liar


   act.5



 丈太郎が見舞いに行った正純の部屋から出ると、廊下で立ちつくしていた犬上に声をかけられた。気になって気になって、他のことなんて何も手が着かないのかもしれない。
「どうして、お前なんだよ。お前と、オレの、一体何が違うんだよ…」
「…犬上さん」
 苦々しく呟く犬上に、丈太郎は困ったように溜息をつく。
 そんなことを問われても、何もかもを話すことなどできないから困る。説明したところで、理屈で理解できることだけじゃない。
 それでも彼が正純を想っていることは知っているから、丈太郎は慎重に言葉を選んだ。
「俺、最初は正純にすごく嫌われてたんですよ。色々あって、今は仲良くなれましたけど」
「…全然信じらんねえ」
 自分でも、すごく遠い昔のことのような気がする。まさかこんな未来が来ると知らなかったから、不安で、怖くて、まるで正純を守ることにしか生きる価値はないのではないかと。
「正純は真面目だから。犬上さんに余計な期待を抱かせたくないから、素っ気なくしてるだけで。あなたのこと、嫌いじゃないんだと思います。そういう奴ですよ」
 正純は、適当に振る舞えない。その不器用で純粋な生き方を、支えられたらいいと思う。
「極端なんだよなー、アイツは。白か黒しか、この世にない!みたいな」
 ちゃんとそうやってわかってくれた上での好意なら、正純を無理やりに変えようとしているのでないならば、犬上は丈太郎にとって合格点だった。
 いつかは自分ではない誰かと、幸せな関係を築く正純。その相手が誰であろうと丈太郎はかまわないが、大切に考えてくれている人なら尚良い。
「でも実際、それだけじゃないですから。他の色だってちゃんとあるわけだし、大丈夫です」
「そんなこと言っていいの、お前が?」
「白い色しかない世界に囲まれていたら、息が詰まって苦しくなる。そして、他の色を探す」
 思い出しただけで気分が悪くなりそうで、丈太郎は表情を歪めた。
 一面の白い世界は無菌というより、有毒で、気が狂ってしまうかと思った。閉鎖された空間で耽る肉欲は最悪で、残像が浮かびそうになり慌てて首を振る。
「?」
「そういうことなんです」
「わっかんねえ…」
 あまりに抽象的な丈太郎の世界観に、犬上は頭痛がしてきてしまう。考えたところで欠片も理解できそうもないから、最初から考えないことにした。
 なんだか空気が違う気がする。それは最初に丈太郎を見た時から感じていたことで、その違いが何からきているのか、ずっと不思議なのだった。
「正純は今寝てるから、会いに行くならもう少し後にしてあげてください」
 什宝会の幹部は、丈太郎を「特別」だと言った。現実に起こった奇跡は、彼を介して行われたもので…今の平和は、丈太郎の功績なのだと。
 ただそれが、俺が世界を救う!みたいなわかりやすいヒーローに見えず、ありのままの丈太郎がいつもこんな調子だから、日々その疑問は大きくなっていくばかりだ。
 救世主というならば、彼の恋人である王崎充の方がまだ、そんな雰囲気を持っている。派手で美しく人を惹きつけて…。
「犬上さん。俺は、本当に普通の人間なので…。手品の種を期待しても、無駄ですよ。あなたは小細工無しで、 正純に体当たりしていけばいい」
 余計なアドバイスだと文句を言う前に、丈太郎はいなくなっていた。

 向かうのは、矢代の部屋だ。
 丈太郎が顔を見せると、矢代はいつもホッとしたような嬉しそうな表情になる。それにつられて、丈太郎も笑顔になるのだった。
「矢代さん、こんにちは。正純に会ってきた」
 正純を見舞ってくれと連絡をしてきたのは、矢代だ。大事な少年がどんな方法で一番元気が出るのかを知っているこの大人は、柔らかく頷いた。
「そう。じゃあ、元気になったんだね。正純は…よかった」
「正純が心配?」
「そりゃあね…。無理をさせているんじゃないかって、思うよ。スパイなんて、一番適性がないから。正純は」
「確かに、無理はしてるかもしれない。体調を崩したのは、犬上さんが原因みたいだけど」
 正純が話したわけではない。見えてしまっただけで。こんな話は悪趣味かとも思う…けれど、話しておくべきだと勝手に丈太郎は判断した。
 少しずつ免疫をつけてもらわなければ、いい年をして手放したくないと駄々をこねられても困る。案の定、矢代はすぐに表情を強張らせた。予想通りすぎる反応だ。
「えっ!?そ、それはどういう…意味……い、いや聞きたくない…でも…」
「矢代さんは、正純の幸せを願ってるんでしょう。正純が誰を好きになろうが、見守ってあげるべきだな」
 常日頃からこうやって言い聞かせているのに、なかなか同意を得られない。
「ちょっと待って、丈太郎くん。正純は、犬上のことなんか一ミリも好きじゃないよ。君に誓って…。あの子の中には、今はもう丈太郎くんしかいないはずなのに。そ、それっておかしくない?おかしいっていうか、おれは嫌だね…許せない」
 最高に大人げない発言をして、矢代は苛ついたように眉を寄せる。
 あまりに理不尽なことを言うので、思わず笑ってしまいそうになるのを丈太郎は堪えなければならなかった。いい加減慣れたし、こんな姿自分にしか見せないと、知ってはいるのだけれど…。
「それは矢代さんがそう思いこみたいだけで、俺だけが正純の中にあるわけじゃないだろ。人のこと言えないし。もう、本当、駄目だよ矢代さん。そういうのは。ね?」
 どうしてこんな風に諭さなければならないのだろう、自分が。
「だって、嫌なものは嫌なんだよ。誰もが大人になって、苦手だったピーマンを食べられるようになるわけじゃない。それと同じだよ」
「話をすり替えないで。正純の世界が広がることを、邪魔する権利は俺たちにないよ」
 たとえば矢代と正純が並んだ時、丈太郎が優先させるべきは正純の幸せで。明るい未来が待つ少年を少しばかり贔屓したって、罰は当たらないだろう。そしてそんな自分の中での些細な取り決めを、正純はくすぐったく感じ、矢代はどことなく面白くないと感じているのだ。
「丈太郎くーん…」
「はいはい。寂しいね、でもいなくなるわけじゃないから」
「丈太郎くんがいるから我慢するよ」
「えらいえらい」
 矢代はどうやら、甘えたいモードに突入してしまったようだ。
「でもおれは丈太郎くん不足だよ。慢性的に丈太郎くんが足りてない!」
「ちゃんと俺、会いに来てる。腹八分目が丁度いいんだよ」
 長いつきあいなんだから、丈太郎ももう、あしらい方は身に染みてしまった。
 矢代は自分を困らせたいわけではなく、ただ、我が儘を言いたいだけなのだ。そしてそれがどこまで通用するのか、試されているなんてタチが悪いけれど。
 赤面するおじさんなんて、趣味ではないから正直トキメキはしない。
「ああ…。丈太郎くんが何を言っても、格好良くて、キラキラ聞こえる…恋だよ恋!」
「俺そろそろ帰るけど、またな。矢代さん」
「……………おれは丈太郎くんにお別れの挨拶なんかしない」
 どこの小学生か、とツッコミを入れたくなるような拗ねたセリフに。
「仕方のない人」
 お別れのキスをあげると、それだけで喜ぶ単純さをかわいらしいと思う。
 

   ***


 安生探偵事務所、王崎の部屋。
「白鳥の具合はどうだった?」
「すぐに良くなるよ。…充も、風邪には気をつけて。お前が体調崩したら、俺は心配で気が気じゃなくなる」
「風邪をひいたら、付きっきりで看病してくれるか?その時は、丈太郎を独占できるんだな」
「充…。馬鹿だな。そんなことを言うなんて、俺はとっくにお前のものだろ」
 丈太郎は溜息をついて、機嫌を取るように恋人の耳にそう囁く。
 その意志の強い端麗な眼差しが、自分を見つめるだけで落ち着かなくて、今だってドキドキするのに。
「今夜はオレが、丈太郎を抱いてもいいか?」
「…いいよ。充がそうしたいなら」
 二人の関係は、どちらがどうとか特に決まっているわけではない。ただ、その時にしたいようにしているだけで、それがお互いに自然なのだった。
 丈太郎も王崎に求められるのは嬉しかったし、拒む理由なんて一つも見あたらなかった。
「丈太郎が和ノ宮から帰ってきた時は、いつもこうやって、オレが一番だと思い出してもらわないと気が済まない。矢代さんは特に、要注意人物だから」
「思い出すっていうか…そんな大切なこと、忘れるわけがないだろう?愛してるよ」
「丈太郎…」
 王崎と付き合い始めて、丈太郎はキスが好きになった。その行為の意味が、変わった。
 今まではただの行為に過ぎなかったものが、意味を持ったのだ。そういう変化を、喜びを、正純から自分が奪ってしまったというのなら、いつかは返さなければいけない。
「好きだよ、王崎。王崎のことを考えると、幸せすぎて胸が苦しくなるくらい想ってる」
「その痛みを共有させてくれ。オレも愛してる」
 きれいな指で大切そうに触れられる度、丈太郎は繋がる気持ちに満たされる。抱きしめる身体より伝わる感情が、熱っぽく唇を震わせた。


  2009.02.13


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