第十三夜「どこにも行かないで」



 丈太郎が姿を消してから、一週間はとうに過ぎてしまった。
 待機と言われ大人しくしていた正純も、さすがに我慢の限界であることを決意する。自分から迎えに行こう、こうなったら。それしかない。決めてしまえば、あとは準備をするだけで。大体、什宝会が楽園に働きかけてどうのという話はどこにいったのか…あれから、周防はその話をしようとする度に誤魔化して逃げる。駄目上司だ。どのくらい駄目かというと、その駄目さが矢代の気に入っていた部分であり、面白くないと思い出す程度。恐らくは、その計画は何かのせいでポシャってしまったのだろう。何かあったのだ…何か、が。
 楽園の内部には、什宝会のスパイが確か向かったはずだった。そいつがミスを犯したのか、何があったのか。策を講じてもどれも塞がれてしまうなら、この手でその邪魔なものを壊すしかない。自分の知らないところで、勝手に死ぬなんて絶対に赦さない。同じ轍は、二度と踏まない。繰り返さない。後悔する前に、自分で動くことを学んだのだ。
 ―――矢代の、死から。時々、あの人は本当に死んだのだろうか、と正純は疑問に思う時がある。ふと気配を感じる瞬間、そんな風に思い返すのだ。穏やかな死に顔を見たし、葬式にも参列したが…そういう形式的なものではない、生を感じる時があった。見えなくてもあのおぞましい刀の中に生きているというなら、どうか、その力で丈太郎を守ってほしい。
「矢代さんは、御堂を選んだんだから…」
 その選択の責任は、ちゃんと取ってもらわないと困る。正純や周防の想いより、あの正直な青年を欲したというのなら。
「…はあ」
 考えているだけじゃ、どうにも何も変わらないのだ。正純は立ち上がり、慎重な足取りで和ノ宮家の廊下を抜ける。脱走ルートは何度も何度も、確認済み。午前二時。この広い屋敷とも、あと五分もすれば暫くはサヨナラだ。
 ああ清々する!心底そんな気分になる。しかし裏門を抜けたところで、蹲る人影が立ち上がり声をかけてきた。周防だ。
「どこ行くんや、こんな時間に。散歩ならつきあったるで」
 うわめんどくさ、この人が一番めんどくさい。そのままを表情にかいた正純が、どう返事をしようかと沈黙を守る。煙草の煙を吐き出して、周防は笑いもせずそんな正純を真っ直ぐに見つめていた。
「邪魔しないでくれる」
「俺はただ、ふっつーの質問しただけやけど?何かするつもりなん」
「御堂を迎えに行こうかと思って。什宝会の他の人間は、みんな薄情みたいだからね」
「今は無理や。あっちに潜っとるシンちゃんも、タイミングを逃してしもた。丈太郎の奴なあ、どうも記憶を消されたらしいねん。什宝会のことを憶えてない。つーか…」
「何それ?」
 どうでもいいけど煙草臭くて、嫌だ。正純は、眉間に皺を寄せる。最近この男は煙草を吸う量が格段に、増えてしまった。矢代が死んだ時の量を、上回るくらい。
「お前のことも俺のことも、きっと憶えてない」
「………そんなの、関係ない。会えば思い出すかもしれない。御堂が忘れたくて、忘れたわけじゃないんなら」
「アイツの気持ちなあ…」
「…何だよ」
 ああ、苛々する。女じゃあるまいし、結論から先に喋ってほしい。
「丈太郎はどうしたいんやろうな。俺はずっと、アイツの気持ちを無視して什宝会に入れようとしてきた。自分と什宝会のメリットの、ために。…本当は、楽園に戻りたかったんやろか?考えてみても、全然わからん」
「あったり前だろそんなの他人の考えなんて簡単にわかれば苦労しないよ、馬鹿上司!」
「………そうやな。俺は、馬鹿やと思うわ」
 虚勢が剥がれた途端に周防は、情緒不安定っぽくなってしまった。それも正純には、ウザイ事この上ない。そういう弱みを自分以外に見せられない駄目加減が本当に、うんざりする。忘れているかもしれないけど、自分はまだしがない中学生で、この男はオッサンと呼んで差し支えないのに。
「僕は行くけど、一生そこで落ち込んでれば。バイバイ」
 グイと手を引かれ、強い力で抱きしめられた。最高に煙草臭い。最低だ!
「なにすっ…」
 気安く触らないでほしい。息苦しくなるほど抱きしめられるなんて絶対に論外、その手が震えているとかもう、残念ながらそんな受けとめる母性なんて持ち合わせていないので、縋られても正直困る。
「行くな。俺の傍を離れんといてくれ、正純。頼む」
「相手を間違えないでくれる?僕は矢代さんじゃない。あの人は、もう死んだし」
「…わかっとる」
「しっかりしてよ。アンタがそんなだと、僕はともかく他の人間が不安に―――」
 いくら人恋しいからって、今一番近くにいるのが自分しかいないからといって…それはない。キスなんて、矢代とさえしたことなんてないのに!コイツ絶対いつか殺す!!マジで殺す今すぐ殺したい。自分の武器を呼び出そうかと右手を空に掲げたら、左手を絡められる始末だ。ああ、殺したい…
「ん…んっっ」
 窒息死させるつもりだろうか。こんな男と心中なんてまっぴらご免、なんだか悔しさに泣きたくなってきてようやく、唇が解放された。思いきり服の袖で拭って、オエッと唾を地面に吐き捨てる。
「気持ち悪〜!何の嫌がらせ!?ほんと、死んでほしいよ」 
 心からそう罵った正純は、言葉もなく静かに涙を流す周防を見て瞠目してしまった。いつか殺してと周防は呟いて、穏やかに笑っている。あ、なんかこれはヤバイ。違う。どうしてこんな目に。どう考えても、自分は損な役回りだ。
「あー、ハイハイ。わかったよ、わかった。部屋に戻るよ、戻ります!もう脱走なんてしません。周防さんの言うこと聞いてあげる。だから、もう…いつものアンタに戻ってくれない」
「ホンマに?」
「僕は、嘘はつかないよ。知ってるでしょ」
 正純〜、と情けなく縋られてまた抱きしめられてしまった。頭痛がする。仕方なく宥めるようにその背中を撫でて、正純は、慰められる距離にいない遠い相棒のことを想うのだった。
 

   ***


 白い世界は温の他に何も映さなくて、ひどく気が滅入る。退屈だった。
 二日目くらいだろうか、ふと唐突に温以外のことを思い出せないことに気づいたのは。丈太郎のその時の気分ときたら絶望的というよりは、あれ?俺はそんなに空っぽだったっけ…。一人の存在で満たされて一杯になってしまうくらいには、と考えたけれども思い出せないのでわからなかった。
(あっちゃんは、大丈夫だろうか)
 丈太郎は自分のことを棚に上げ、隣りで神経質そうな苦しげな寝息を立てる幼なじみを眺めて、溜息を殺す。
(こんなだといつか壊れるんじゃないかな。…これが、壊れた状態なのかもしれないけど)
 普通ではないことは、確かだった。出会った時からずっと長い間、温は丈太郎に優しかった。時折なにか絶望するような、失望するような、そういう気持ちを何度か抱かせたかもしれないが。それでも変わらずに優しかったような気がするというか実際に優しかったから、別に何をしてもいいのだとそこまでは傲慢にはならなかったけれど、ある意味その許容が、丈太郎には怖くもあったのだ。
 好かれていたのは、何となく気がついていた。同じ気持ちを同じだけ、返せないということも。知らない振りをしていれば、うやむやに誤魔化していつかの別れを待っていれば、いいと思っていた。正直言うと面倒くさかった。その好意も、この関係も。だけど、同時に救われてもいたかもしれない。こんな形で破綻するとは予想もしていなかったから、どうしていいのかわからない。
 まるで別人みたいに変わった温は確かに最初怖いと思ったけれど、もしそれが自分に非があるせいだとしたら、こんなに悲しいことはない。責任は取らなければいけないし、そうしたいとも願った。振り切れないけど、一番振り切りやすいというか、最初に捨てるものがあるとしたらこの手だと思っていた。そういう心理を一度だって口にした覚えはないけれど、きっとそれは共通の認識で、だからこそ黙ったままずっと一緒にいることができた。なのに本当に一体どうして、こんなことになったのだろう。
(なんかお腹空いた。ケーキが食べたい。生クリームのケーキ。ショートケーキ…)
 何ならホールでも構わない。そうしたらこの不安な気持ちが、少しだけ拭われる気がする。
 いつから甘いものを取るようになったのか、年を取ったせいで味覚が変化したのだろうか?思い出せない。記憶を手繰ろうとする度に、鈍い痛みが頭の中に薄い膜を張り届かないのだ。
「丈太郎」
「ん?おはよう、温」
 丈太郎がそう挨拶を返せば、温は不機嫌そうな表情で、どうしてお前はそうなんだ。いつも…そう口ごもった。
「そうって、何が?」
「何でも普通に受け入れる。やめろよそれ、やめてくれよ」
 性欲を散々発散したせいか、温は元の温に近いように感じる。それに安堵して、丈太郎は頬を緩めた。精一杯優しく引き寄せて、その額に口づける。受け入れているわけじゃない。ただ、諦めが他人よりは早いだけだった。
「ごめん」
「救いがないよ、お前も俺も。だから、」 
「うん。ごめんな…」
 別に、救われたいなんて一度も思った事なんてない。どうせ呪われてる、そんな諦めがこびりついて離れない。もうどうしようもないけれど、普通の人生というものを、送ってみたかったなあと思う。普通の家庭で生まれて学校というものに通って、人を好きになって結婚して、どこかの企業に就職する。笑ってしまうほどそれはおとぎ話でしかなく、想像するだけ虚しかった。
 こんな優しい声で頷きながら、自分は、どうやってここから逃げ出そうか考えている。気が済むまでは付き合うつもりで、でもそれが終わったらその瞬間、こんなところからは消えてしまいたい。そこからの行き先なんて、その時考えれば良かった。白い色は本当に嫌いだ。
 丈太郎の気分は本当にムラが酷くて、ただそれを悟られないように平気な振りをするのも割と得意だった。感情を殺すのは得意だった。そうしてそれを悟られるくらいには、温とは長い付き合いなのだ。
「何を考えてるんだ、丈太郎」
「苺のショートケーキが食べたい」
 何気なく口にした願望は、何故か温の意にそぐわなかったらしい。小気味良い音が左頬で鳴って、ああ殴られたんだと自覚するまで暫く時間がかかった。
(何でだよ。ショートケーキくらいいいじゃん…。スイッチがよくわかんね。めんどくさい。あっちゃんの馬鹿)
 呆然としたまま、文句を頭の中に羅列するくらいは元気を取り戻していた。
「甘いもの以外なら、持ってこさせる」
「…飴でもいいんだけど、俺、糖分が欲しいです」
「コレでも舐めてろ」
(あっちゃんて、本当ヘンタイなんですよね。もうそれいらね…)
 下半身を突き出されたところで、もう、本当、ずっとしていたのだから勘弁してほしい。
 身体中が妙に痛いし、何ならもうこのまま一生セックスなんてしなくてもいい。丈太郎はごめん無理。青い顔をして精一杯拒否すると、俺を殺したいのか?温は。そう続けた。
 昨日温は、やりすぎて勃たなくなった丈太郎に、無理やり催淫剤を飲ませたのだ。信じられないことに、だ。あんまり思い出したくないが途中から、教授が混ざっていた気がする。親子丼?3P?
『や…も、やめっ…ぁ…温……っ』
 無表情で、この行為を教授に見られているのが堪えられない。丈太郎はシーツを握りしめ、腰を振る温にそう懇願した。熱のこもった双眸が、本当に気持ち悪い…。
『嫌、嫌だ…!抜いて、もう、俺、』
 教授にだけは、楽園の研究員にだけは…死んでも見られたくなかった。知られたくなかった。自分のこんな一面を、教える気なんてなかったのに。屈辱的だった。
 温は黙って、丈太郎を宥めるように優しく尻を撫でる。記憶を無くして無理やり犯した時よりも、明らかに今の状況の方が、丈太郎には堪えるらしい。こんなクソ親父でもセックスのプレイには役立つものだと、唇を歪めた。
 ずっと負い目があるからだろう、丈太郎はずっと温に抵抗などしたことはなかったのだ。新鮮だ。興奮する。ずっとこの身体と、繋がっていたい…。
『イイって言うまで止めない。俺は丈太郎を、気持ち良くさせてあげたいんだ』
 そんな風に嘯いて、萎えたペニスを緩やかに擦る。本当に嫌なんだろう、丈太郎は形振り構わず滲んだ声で返事をした。
『い、よぉ…気持ちいい、温の……!』
 要するに早く止めてくれ、だ。温はそう解釈し、ことさら律動のスピードを遅くする。意地悪いと思うが、こんな可愛い丈太郎はなかなか見られたものではない。必死で、素直で、わかりやすくて…。丈太郎のすすり泣く声。根元までペニスを押し込んで、温は動きを止めた。
『教授に見られることが、そんなに恥ずかしい?…そうだ。一緒に参加してもらえば、丈太郎も平気なんじゃないか。3Pなんて初めてだろ?』
『嫌だ!!』
 ほとんど悲鳴のような叫びに、温は嗜虐心が煽られる。自分の知らない丈太郎がもっと見られるかもしれないと思うと、それを試したくなってしまった。
『温、お願いだから…!俺、何でもするっ……でも―――』
『随分と嫌われたものだね?私も』
 近づいてくる教授に怯えた表情で、丈太郎は固まってしまった。何でもするなんていう条件も魅力的だったけれど…目の前の餌に、手を出さずにはいられない。
『しゃぶって。歯を立てたりなんかしたら、どうなるかわかってるね?何度も私の期待を裏切って、失望させないでくれ』
『………』
『丈太郎、口を開けるんだ。できるだろ?』
 汚らしい。大嫌いだ…丈太郎はそう思って、目の前の不愉快なものから、ふいと顔を背けた。怒りに満ちた問いかけは、もはや温を喜ばせるだけ。わかっていても、気持ちを告げずにはいられない。
『俺が教授にフェラすることが、お前の望みなのかよ。温』
『勿論、俺だって丈太郎を独占していたいさ。でも、教授だってお前のことが大好きなんだよ。俺には教授の血が流れている。つまり、そういうことじゃないか?』
 言っている意味がわからない。もう、諦めるしかないようだった。死ぬよりマシだ。生きていれば、こんな瞬間を忘れるような幸せにまた出会えるかもしれない。死んでしまったら、そこで終わりだ。死にたくなかった。
 丈太郎は覚悟を決めた。上手く立ち回る必要がある。冷静になって、自分に有利に働くように。少しでも、だ。まるでいとしいもののようにペニスの先端に口づけると、教授は驚いたようだった。当然だろうが。どうせ、技術なんて期待されてはいないのだから…丈太郎は、控えめに舌を絡める。
『そう…いいこだね。あ、ああ……』
『丈太郎…、俺の丈太郎…!』
 盛り上がる親子には悪いが、丈太郎は必死で薬の副作用の吐き気と戦いながらペニスを飲み込む。上下に揺すられ、気が遠くなりそうだった。
 丈太郎のぎこちないフェラチオに焦れたのか、教授がペニスを押しつけてくる。脂ののった、と表現するには少し不健康な肉体。奉仕させられている、と意識すると胃がムカムカして潰瘍ができそうだ。妻に逃げられ普段は枯れているような風情のくせに、さすが温の父親だ。
 色欲というよりもむしろ、反乱分子である自分が傅いている、という状況が教授を興奮させているのだろう。
『…んぐ…は…むっ……』
 段々身体が熱くなって、頭がぼんやりしてくる。その変化に気づいたらしい温が、満足げに何か喋っているのが遠くから聞こえた。根元から先端へ、指がねっとりと丈太郎のペニスを弄んでいく。
『気持ち良くなってきたみたいだな。ここも勃ってきた…』
『ひぁっ!』
 丈太郎の意志に反して、身体は勝手に快楽を求め反応をし始める。じわじわと…。
『交代しないか?温。私も、丈太郎のお尻を味わいたいのでね』
『…ゃ、だ……温…っ』
『大丈夫、丈太郎。俺がいるから、怖くない。な…?』
 温はペニスを引き抜くとベットで仰向けに寝転がり、自分の上に丈太郎が覆い被さるよう指示をする。嫌悪感と不安で怯えきったその表情に、温はドキドキした。こんな可愛い顔が見られるなんて、刺激を求めてみるものだ。
『アッ…み、見るな…!見ないで……ぃゃ…』
 尻を広げられ、教授に好奇な視線を注がれると、丈太郎は真っ赤になって震えだした。
『温、温、温…!』
『丈太郎…。ほんとに可愛いよ、キスしよう?』
 温は貪るように舌を絡ませ、丈太郎の乳首を摘んだ。その度に反応を返す身体、キスは涙の味がしてしょっぱい。まるで初めて犯すみたいで、最高の気分だった。
『私に見られて、いやらしい孔が期待にヒクついているようだ。淫乱な身体に育ったんだねえ。腸が煮えくりかえる思いだよ』
『違―――ん、んぅ…ぁ、アアッ……』
 なぞるように舐められて、丈太郎は火照った身体をビクつかせた。入り口でわざと焦らすように舌をこねられ、涙がぼろぼろ零れて、止まらない。
『…ァアン…いっ、や…やめっ…て下さい…!ア、ア、教…授っ……』
『やっと私を呼んでくれた。ご褒美をあげよう、たくさん声を聞かせてくれ。可愛い丈太郎』
 アナルの中に、深く指が挿れられる。丈太郎のいいところを探すべく円を描くように掻き回すと、逃れようとした身体に、温が抱きしめて離さない。
『丈太郎、教授の指だけでイッちゃう?ずっとイキたいんだろ?本当は。我慢しなくていいよ。丈太郎のエッチなところ、いっぱい教授に見てもらおう。ね?』
『挿れるよ。すぐに終わらせるのは勿体ない。時間をかけて、私を感じてもらうからね』
『あ…はぁ……ん…』
 官能に堕ちた甘い喘ぎには、もう抵抗する気力がない。
『繋がった。わかるかい?丈太郎。私と、一つになっているのが…。当たるだろう?グチュグチュ音が鳴ってる。聞こえてるね』
『…あ、あ、イク…!…ァン、アン…、ぁああああん』
 温がキスをしてきて、いっぱい出たねとか、言われたような気がする。それから先のことはあまり、憶えていない。
(思い出したら吐き気がしてきた…。あークソ!)
 最低。最低すぎるそんなの、何もかもが。もう本当、セックスなんてしたくない。
 一生潔癖に生きてみたい。プラトニックなラブ?それ、どこにあるんだろう。探せば見つかるんだろうか。精神的な幸せっていうやつは…。ああ、旅に出たい。ここから逃げ出したい。
「丈太郎」
「何」
「俺はただ、お前にどこにも行ってほしくないだけなんだ」
 …こんな風に、なる前は。その言葉を口にしないことで、温は丈太郎を引き留めていられたのだ。今ではそんな効力も失い、お互いの関係はより不安定で、強く縛り付けているはずなのにどうしてこんなにも丈太郎はこの腕の中から離れていきそうな気がするのだろうと、温は不思議に思う。わからないなあと、丈太郎はもう温の相手をするのを放棄して目を閉じた。わからないことだらけだ。
(もしも殺されそうになったら、温を殺してここから逃げる。…温を殺す?できるわけない)
 温が自分にとって大切な存在ということに、変わりはない。ただ受けた扱いが納得いかないというのなら、お互い様なのかもしれない。いずれにせよ、耐えていれば、いつか必ず隙ができて逃げ出すことは可能なはずだ。温をおいて、外の世界へ。
(俺、最低なのかな。こんなこと考えるなんて)
 すぐにお互い様かな、とそんなことを思い直して唇を歪める。誰かのものになるなんて、冗談じゃなかった。それが温相手だとしても、だ。自由こそが、生きている証。
 昔よりは随分と、神経が図太くなっている気がする。きっと色々あったのだろう、思い出せない記憶の中に。
(…?)
 突如訪れたヴィジョンは、見惚れてしまうほど造形の整った男の姿だった。その男は疲れているのか物憂げな表情で、膝を抱えている。映画に出てくるような、華やかなオーラが沈む。
 とても大事な人のような気がしたのだが、やはり何も思い出せない。きれいな唇が、確かに自分の名前を呼ぶのを丈太郎は不思議な気持ちで眺めるのだった…。


   ***


 部屋から出ることは、赦されなかった。まだその時期ではないと神津は言い、命の恩人に王崎は大人しく従うことにしたのだ。
 考えなければいけないことは膨大にあるような気がするのだけど、鬱屈した性欲の前に全て消えてしまう。そんな些細な欲望が叶えられようとドアが開いた瞬間に、本当に一瞬で、それらは萎えてしまった。
「名前は美咲…、だったよな」
 神津が王崎の前へと連れてきたのは、もう遠い日に現れたような気がする転校生。確かに魅力的だとは思うものの、知り合いじゃない方がよかった。そう思い、王崎は溜息を殺した。
 どうして彼女なのだろう?いや別に、文句があるわけじゃない。心底、不思議なだけ。
「どうしてここに呼ばれたか、君は意味をわかってるのか?」
「はい」
 むしろ王崎の方が、教えてほしいくらいだった。緊張した面持ちで返事をし、美咲は震える手でブラウスのボタンを外し始める。
「待って。いい。何もしないそんな気分じゃない!…それよりも、話し相手になってほしい」
「私は、構わないですけど…」
「敬語もやめてくれ。普通に、話したいだけなんだ」
「…私でいいの?」
「ああ。だから、そんなに緊張しないでくれ。今ここで何が起こっているのか、教えてくれると助かる」
「仁くんは、あなたに何も言わないの?」
「………言いたくないらしい」
 僅かに王崎が狼狽したのは、自分以外の人間の口から、神津の名を聞いたから。どことなく親しそうな響きを持っていた。意外どころか驚きを感じ、王崎は瞬きをして美咲を見る。
「私、御堂くんと会ったよ」
 またこの名前だ。妙に巡り合わせがあるというか、王崎の行くところに丈太郎が現れる。考えてもわからないから放棄していたのに、それさえも、状況は認めないようだ。
「御堂は、楽園の人間なのか?」
「温くんの話では、出戻りなんだって。御堂くんは。楽園の出身者だけど、ずっと離れていたみたい。でも、そういう人は別に珍しくも何ともない。人は変わるものだし、原点に帰りたいという気持ちもわかるし」
 透明な言葉をぼんやりと聞き流し、王崎はそれで、と先を促した。丈太郎のみならずどうしてそこで、温が出てくるのか。いちいち、追求する気にもなれない。
「楽園は何をしている?天根矜持がいなくなったんなら、これから先君たちはどうするんだ」
「あなたがいるじゃない」
「は?」
「あなたはいずれ、楽園の王になるんでしょう?」
 事件はいつも、自分の知らないところで勝手に起こるものだと王崎はすっかり諦めていた。知らないところで起こるくせに、その大事な部分で自分が関わっている。そういうのはもう、嫌だ。
 こういう冗談はどうだろう。こういう現実はどうだろう。…ああ、笑えもしない。友達の背景を受け入れるということと、自分の人生における何かを許容することは。違うだろう?そんなのは。…答えるべき人間は、今、この場にはいないのだけど。ああ、やりきれない。

 ただ、胸が痛かった。


  2007.01.25


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