vacances


   act.3(伏見 温)



 キャンプという単語の楽しげな響きは、今の自分とはかけ離れたものに感じる。俺はそう思って、雰囲気に馴染めない自分の頭をむしるようにかいた。
 休暇というよりは、仕事の意味合いの方が強い。優がいる限り…いや、結局は自分の心持ち次第なのだろうけれど。つい周りに責任転嫁してしまうのは、そろそろ止めなければならない悪癖だ。
 手元にあった缶ビールを煽っても、味はもうよくわからなくなっていた。皆で和気藹々と飲んでいた時は確かに、美味しかったような気はする。

『久しぶりだな…、温。元気にしていたか?』
『ああ、丈太郎。俺はいつも通りだ』
 振られてから暫く会っていなかった幼なじみは、俺の返事にほっとしたような表情になる。丈太郎の考えていることは、昔からわかりやすい。きっとそれは俺が彼を好きだからで、よく見ているせいなんだろう。
『会えて嬉しいよ』
 丈太郎は、俺を家族のような視線で見ている。身内だからこそ我が儘が赦されると思ってるような節もあったし反抗期もあったりで、俺が丈太郎に抱いている感情とはギャップが物凄いから、お互いの感覚にズレが生じるのは当然の成り行きだっだ。
 離れて暮らしていた兄弟に会ったようなものなのか。だけど王崎兄弟(この二人も特殊な環境で、比較することがおかしいのはわかっているが)と比べても、俺たちの関係は肉親の情とは違うと思う。
『聞いてるか?温』
『お前が話す言葉だからな。ちゃんと…聞こえてる』
『………』
 からかっているつもりはない。本気で言っているからこそ、丈太郎は反応に困ってしまうんだろう。
『…温。俺はもう、勝手にいなくなったりしない。お前とちゃんと、コミュニケーションをとりたい。逃げないし、思っていることは正直に話したいと思う。これからも、温が俺にとって大切な存在だということに変わりはない。温にだって…そういう風に、思っててほしいんだ。俺は』
 何かに蓋をしながら続けていたなあなあの関係は、俺には死ぬほど気持ちのいいものだった。できるものなら、あのまま二人でずっと微睡んでいられたらよかったのに。
『………ありがとう。肝に銘じるよ』
 そう返事をしてから、見当違いな言葉を返していることに気がついたけれど邪魔が入った。
『丈太郎の幸せに関してなら、オレに任せてくれればいい』
 王崎の傲慢さが嫌いだ。あの自信が、美しさが、自分の卑屈さに拍車をかける。ただこの男なら、丈太郎を必ず幸せにしてくれるだろう。そんな風に思いを馳せると、彼の成り立ちも悪くないものに感じるのだ。

『温くん、俺はあなたに酷いことをしようとしてるのかな』
 俺にあてがわれた部屋のテレビ前で、優はそう言ってこちらを振り返った。このあどけない美少年の純粋さや悪質さは、俺が多分一番よく知っている。
『酷いこと?』
『この部屋のテレビにはね、兄さんと丈太郎さんの部屋が映るんだよ。シャワー室も』
『………優様。悪趣味な方ですね』
 最悪だ。俺はそんな風に言われたら、見ずにいられる男じゃない。
『俺もそう思う。ただ、知っておいた方がいいんじゃないかと思って。あの二人が愛し合っているってこと』
『そんなことはわかって…』
『温くんはうそつき』
 何度逃げようとしても、優は真正面から向き合おうと俺の肩をつかんでくる。無理やりに近い形だが、そうでもしないと俺は重い腰を上げないのかもしれない。丈太郎を想うことで、他の一切の問題を見ないように自分を誤魔化しているのかもしれない。気づきたくなんて、なかったことなのだけれど。
『俺のこと、一人に…して頂けませんか』
 優と一緒に二人のセックスを眺めるなんてことは到底無理だ、出来そうもない。気持ちに負担がかかりすぎる。無言のまま微笑んで、優が部屋を出て行った。すぐにテレビをつける。無人。ホッとしたのもつかの間、戻ってきた二人は早速イチャつき始めるのだった。
 何だこれは、見たくない。辛すぎる。
『あっ、丈太郎…。ベッドに、ここ、じゃ…!』
『ごめん。待てない…挿れたい。今すぐ充の中に、充に、受け入れてほしくて俺……んっ…』
 後ろから王崎を抱きしめた丈太郎は、かつて見たことのない積極さで、早急に恋人を欲しがっている。
『…ぁ、あっ…馬鹿…丈太郎っ』
 わかってない。優の言葉が脳裏に浮かんだ。だけどこんなのは、荒療治すぎやしないだろうか。
『大好きだったんだ…ずっと…。毎回、夢かもしれないって思う。好きすぎて訳わかんない。うう…いい匂いがする…挿れたいよ……充が大好きなんだ俺…』
『ベッドに行こう。もっと…充としたい。足りない、今度はもっと優しくするから。してもいい?』
『大好き。俺は、充と一緒にいられてすごく幸せ』
『充だけだから…。俺が、こんなになるの、お前しか…!好き、充が好きっ…、ずっと…一緒に、いて……』
 充充充充。わかっていたはずだ。充、充大好き、好き、…そんなことはわかっている。
 嬉しそうに、幸せそうに丈太郎が笑っている。俺の知らない顔で、聞いたことのない言葉で声で…。俺はまるで夢を見ているかのように、 呆然と画面を眺めていた。


***


 いつの間にか朝になっていた。特に何も考えず、頭痛のする頭でチャンネルを変える。手に持っていたリモコンを落としてしまったのは、わざとじゃない。
 画面に映し出されていたのは、丈太郎たちの部屋にある、シャワールームのようだった。そういえば、昨日シャワーを浴びるのを忘れている。一瞬そんな、どうでもいいことが頭を過ぎった。
『あ、はぁっ…丈太郎……!』
 またやってるのか。朝っぱらから?お盛んなことで…。
 毒づこうとして失敗する。丈太郎はどこか楽しげに、ボディソープの泡を王崎にすりつけている。匂いたつのはシャボンの香りだけではない、二人の濃密な空間を朝から見せつけられて疲労感が増した。
『動かないで、充。ちゃんと洗えない。ね?俺に身をまかせて…』
『そんなのはっ、洗ってるって…言わないだろう!…ひゃ…ぁあっ、丈太郎!』
 驚くほど、王崎の痴態には心乱されない自分に笑いが込み上げてきた。絶望も通り越すと喜劇でしかない。
『充、エロくて興奮する…。可愛いよ』
『馬鹿!朝っぱらから…っ、自重、し、ろ!』
『ん…充……充っ』
 愛しげに名前を呼ばれる王崎が羨ましい。
『…あっ…あ、あ、ああっ!』
 見ていられなくて、俺はテレビの電源を落とす。泣きたいような気持ちになっても、乾いた目からは涙一つも零れなかった。
 どんな言葉で説明されるより、確かに、知りたくないことがよくわかった。丈太郎がずっと、王崎に夢中だということも。二人が愛し合っていて、そこに誰かが入り込む余地なんてないこと。沢山のことが、わかった。頭では理解しようとしていても、腑に落ちていなかったことが。
「痛いな…」
 独りごちる。油断しきったところに、頭を鉄鎚で思い切り殴られたような感じの痛みだ。
 誰かが部屋をノックする音がして、返事も待たずに優が溌剌とした笑顔を見せる。この人は本当に何もかもがいつも唐突だ、とそんなことを思った。近すぎて、疎ましくて、大切で…自分には手に余るほどの存在。
「おはよう、温くん。気持ちのいい朝だね!」
 …残念なことに、少しも同意できる要素がない。
「………おはようございます。俺は今日、部屋でゆっくり過ごすつもりです。優様」
「ふうん…。見たんだ」
「その確認は必要なんでしょうか?俺は答えたくありません」
 確信したその態度に苛ついてしまった。視線を合わすことができなくて俯く。
 造型こそ優は兄によく似ていると思っていたけれど、今はそうでもないような気がする。内面の表現方法の違いから、表情が全然似ていないせいなのかもしれない。
「落ち込んじゃって…。慰めてあげようと思ったのにな」
「必要ありません。一人になりたいんです。今は」
「余計なことだったかな。ごめんね」
 俺の感情の逆撫で方を本当によく理解した優は、表面上だけは柔らかく傷を引っかくのだ。
「悪いと思ってないのに口だけで謝るの、やめてくれませんか」
 思わずあたってしまったら、優は微妙な表情を浮かべる。何かに落胆したような、慰めたいような…。
「温くんは丈太郎さんが、世界の始まりで全てだったって言ってた。でも、世界は変化していくんだよ。いつまでもそこに留まってはいられないし、」
「わかっています!そんな…こと、は……。俺にとってはそうでも、丈太郎にとっては違うということだって!だけどそんな、ずっとそうやって生きてきたのに、急にいきなり自分を変えろと言われたって…時間が…俺には、必要なんです」
 最後まで聞いていられなかった。声が震える。優に痛いところを指摘されて、本当に抉られるような痛みを感じたのだ。
「………」
「みんな変わっていく。俺をおいて…、」
 こんな情けない弱音には、自分でもうんざりだ。あの日を境に、確かに世界は変わった。多分大多数にとっては、良い方向に。おめでとう?自分を俯瞰で見た時に、これほど<奇跡>という言葉から剥離された存在はないような気がする。
「俺と一緒に行こう。温くん」
 いつも真っ直ぐすぎるほどの目で、優は俺を見つめてくる。
「………」
 すぐにその手を取る気にはなれない。こうなる前から、ずっとそれを望まれていても。
「別に変わらなくていいよ。今のままでいい。俺はそんな温くんが好きだから。一途で、不器用で、寂しがり屋の温くんがね」
「言ってること、矛盾、してますよ」
 勝手なことばかり。正直者の美点は、俺にとっては有害でしかない。
「だって俺、あなたが振り向いてくれるんだったら…正直、手段なんて何だっていいんだもの」
「もう、放っておいてくれませんか!」
「放ってなんかおかないよ。俺はそんなに優しくない。俺は温くんが欲しい」
 埒があかない。内心途方にくれていると、良すぎるタイミングで控えめなノックの音がする。
「お取り込み中、失礼します。よろしいでしょうか」
 続いてぼそぼそとした声音が、俺たちの耳に確かに届いた。
「邪魔だよ、仁。空気読みなよ。今、俺は温くんと大事な話をしてる」
 神津の返答は、心得たものだった。長年の付き合い、それは俺と優に限った話ではない。
「正純くんが、優様を探しているんです。外を探検したいみたいですよ」
「探検…?正純がそんなこと言ったの?」
 くすっと、おかしそうに優が笑った。俺には容赦ないこの年下の少年は、正純という友達に関してだけは甘くて優しい。楽園内でのいびつな特別扱いとは違って、普通に接してもらえるということの気軽さを、本人は目一杯楽しんでいるようだった。
「正純ってば、かわいいとこもあるんだ。…そうだね、今はそっとしておいてあげるよ。温くん」
「行ってらっしゃいませ」
 頭を下げることで、その表情を見ないようにした。優と入れ替わるように、人間らしくなってきた神津が俺の前へと姿を現す。
「余計な真似でしたか」
「いや…。ありがとう、正直助かった」
 神津が笑ったように見えた。
「優様にも困ったものです。それだけあなたを、愛していると言いたいのでしょうけど」
「お前には見えるんだろう、ああいうことだって。神津の好きな人が誰なのか、他の人間はかなえだと思っているらしいが…本当は」
 直接的な表現をしなくても、充分に伝わったと思う。真眼を持つ神津なら、こんな形でなくても見えてしまうはずだ。
 その目がどういう風に何を見ているのか、明確には俺は知らない。丈太郎もあまり話してはくれなかった。ただその力の強さは、このタイミングの良さが物語っているだろう。
「それ以上、言わないでください。私の感情は、私が自分で理解していればいいことですから。昔との違いを」
 神津はそう、きっぱりと告げた。
「慎ましいことで。お前は、辛くないのか」
「私は幸せです。こうやって、伏見くんまでが私の心配をしてくれる。かなえもそうです。優様は真剣に楽園のことを考え始めたようですし…。充様には丈太郎さんがいて、あの方が幸せに過ごして下さっているだけで、私は嬉しいんです」
 ささやかすぎるだろう。奥ゆかしすぎて涙が出てくる。どれだけ俺は強欲だ?…いや、この男が特別なのだと思いたい。
「俺にはまだ、そんな風に思えない」
「あなたと私は違いますから、思う必要もないでしょう。弱音が言いたくなった時は、私も話を聞きますよ」
「助かる」
 こんな話ができる相手は限られる。似ている立場の無口な神津なら、幾分か話しやすいというものだ。
「…せっかくのいい天気ですから。気が進まないかもしれませんが、外の空気でも吸いに行きませんか。かなえが、川に入りたいと言っているんですけど」
 気分転換に誘ってくれている、ということはわかった。
「かなえが?転びそうだな…」
「私もそう思うんです。ですが、私も一緒に滑ってしまいそうなので…」
 優の話では、神津はキャンプに来るのを嫌がっていたのだという。アウトドアとは全く結びつかない物腰は、確かにこの場には似合わないのかもしれない。誰が行くかというよりも根本的な興味の問題で、ただその弱弱しい否定も王崎兄弟に強引に連れてこられたようだが。
 フォローくらいはしてやるべきなのだろう、友人として。都合のいいことに、今は恋愛と距離をおきたい。
「………確かにな。行こう」
 安堵したように頷く神津は、妙に庇護欲をそそられる。あの兄弟は、神津のこういうところが気に入っているのだろう。丈太郎とは少し離れてしまったが、昔近くにあったものを俺は取り戻しつつあるようだ。

 外の光が眩しくて、俺は一瞬目を細めた。
 俺たちに気づいたかなえが、嬉しそうに手を振ってはしゃいでいる。そのうち、丈太郎たちも来るのかもしれない。
 …さっきより、大分平気になっている自分に気がついて唇が歪む。何も感じなくなる日が来るとしたら、それはもう生まれ変わった、自分とは別の生き物だ。そんな風に思った。
「大丈夫ですか?」
 俺の気持ちを、察したとでもいうのだろうか?何に対してなのか、ぽつりと隣りから声がかかった。
「ああ。俺たちも、夏を楽しもう。仁」
「………………」
 まじまじと見つめられても困る。
「そこで無言になるなよ。俺も照れるだろう、何とか言え」
「…私はまた、温くんと呼んでも」
 嬉しいというよりは、どこか呆然とした様子で神津…いや仁は、確認をするようにそう続ける。
「是非そうしてくれ。…かなえ!お前、転ばないように気をつけろよ」
「温くんの言う通りですよ。かなえは結構、危なっかしいところがあるんですから」
「!!仁くん、今っ…」
 ナイスリアクションだ。仁の白い頬が赤くなっている。これを人数分繰り返すのだろうか、想像すると可笑しかった。あの兄弟の格好の餌食にされることが目に見えている。
「かなえ。恥ずかしいからいちいち指摘しないでくれって、仁が顔で訴えてるぞ」
「そんな解説いらないです。何なんですか、もう」
 からかわれて怒りだすあたりが、まるで萌えキャラの行動みたいでそのギャップに笑いがこみ上げてきた。ついこうやっていじってしまうのを、癖になる気持ちが理解できる。
「二人とも…っ!」
 そこで泣くのか…。かなえは走ってやってくると、俺たちに向かってタックルした。恥ずかしい。
「うぅ〜……ぐすっ…」
「女はすぐに泣くから面倒なんだよ。仁、後は任せた。俺は先に川に入ってるぞ」
 仁に丸投げして、背中越しにかなえの非難を受け流す。かなえがずっとどういう気持ちでいたのかなんて、知っているからこそこれ以上知る必要もない。
「温くんひどい…。私は、ただっ…う、嬉しくて…!」
「かなえ。温くんのあれは、照れてるんだと思いますよ」
「仁くん…。うん…フフッ……」
 かなえが幸せそうに笑っている。仁もつられたように、かすかに口元が柔らかくなっているのがわかる。
 俺はかなえと仁の笑顔を、少し遠くから眺めていた。照れたのではなく気を利かせたのだと真実を話せば、かなえはどんな表情を見せるのだろう。俺にとって、幸せになってほしいと願うような人間は数少ない。…それでも、確かに今抱いている感情は。
「幸せになろう…。ああ、そうだ」
 そんな単純な願望すら、強烈すぎる恋路の前では今まで無力だったのだと。



  2012.08.13

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