第一夜「一緒に帰ろう」



 王崎充が倒れている。

 粉雪もちらつくこの寒い中、学生服に身を包んだ華奢な身体が、道路の脇に捨てられたように放置されている。御堂丈太郎は歩く足を止め、訝しげに周りを見渡すと、転がる身体にゆっくりと近づいていった。
 その景色の全てが、あまりに静かだった。だからかもしれない。暗い空気も、誰かの悪意も、丈太郎が感じられなかったのは。
 俯いたその人間が、何故王崎だとわかったのか…。王崎の派手な癖のある金髪を、丈太郎が見間違うはずもないのだ。無駄な贅肉のない肢体は、マネキンが転がっているように見える。
(…よりにもよって王崎、か)
 小さな溜息は、白く空気の中に舞い上がる。
 丈太郎と王崎は同じクラスだが、何かと折り合いの悪い仲なのだ。かといって、いつまでも王崎をこのままにしておくわけにはいかない。気を失ってどれくらいの時間が経っているのか、ただでさえ線の細い身体は冷たくなっていた。
「おい、王崎。大丈夫か」
「…ん……」
 丈太郎が言葉をかけると、止まっていた空気が揺れて、嫌味なくらい整った顔が、怪訝なものへと変化する。こうしている間にも、二人の傍を何台か、救急車やパトカーのサイレンが通り過ぎていった。路上でのんきに夢なんて、見られるようなご時世じゃない。
「王崎、起きろ。残念ながら、ここはベットじゃない」
「っ!?」
 丈太郎が遠慮無く頬を叩いているうちに、王崎は目を見開き身体を強張らせた。
「よお。何してんだお前、こんなところで」
「触るな!」    
 振り払われる瞬間に爪先が、丈太郎のコートを引っ掻ける。
 その様子がまるで、身体中で威嚇する上品な猫みたいで、丈太郎は思わず溜息を殺した。好かれていないのは自覚があるにしても、この場合、感謝されていい状況ではないだろうか?
「はあ、開口一番ソレ?…ま、王崎起きたし、俺も帰るとするか。じゃあな」
 文句は、腹の中に押し込める。飲み込んで、殺してしまう。今までも、そうしてきたことだ。なるべく関わらない。それが、王崎に対する丈太郎のスタンスだ。その方が、お互いに平和でいられるのだし。
「御堂っ!」
 思わず振り向いてしまったのは、あまりにも頼りない声で呼ばれたから。
 不本意だが、丈太郎は困っている人間を見ると、放っておけない性分だ。そういう教育を、ずっと受けてきたし。
「何」
「いや、その…。オレは……」
 いつも自信に満ち溢れ他人に囲まれた王崎の、不安そうに揺れる表情。感じたことのないようなその空気は、丈太郎にどこまでも違和感を与えた。いつでも毅然とした態度で、人の中心に君臨しているあの、王崎が。
「変質者にでも襲われたような顔してるぞ、王崎」
「そういう冗談は止めてくれ。お前、これからどこかに行く用事でもあるのか…?」
 からかいにも反応せずに、震える唇がそう丈太郎に問いかける。声は、掠れていた。
「いんや。寮に帰るところですけど」
 タイミングが良かったというべきなのか、悪かったというべきなのか…。
 丈太郎は洋菓子店のシュークリームを買いに出かけて、その帰りに王崎を見つけたのだ。
「オレも、一緒に帰っていいか」
 聞き間違えたのかと思うような、しおらしい口調だった。
「んまあ!日頃アレだけ、ボクを毛嫌いしていらっしゃる王崎クンが、一緒に…」
「嫌ならいい…」
 なんだか今にも泣き出してしまいそうで、丈太郎の調子も狂ってしまう。プライドの高い王崎のセリフとは思えない、それも、消え入りそうな声。
「同じ寮なんだし、俺は構わないぜ」
 笑いもしない顔は一応は安堵したらしく、王崎は吐息をついた。
「………」
 気まずい沈黙が、二人の歩く雪道を包む。
 俯きがちに隣りを歩く王崎の横顔を盗み見て、丈太郎は眉をひそめた。
(…妙だな。そんな態度を取られたんじゃ、心配になってくるだろ)
 王崎は元々端麗な顔立ちをしているせいで、大人しくしていると、儚げな印象さえ他人に与える。そこを上手く利用しているというか、自分をわかっているというか、甘え上手で横暴で、男女関係なく虜にしては、いつも話の中心にいるような人間なのだ。
(取り巻きもいないみたいだし、一体何があったんだか)
「…偶然なのか?御堂が、オレを見つけたのは」
「偶然じゃなきゃ、何だっていうんだよ。俺は、お前のストーカーじゃない」
 ぽつりと問いかけられた言葉に、素っ気なく丈太郎は返事をする。
「……御堂って、他の奴には優しいくせに、オレには冷たい態度を取るよな」 
 非難するような拗ねたような目が、丈太郎を見上げた。
「被害妄想だ」
「そうかな…」
 これだから、扱いにくいことこの上ない。
「俺が優しくしなくたって、王崎にはたっくさん、甘やかしてくれる人間がいるだろうが」
 それこそ、掃いて捨てるほどに。丈太郎がそう唇を歪めると、王崎はますます小さな声になってしまった。
「オレは、アイツらに好かれてるわけじゃない」
「は?」
 その言葉の真意が、丈太郎には理解できなかった。
「……………」
(今度はだんまりですか、と…) 
 丈太郎は歩く足を速めて、隣りから目を逸らす。一刻も早く、王崎の傍から離れたい。無意味に傷つける言葉ばかり、話してしまいそうになるから。流れる景色が、目に入らない。隣りが気になって仕方ない。どう接していいか、わからない。気まずい空気のまま、二人は学生寮へと戻る。門限の八時には、どうやら間に合ったようだ。
 廊下を抜けてこちらへと駆けつける足音に、丈太郎は視線を向ける。
「丈太郎!」
 伏見温が、眼鏡の奥でホッとしたような笑顔を見せた。ロビーに、他に人気はない。丈太郎のことを心配して、待っていてくれたのだろう。
 今や学校と名の付くものの、殆どがそうであるように…丈太郎たちの通う、私立翠蔭(すいいん)学園は全寮制だ。翠蔭学園はセキュリティの厳しさが有名なのだが、外部からの侵入には神経を尖らせても、生徒たちの外出に関しては寛容な方だ。門限を過ぎれば、厳しい罰が待っているが。
「丈太郎、どこに行っていたんだ。探して…って、王崎と一緒だったのか!?」
 丈太郎と王崎を見比べ、温は大声をあげる。
「たまたま居合わせただけだ、あっちゃん」
「へえ。珍しいな」
(ま、あっちゃんが驚くのも無理ないか)
 当の本人である丈太郎も、何となく変な感じなのだ。王崎は、二人の会話内容など興味がなさそうに、だが何か言いたげな複雑な表情をしていた。
(俺に礼でも言うつもりなんだったら、少しは可愛げがあるんだけどな)
 自分の妄想に、丈太郎は笑いを噛み殺す。
「王崎、おやすみ」
 丈太郎が声をかけると、
「…おやすみ」
 小さい声で返事をして、やがて王崎の姿は見えなくなった。


   ***


 部屋に戻って、電気ストーブのスイッチを入れる。
 丈太郎はシュークリームを一つだけ皿に載せ、緩慢な動作でそれを口に運んだ。
「ニュース速報が流れていた。また、“誘い(いざない)”が事件を起こしたって」
 テレビをつける気にもならない。暗いニュース、得体の知れない何か…画面は、混沌とした世相を映すだけだ。丈太郎は溜息をつき、ウエットティッシュで指をきれいにする。
「本当、物騒な世の中になったもんだよな」
「丈太郎が、アレと出くわさなくて良かった。いつも言っているが、十分に気をつけてくれ」
「わかってる」
 もうお互いに、口癖みたいなやりとりだ。
 丈太郎と温は、幼なじみである。
 いつからか“誘い”と呼ばれる魔が、深刻な社会現象になってきた現代。誘いとは、自分の陰だ。ふとした瞬間に、影が心に話しかけてくるのだという。
 ―――契約をすれば願いを叶えてやる、と。心が動いた瞬間、その人間は自分の影に、何もかもを乗っ取られてしまう。そうして空っぽになった人間は、他人を襲うようになるのだ。誰かを傷つけることで、自分の存在を証明するかのように。そして、最期は自ら命を絶つ。誘いに取り憑かれた人間は、一見して通常の人間と何も変わらない。だから、厄介なのだ。
 都市伝説めいたこの現象に、政府は一向に、正面から向き合おうとはしない。どこまでが本当で嘘なのか、誰も真実を知らない。ただ、いつの時代にも商魂逞しい輩はいるもので、「誘いに打ち勝つ」という目標を掲げる胡散臭い宗教がはびこり、効き目のなさそうなグッズや本が、飛ぶように売れているのである。効果があるのかないのか、時代に便乗したカルト的な事件も多発する始末だ。
 そんな時この問題を解決しようと、発起した人間が何人か現れた。丈太郎はその中のある男と運命的な出会いをし、誘いと関わる羽目になってしまった。
 妖刀「愛染(あいぜん)」を使い、誘いを浄化するという面倒極まりない「お仕事」。成功し誘いを浄化すれば、その人間は自分を取り戻すことができる。…だが、そんなことは稀に等しい。大抵の人間は精神を誘いに食らい尽くされて、自我を取り戻すことができない。精神病、何らかの後遺症…病院送りになる場合が、殆どだ。その、後味の悪さといったらない。
 丈太郎が浄化した人間は、半年の中でたったの一度だけだ。同じ立場の仲間(と、呼んでいいのかはわからない)から落ちこぼれと噂されるのも、しごく当然の道理だった。第一丈太郎自身が、居るべき組織に属していないはみだし者。温はそんな丈太郎の事情も含め、何かと協力してくれるありがたい存在なのだ。
「それにしても、王崎と一緒に帰ってくるとは驚いたな。何かあったのか?」
 温が、丈太郎に探るような目を向けてくる。
「いや…」
 視線を逸らし言葉を濁す丈太郎に、温は唇を歪めた。
「話したくないなら、いいが」
「あっちゃんが、心配するようなことじゃない」
 表情を見られたくなくて、丈太郎は皿を洗いに台所へと向かう。温は、何かと王崎のことを意識しているのだ。それは丈太郎自身がそうであるからなのだが、つっこまれる度、余計にその事実を認識させられてしまう。
「ふうん…。なあ、いい加減その、あっちゃんって呼び方を変えないか?」
 背中から、これまた聞き慣れたご要望が丈太郎に届けられた。
「あっちゃんはあっちゃんだろ」
 眼鏡男に「あっちゃん」はないだろうと自分でも丈太郎は思うのだが、いかんせん習慣化しているし今更「温」だなんて、眼鏡のくせに格好つけすぎじゃないかとか、とにかく気が進まない。温の申し出も何度目かのもので、丈太郎が同じ反応を返すと、不満そうにフレームを弄るのだ。
 大体、どうしてそんなことに拘るのか。丈太郎としては、この生温い関係まで変化してしまうような気がして、そう呼んで欲しいと言われれば言われるほど、頑なに拒否をしたくなってしまう。…何となく。特に変化なんて、丈太郎は望んではいないのだ。
「それはそうなんだろうが…」
「あっちゃん、俺はもう眠い。部屋に戻ってくれ」
 つれなく追い返そうとする幼なじみに、慣れた態度で温は肩を竦める。
「シャワーくらい浴びて寝ろ」
「わかってるって」
 欠伸をしながら聞き流す丈太郎も、いつものやりとりだ。
「ちゃんと、鍵も閉めて…」
「ハイハイ」
(…本当、あっちゃんはうちの親より口うるさい)
 昔から、温は丈太郎に対して、妙に過保護なところがある。家族でもなければ、自分は可憐な少女というわけでもないというのに。…まあ、それなりの事情はあるのだけれど。
(それで助かってる部分が、なきにしもあらずだけどさ)
 呼び名で口論する気など、毛頭ないし第一、不毛だ。温の期待している何かには、到底応えられそうもない。
(就寝時間には早いけど、もう…眠いし……)
 欠伸をしながら、涙を拭う。鍵を閉めようと手を伸ばした丈太郎は、ドアが独りでに開いたので瞬きした。まだ眠ってもいないのに、夢を見ているようだった。

「入っていいか?」
 来訪者…王崎は返事も聞かず、部屋の中に勝手に乗り込んでくる。すれ違う際シャンプーの匂いが、丈太郎の鼻をくすぐった。いい匂い、なんてものじゃない。これは媚香だ。ベットの上に腰かけただけのその動作が、いやにわざとらしく視界に入る。
 王崎が、意味深な微笑みを浮かべた。


  2006.03.13


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