第十九夜「水槽破壊」



 自分の目に見えたものが、神津には信じられなかった。信じたくなかった。どうして、という疑問が葛藤に変わる。捨て去りたい人間らしい醜悪さを、丈太郎は神津に引き連れる。
 丈太郎に施された実験は、完全ではなかった。完全ではないということは、しかし欠点にならなかったのだ。自身がどんなに楽園から逃れようとしても、楽園は丈太郎を必要とする。その陰になり、神津はただ情景を見守ることしか赦されないのだ。

 彼を通して、光を見た。

 どんなに神津が焦がれても待ち望んでも、与えられなかったもの。神の視界に、自分は入らない。自分の世界には神がいるのに、振り向いてくださらない。それがどうして、丈太郎には向こうから手を差し伸べる?同じ存在、同じ意味を持つというのに。
 勿論、神津にだってわかってはいる。同一の存在など、ありえない。事実こんなにも違う立場、違うすべて。羨ましい。疎ましい?否、いつか生まれたこの憧れに似た気持ちが、ますます苛々する。
「仁?」
 怪訝そうな発声すら、王崎のものならばそれは甘美で。
 神津は嗤った。丈太郎のことが知りたいと、我が王は申されたのである。…腹立たしい。嫉妬する。こんなにお慕いしているのに、ただのクラスメイトだった人間を異常なほど気にする理由が、わからない。…いや、本当は知っているのだ。神津にはわかっている、見えている。
「お話したくありません」
 弱々しい神津の拒絶に、王崎は驚いたようだった。もう、我慢ができない。気まぐれに振る舞う王崎の何気ない棘は、辛辣に神津の痛みを抉る。
 無理を強いて、楽園を導いてほしいなどと…言える権利など本当は、持ち合わせてなどいないのだ。いつかの未来、羨望とは呼べない幻影が王崎の隣りに見える。そうやって、神津を惑わせる…。
「ああ、充様…。あなたが彼を選ぶことを、私は知っているのです」
 神津は生まれて初めて、自暴自棄というものに身を任せた。禁断の言葉を口にしたその先に、何があるのか…もういい。もう堪えられない。自分一人でこの想いを、抱えるにはもう、重くなりすぎてしまった。一生口を閉ざし、ただの道具となり、盾となり、王崎の傍にいるつもりだった。つもり、だった…。
「何を言っているんだ?仁は」
 丈太郎のせいでなくした感情を、丈太郎のおかげで取り戻し、これからの自分はどうなるだろう?どうしたいのか、どう…なりたいのか。丈太郎は、神津に問いかけた。答えを告げるのは、恐ろしかった。自分の気持ちに向き合って、何もかも晒してしまうことが…。もしかしたら拒絶されるかもしれない、むしろその可能性の方が、はるかに高い。
 神津は、覚悟を決めた。ほんの短い間くらい、せめて我が儘というより正直に、生きてみたい。不思議そうな、王崎の目。好きという言葉では表現できない、表現しきれない。愛だなんて、陳腐すぎる気がする。
「充様。一つだけ、お願いをきいて頂けませんか?」
「ああ」
 その申し出に多少面くらい、王崎はそう返事をした。
「私の髪を切ってください…。髪型は、充様にお任せしますから」
 手入れをする必要もなく、伸びっぱなしだった髪は、神津の閉ざされた内面を象徴していたかのよう。それを変えたい、自分の手で変えてほしいとお願いされてしまっては、王崎も断る理由などないのだ。
 何故なら王崎も、ずっと同じことを望んでいたから―――…。
「後で文句を言うなよ、仁。とびきり格好良く仕上げてやる」
 その時の微笑みこそ、王崎が見たくて見たくて、やまない神津の表情だった。
 神津が目を閉じる。引き出しからはさみを取り出して、王崎はそっと神津の髪に触れた。

『充様をこの目で見て、私の気持ちを告げよう。私は光を見た、そして私にとっての光は』

 その感情は肉声になる前に、正しく、王崎のもとへ届けられた。
「………」
 ようやく、初めて、王崎には気持ちが通じ合ったように思えた。目頭が熱くなり、言葉が出ない。嬉しかった。本当に嬉しかった、神津がずっと自分の感情を押し殺していたのを、王崎は知っていたからだ。そしてもうその道は、完全にすれ違ってしまったかと悲しんでいたのだから。
「仁。目を開けろ」
「ありがとうございます。充様」
 人形のような目が振り返り、王崎を見た。その生気のないような色に初めて動揺を認め、不思議な気分になる。
「…何故、充様は泣いておられるのですか?」
「お前のせいだ。責任を取れよ、仁」
「私が?」
 あの時病院で、神津は王崎を選ばなかった。その時から、王崎に対し言葉でつかえることはなくなった。今までが演技だったのか、何かが変わったのか、王崎にはこの男が一体何を考えているのかわからない。
 王崎が全てだと言いながら、神津は楽園という居場所から離れることができない。神津が魚だとしたらここは、水槽のようなもの。瓶から出して自由にしてやっても、魚は生きることができない。王崎はさしずめ、餌と表現すればいいのか。…たいして、美味くもないだろうに。
「私のせいだと仰るなら、私は罰を受けるべきなんでしょうね…」
 そんな静かな言葉では、意志が王崎に伝わらない。
「その罰は、オレが決める。仁」
 痩せぎすな身体に手を伸ばし、王崎は自分の腕の中に閉じこめてしまう。冷たいくらいの、いとしい体温。この身体にも確かに血が通っていることを、ちゃんとわかっている。
「オレはただ、お前に触れたいんだ。仁。そして、お前にも触れて欲しい…」
「私にそんな資格など、」
「それは、オレが決めることでお前が口出しすることじゃない」
 もっとこの場に、相応しい会話が、きっと、他にあったかもしれない。この我が儘を、髪を切るというただの行為を、その理由を…知れば、王崎は叱るだろうか?
 髪を切る前の葛藤は、きれいに消えて無くなってしまった。穏やかな気分だった。祝福されたような、幸福感。そしてそれはすぐ先の未来を、何となく神津に悟らせる。それは楽園から解き放たれ、同時に自由を失うことを意味した。
「……………私に、性欲はありません。そういう機能は、私には必要のないものです。ですから、充様に不自由な思いをさせるだけかと。そしてそれは、私の本意ではないのです」
「それも、オレが決める。…どうせ、仁は自分のことなんてわかっていない。でも多分、オレは知ってる。教えてやるから」
 キスというよりは、それは純粋な愛情表現のような気がする。
 だが唇が触れ合う前に、異変が起こった。王崎の目に映ったのは、黒い影。その影は神津を覆い隠すように広がると、顔も無いのに嗤ったのだ。
「神津仁の願いは、叶えられました」
 もごもごと同じ発声が、王崎の耳に届けられる。神津の身体から力が抜け、軽い質量が王崎に力無くもたれかかった。
「誘い…?まさか。仁、仁!仁!!」
「充様。私の髪…を、」
 ぷつりとそんな呟きが、最後にかろうじて聞き取れた神津の全てだなんて、何かの間違い…どんなに揺さぶっても声をかけても、目を閉じた神津が、二度とその呼びかけに反応することはなかった。
 

   ***


 それまでは、神津によって自分が守られていた部分が少なからずあったのだと、王崎は身をもって知らされることになった。
 神津という存在を、楽園と自分の間に挟むことによって、知らなくていいことや聞かなくていいことに王崎は関わらないでいられたのだ…今までは。だが、そんな透明だったバリアは、消えてしまった。大勢の人間が、皆、王崎を知りたがり、王崎に救いを求めようとする。
「充様!」
「充様、楽園の未来にどうか光を…」
「…充様……」
 楽園の中を歩くだけで、そんな思念が気持ち悪いくらいまといついてくる。本来、その人間の身体に触れなければ聞こえないはずの声が、沢山の想いが重なり合い反響して、うるさく王崎の頭に響いてくる。耳を塞いでも、脳へと直接届けられるのだから意味がない。
「いい気味だな」
 そう冷めた目を王崎に向けたのは、一方的な敵意を抱かれているらしい伏見温だ。
 王崎の義弟であり、温の主である優は未だ、目覚めないらしい。学園に通っていた頃から、何となく温は変な雰囲気だったが、神津の存在がなくなると、そのおかしさは目に余るようになってきた。病室から動こうとしない温を無理やり引きずり出したのは、箕輪という広報担当の中年で、お互いの隙間を埋めるには、どう考えても何もかもが不足した関係だ。
 神津がいなくなった、と知ると茫洋とした目は一気に生気を取り戻し、発狂したように温は笑い転げた。あまりにも不愉快だったので、王崎は席を外したのだが、その笑い声はどこまでも追いかけてくるようで気味が悪く、不自然で。その夜は、おかげさまで最低な夢見だった。
「王崎…お前が楽園の王になれば、丈太郎も戻ってきてくれるかもしれない」
「………そんなつもりはない。そんなに御堂が気になるなら、自分で探しに行けばいい」
「餌のくせに偉そうだな。まあ、王の風格としては申し分ないだろう」
「…どっちが」 
 偉そうなんだよ、と言おうとして王崎は口をつぐむ。会話するのさえ、馬鹿馬鹿しくなった。王崎には、他人の感情…たとえば相手に好かれているか嫌われているかを、何となく感じ取ってしまう能力がある。随分前から、温は王崎を敵視していたので、関わらないようにしていたのに。
「伏見が、オレを嫌っているのは知ってる。お互い干渉しないようにしないか」
 それはいい提案のように思われたが、温は眼鏡の奥で笑うだけだった。
「そして王崎も、俺を嫌っていると?」
「好き嫌いを考えたことがないほど、オレにとって伏見の存在は遠いな。学園にいた頃から」
 変人だとは思った。だが、嫌いかと問われればむしろどうでもいい存在。
「丈太郎は、お前のことを好きらしい。嬉しいか?」
 誰も彼もが、王崎に丈太郎のことばかり話す。それを不思議に感じながら、王崎は肩を竦めた。神津も言った、そういうそぶりを丈太郎自身見せたことだって、あったけれども。
「友達の趣味は悪くても、人を見る目はあったってとこか?今の伏見の言葉を、オレは信じる気はない」
「………はじめから、友達なんかじゃなかった。ここはとてもつまらない退屈な毎日で、俺は暇で暇で仕方なかった。丈太郎に会うまでは…俺は空っぽだったけど、丈太郎はそんな俺を必要としてくれた。助けてあげる代わりに、友達になってほしかった。友達になったら、今度は恋人になりたくなった」
「悪いが、興味ない」
 王崎は手を上げて、話を制止させようとする。そんな情報、知りたくもない。嫌がらせのつもりなのか何なのか、温の言葉が留まることはないのだが…
「楽しかった。幸せだったんだ…お前が現れるまでは。お前のせいで、俺たちの関係はおかしくなってしまった!よく寮を抜け出すようになって、変な男とつきあい始めて…あんな胡散臭い奴らにっ」
「伏見の話は矛盾してる。御堂が誰とつきあおうが結構だが、八つ当たりは勘弁してくれ」
 なんだかんだ話を聞いてやっている辺り、自分は本当にいい奴だと投げやりに王崎は考える。だからもう、放っておいてほしい。的確な距離を保ったまま、ずっとこんな変人とは触れ合わないままで。
「力を手に入れたら、もう、丈太郎にとって俺はいらなくなってしまった」
「…お前が、御堂を守っていたとでも?フン。仁の方が、よっぽど頼りになる。男のくせにベラベラと…。そんな風だから、御堂に愛想を尽かされるんじゃないか。再会するまでに、せいぜい自分磨きにでも精を出せばいい。少しはマシになるように」
「再会?」
 虚をつかれたような温の表情は、初めて王崎に対し悪意以外のものを向けている。
「また会うこともあるだろう。…お互い、生きていれば」
 心肺停止。ただ眠っているだけのような男の傍らで、白い服を着た医者はそう、はっきりと告げた。王崎が触れても声をかけても何をしても、二度と神津は目覚めなかった。それどころか、思念すら何の未練もないのか必死の呼びかけに、応えることはなかったのだ…。
 神津が死んだ?あれほど王崎に尽くした男が、あんなに呆気なく穏やかな終わりを迎えるなんて、考えてもみなかった。…考えたく、なかった!
 誘いは、取り憑いた人間の願いを叶え、その代償に本人と周りの人間の命を奪う、という。都市伝説か奇病か、今や日本中に蔓延したカルト現象だ。願いというなら、神津は王崎に髪を切ってもらう…そんなくだらない、ささやかなことが願いだったとでもいうのだろうか?馬鹿馬鹿しすぎる。泣きたくなって、王崎はきつく唇を噛んだ。 
「…王崎がもっと、最低な男だったらよかった。色々酷いことを言って、すまない」
「……………」
 その目に狂ったような光は、いつの間にか失せている。力無く頭を垂れる男に、王崎は黙り込むだけだ。感情がフラフラと…、忙しそうだ。
「お前に魅力があるというのは、どうやら認めざるを得ない。丈太郎が好きになったのも、今なら…わかるような気がする。何より、そういえば…王崎は、優様の兄なんだったな」
「それが?」
 本人にすら、疎まれている血の繋がり。優の可愛いところといえば、顔くらいなものだ。それも、自分に似ているからあまり褒める気もしない。
 温は憎悪していた人間の前に、ゆっくりと両膝をついた。演技ではなく、心の底から神聖な気持ちで。ついに見つけた、と思った。自分の存在意義を、決めた―――…。
「俺は、神津と同じ意見だ。これからの楽園を、王崎と優様にお任せしたいと思っている…。王崎は、楽園の王に相応しい。今までは天根矜持の権力に甘えてばかりだった優様も、目を覚ませばきっと自覚を持って、新しい秩序を作り上げてくれるだろう。…頼む、楽園を救ってくれ。王崎!」
「言っていることに、一貫性がないんだが…。大丈夫か?伏見。疲れているのはわかるが」
 悔しいほど、惚れ惚れするほど、強くて美しい王崎。どんな人間も、いずれその前にひれ伏すだろう…自分のように。賛美し、賞賛し、心酔して。
「…俺は、全部欲しかった。丈太郎も楽園も、優様もみんな。だけど覚悟を決めた、今。俺は楽園を選ぶ。王崎、お前に賭ける。神津が見た夢を、俺が引き継ぐ」
「仁は、他に世界を知らなかっただけだ。あいつはいつも葛藤していたし、最後は…」
 何を考えていたんだろう、神津は?自分のことを想われていたような気はするが、ただの憶測だ。王崎は未だ、神津の死を受け入れることができなかった。理解したら、きっと、堪えられない気がする。

「我らが楽園に、光りあれ!」

 輝きに満ちたその声音に、王崎は言葉もなく俯くことしかできない。何を考えればいいのかもわからず、不満を聞き入れてくれる人間はいなくなり、ただ一人、孤独だった。


  2007.09.16


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