっちも迷惑」
「あの人のこと、そんな風に言うの止めてくれよ…」
「迷惑だったよ!だって、そんな風だから周防さんは…僕の、せ……で…っ」
 声が震えるのを、どうしても我慢できなかった。瞬間犬上の胸に込み上げてきた感情は、何と表現すればいいだろう。考えるより先に、身体が動いていた。
「な、何…離せよ。どういうつもり……」
 触れ合った温もりから感じるのは、かすかな戸惑い。不安?
「白鳥さ、御堂に惚れてるわけじゃねえよな?あんな、訳わかんない男に」
「…御堂は、好きになっちゃいけない人。矢代さんと同じだから。誤解しないで」 
「オレさ、」
「お前の話なんて興味ない。聞きたくない。離せよ!犬上の助けなんてなくたって、僕は平気なんだから!」
「でも、オレが平気じゃない。白鳥のそんな顔、見たくないんだよ。こう、苦しく…」
「うるさい!お前、何か絶対勘違いしてる。僕は、周防さんの代わりにはならない。あの人みたいになりたくない!」
 うざったいんだよ!心の底からそう叫んで、正純は油断しきっている身体を突き飛ばす。胸が苦しいのは、こっちの方だ。こんな言い方で拒絶したくない。でも、他にもっといい方法を知らない。
「頼れるパートナーの新尾に、かわいい彼女でも紹介してもらいなよ。くだらない話なら、僕に話しかけてこないで」 
「………」
 そんな傷ついた表情で見つめられたって、返す言葉は他にない。苛々しながら、正純は犬上から背を向ける。
 笑えないほどの打たれ弱さは、今の自分には背負いきれないものでしかない。


   ***


 正純が台所に行くと、丁度信之介と王崎が並んで朝食を食べているところだった。
 王崎とは昨日、軽い挨拶をかわしたくらい。丈太郎のパートナーだと信之介に紹介されると、王崎は珍しいものを見るような目をして、よろしくと続けたのだ。
「おはよう、正純。今日はホットサンドだよ」
「おはようございます」
 確かに信之介がついていれば、良いパイプ役になって早く什宝会に馴染むかもしれない。そういう意味では、相棒には申し訳ないが自分は役に立たないと、こっそり正純はそんなことを考える。最近は以前ほど露骨ではなくなったものの、什宝会の人間に、自分はあまり良く思われていないらしいから。
「君は、御堂のパートナーの…。白鳥、だったか」
 丈太郎はこの容姿に惹かれているんだろうか、と思うくらい美しい微笑み。一瞬、正純はそれに見惚れた。すぐに我に返り、誤魔化すように牛乳をなみなみとコップへ注ぐ。いつもの光景に信之介が微笑ましそうな視線を向けてきたが、気づかないふりをしておこう。
「御堂は?」
「昨日、あまり眠れなかったみたいで。二度寝中だよ」
「そうか…」
 夢で会った。あれが共有した現実でなくても、丈太郎がどういう態度を取ってくるのか、王崎には気になって仕方ない。 
「御堂って、学校ではどうだった?」
「久しぶりに会っても、まったく変わってない。マイペースで、つかみどころがなくて」
 自分で話をしながら、王崎は何となく憂鬱な気持ちになる。他の人間といる時と比べて明らかに、自分に対する丈太郎の態度は素っ気ない。あえて取られる距離、ぼやける会話。その全て。もし叶うなら、王崎は自分から、その壁を壊していきたいのだ。
「そ、そう?意外なんだけど」
「意外ということは、ここでは違うということか?」
「割とわかりやすいよ。ひたむきだし」
「御堂と、仲が良いんだな」
「どうかな?仲良くなりたいなあ、とはお互いに思ってるかもしれない。でも、以前は嫌いだったよ。御堂のこと…憎んでた、が正しい表現かな。遠い昔のことみたいだけど」
 あの頃の自分を思い出しただけで、正純は恥ずかしくて情けなくて、どうしようもなくなってしまう。何も知らないで…知らされなかったとはいえ、丈太郎に八つ当たりをして。拗ねて、何もかもが嫌で嫌で。そんな日々はもう越えたから、今はただ、大事にしたい存在だと、丈太郎に対しては思っているのだけれど。
「御堂はあなたのことを、すっっっごく心配してる。そわそわして、…」
 ちょっと、かわいかった。さすがにそれは口に出来なくて、正純は一人頬を緩ませた。
「全然、想像がつかない」
「ふふ。…ところで、さっきから安生さんは何を一人でニヤニヤしてるの」
「ん?いや、丈太郎くんの学校での様子とか聞くのは楽しくて。オレは、二人より短い時間しか彼を知らないしね」
「ちょっと、止めてよ?周防さんと犬上みたいになるのだけは…」
 過去から学ばなければ、と正純は思うのだ。同じことを繰り返すのは、成長していないと同じような気がするし。ただ寂しさで寄り添い合う関係は、なんだか哀しい。
「オレがするのは心配と、サポートだけだよ。丈太郎くんをからかうのは楽しいけどね」
「そうかな。僕には、安生さんが御堂を特別視しているような気がして、ならないから。まあ、周防さんと犬上は、犬上の方が特別な感情を抱いていたわけだけど…。こんな閉塞的な関係の中で、いざこざを持ち込むようなことはしないでほしいだけ」
「正純は真面目だね。相棒想いで嬉しいよ。オレも、安心して見ていられる」
 強いとか、真面目だとか。なんだか自分が面白味のない人間のような気がしてきて、正純は溜息を殺す。それで周りが助かるというなら、いいのかもしれない。性分なんて、すぐに全てを変えることなんて、出来ないのだし。
「僕も年下キャラっぽく、甘え路線に変更しようかな〜。はあ…」
「……………」
「どうせ、似合いません」
「いや。いいんじゃないか、好きにすれば。オレもどんどん頼ってくれ」
 そこで信之介は、ここぞとばかりにどんどんと自分の胸を叩いて、アピールする。
「……………」
「……………」
 微妙な空気になってしまった。
「御堂なら、君に甘えられたらきっと喜ぶだろう。…そのうち、結果でも報告してくれ」
「王崎さん…」
「オレも、仲良くできたらと思うんだ。御堂や、御堂が大切に想う人と」
 さらっと聞き流すにはあまりにも、それは引っかかる言葉の羅列。
「それって、普通好きな人に言うセリフじゃない?…僕、なんか間違ってる?え?」
「…!」
 言葉に詰まり、じわじわと赤く染まる美貌を呆然と正純は見つめ、「御堂は駄目だよ」という言葉を飲み込む。
 どんな意味であれ、矢代は周防を殺してしまった。恐ろしい魔の連鎖は、きっとまだ続いているのだ。救いを求めるように信之介を窺っても、大人は黙って首を横に振るだけ。…どんどん頼ってくれだとか、この嘘つき!そう心の中で悪態をつき、色々な言葉を飲み込んで、正純は続けた。
「安生さんから聞いたかな。僕ら戦闘班の人間は、それぞれ誘いを浄化できる武器を持っている。御堂の愛染は少し特殊で、呪われてるんだ。好きな人間を殺してしまう、殺したくなる衝動にかられる呪いが…。だから、御堂の恋人にはなれないと思うよ」
「…オレが御堂に殺されたら、御堂がオレを好きだという証明になるということか?」
「っ…」
 それが証明になるというなら、周防は報われたことになるのか?周防のことを考えると、犬上とは種類が違うであろう胸の痛みが、正純の中で鈍く疼く。あんな最期が、終わり方が、本当に彼の幸せだったと…?そんなこと、そうなんだとは、絶対に思いたくなかった。
 矢代を失った悲しみは、お互いに越えていくべきなのだと考えていたのに。あんなせつない裏切りはない。
「否定も肯定もできない。…でも、そんなこと、二度と僕の前で言わないでほしい。僕も大事な人を、そうやって亡くしたから。そしてこれからも、なるべくならあんなこと…は……」
「すまない」
「………好きだから殺されてもいい、なんて。頼むから、そんな覚悟はしないで」
 見たくない。丈太郎に同じことをさせるわけには、いかない。
「もう一つ、聞きたいことがある。御堂は、それを知ってるのか?呪いのことを」
「勿論。身をもってね」
「…そう、だったのか。ありがとう、教えてくれて」
 何故か微笑んで、王崎はそう礼を言う。その心情なんて、正純にはわかるはずもない。王崎は今まで一番知りたかったカラクリが、その秘密の開示によって、簡単に解けてしまったような気がした。
 もし、丈太郎が自分を好きだったら…。丈太郎は、きっと距離をおこうとするだろう。王崎を傷つけないように、と。それでも感情なんて、やり過ごせるばかりではないから…。そういう風に紐解いていくと、今まで理由不明だった丈太郎の態度の謎が、すごくスッキリする。
 触れ合った時に感じた、温かくて包み込むような優しさ。それらは、それこそが、隠しようもない丈太郎の本心ではないのか。そうだったら…いいのに。これは願いに近い。
 だとしたら、これから自分の取れる行動は何だろう?考えなければ、なるべく早く。いつ時間切れになってしまうか、こんな毎日を過ごしていたら、あっという間に終わりは呆気なくやってくる。


  2008.02.15


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