完璧な世界
「最近溜まってるんだが、やらせてもらえないか?今夜辺り」
桜内にそう声をかけられて、周防は思わず飲んでいた珈琲を噴きだしてしまった。
あの奇跡の日から復帰した自分は、確かに信之介からスカウトという役職に戻り、他のメンバーのケアをする立場ではあるのだけれど。(そういう、性欲面も含めて)
実際にそれを利用する相手なんてもっぱら犬上くらいのものだったし、まあ数回、桜内と寝たことはあるものの大分昔の話だった。しかもそのやり方が、どうにもアレなのだ。矢代なんて、話にならないくらいの。
「別に、甲斐に操立てしてるわけでもないだろ?広大」
その気遣いというか言葉選びというか、何もかもに疲れる心地に襲われて、脱力する。
「当然や…。そんな関係やないし、アイツとは」
自分が一方的に追いかけているだけで、という言葉は周防の頭の中で重たく流れていく。
好きなのだから、仕方がない。誰にも理解されなくても、しんどくなっても。結局は、愛しているという現状に落ち着いてしまうのだ。
「なら、問題ないな。十時に部屋で待ってるから宜しく」
「………了解」
割り切って身体を重ねることには、周防自身何の罪悪も湧かない。
桜内の部屋に入ること自体が、随分と久しぶりだ。
異常な性趣向を持っているくせに(端的に言うならば死体だ)、観葉植物が並べてあるその二面性が、本当に怖い。
周防の心など気にした様子もなく、笑顔だけは爽やかな桜内が泣き笑いのような表情を浮かべて、
「俺は結構、寂しかったんだわ。甲斐や、広大までいなくなって」
そんな心情を吐露するものだから、周防は黙って頷いた。
「柄にも無く不安だったよ」
「ああ。わかる…」
什宝会の人間も、今はもう少なくなってしまった。
現場に出ない人間の血は流れなくても、戦闘班となると生と死が日常だ。一応の訓練はされているものの、精神に異常をきたし退いた者も多い。残った中で、それなりにそれぞれが存在を気をかけていたのだ。
誰かがいなくなれば、その分残された人間の負担は増える。だからこそ、色んな面でのサポートが必要だと言えるのだが…。三人いたスカウトのうち、生き残っているのは周防だけ。まあ、一人で(実際問題、こなせているかどうかは別問題として)大丈夫だと判断されているから、自分はこうしているのだろう。
周防はそんな風に、自分の立場を理解していた。そこに矢代が絡んでこなければ、客観的に物事を考えることは得意な方なのだ。
「みんなピリピリしてるし、ま、しょうがないんだけどな。お前らが戻ってきてくれて、よかった。ありがとう」
ウイスキーで乾杯。酒には強い周防だが、桜内と比べれば若干劣る。
「お礼なら、丈太郎に言うてくれ。オレらは…丈太郎に願われたから、またこうして会うことができとんや」
あの時の不思議な感覚。
丈太郎が、自分たちを呼んでいるのがわかった。
行かなければと、戻りたいんだと、強く願った瞬間だった。世界の中にもう一度身体が、存在していることに気づいた。隣りには矢代。
隣りに矢代のいる景色ならば、いつでも周防にとっては完璧な世界であるのだけれど。
復活のカラクリは、未だにわからない。
本人は、自分が死んだ人間を蘇らせたわけではないと言う。では、何故、生き返ったのか。誰も説明が出来ない。こんなことが、ありえるのか。
奇跡の証明に関しては、什宝会もお手上げらしい。だが、きっかけとなったのが丈太郎ということは確かだ。周防も矢代も、それを知っている。
そしてそれに勘付いた外部の人間に、丈太郎が最近狙われているということも周防には気がかりの一つだった。
丈太郎が死んだら、再創造された世界はどうなってしまうのか?考えるのも恐ろしい。
「広大?難しい顔してるぞ」
「悪い、考えごとしとった…」
時折犬上にも指摘される、悪い癖だ。目の前の人間をおざなりに扱うなんて、我ながら役職失格だ。
「おかえり。広大」
「ああ…。ただいま」
誰にも何も言わずに、矢代以外に何も見えなくなって、一度はいなくなった世界。
自分が思うよりずっと、気にかけてくれていた優しさに周防の胸が温かくなる。泣きたいような気持ちになった。
「ホラ、抱き枕になって。柔らかくないしゴツイし、でも、温かい抱き枕」
「え?せんの?溜まっとるとかなんとか言って…」
予想外に肩透かしをくらい、周防は思わず問い返してしまった。
やる気満々と思われただろうか。しないなら、桜内とはプレイの方向性が根本的に合わないので、正直ホッとする。
「しないさ。お前も、もう若くないんだからちゃんと立ち位置とか考えたらどうだ?心配なんだ。周りの人間のストレスは広大が被って、じゃあ自分のモヤモヤはどう処理するんですか?って話だろ」
「サク…」
優しくされると泣きたくなるのは、年を取ったせいなのだろうか。
桜内の身体は矢代よりがっしりしていて、その腕に抱きしめられると、周防は子供みたいに安心した。保護されている、という心地だろうか?
たまにはこんな風に誰かに甘えても、いいだろうか。それを、何かに赦されたいような(きっと矢代に、と思い当たって胸が締め付けられる)。
「目を閉じて。撫でてやるから、寝ればいい」
「…ありがとう。おやすみ、サク」
大人しく、周防は抱き枕に徹することにした。
その夜は信じられないくらい、ぐっすりと眠れたのだった。
***
翌日の朝。周防が自分の部屋に戻ると、矢代が我が物顔でベッドに座っている。
この男の気紛れな行動には慣れている周防だったが、内心は酷く動揺して、機嫌悪そうなその姿を捉えた。
「久しぶりにサクに抱かれるのは、どうだった?」
「甲斐!」
…駄目だ。声にも、感情が表れてしまった。
「どうしてそんなに驚くかな」
苦笑は、責められているような気がして。
お互いの関係は恋人ではないのに、ヤキモチを期待したところで、当てが外れるに決まっているのに。
「もしかして、甲斐は怒っとん?オレ、サクとは寝てないけど。昨夜は清いもんやったで」
「この間、相手の首を絞めないとイケなくなって困ってるってサクが言っててさ」
物騒な話をよりにもよって矢代相手に、このタイミングでしないでおいてほしかった。
桜内に恨み言を言いたくなって、周防は溜息をつく。零れたというよりは、重い気持ちが溢れるような…。
「…オレがアイツに首を絞められたんは、もう覚えとらんくらい昔の話や。嘘はつかん。大体、お前に知られて困ることなんか、もうどこにもオレの中に存在せんわ。わかっとるやろ」
これ以上何を、知りたいというのか。
もっと近くにとか、息苦しくなるくらいそばで、一番近くで。自分には、矢代しか見えていないのを理解しているくせに。怒りというよりは、諦めの心境。
「…おれは、嫉妬してるのかな。ごめんね、広大」
「何で謝るのか、全く意味がわからんのやけど?」
いつも、こちらの気持ちなど無視をする矢代。拒絶をされないということは、むしろ最大限気持ちを汲んでもらっているとでも?
その問題を考えると卑屈で嫌な心地になるので、周防は考えを放棄している。何にせよ、最終的には好きだという気持ちが勝ってしまう。だったら、それでいいのだ。
ただ、時々しんどくなってしまう瞬間があって。そういう時は、ほんの少し泣き言を言いたくなったりもする。
「自分勝手で嫌な男だよ、おれは。広大のことを傷つけてばかりで、泣かせたり、困らせたり、今だって」
「へえ。一応、自覚があったんか?どうせ治す気なんか、ないんやろ。自分の悪いところ」
「広大が許してくれるから、つい甘えてしまうんだろうね。でも、最近、少し気分が変わってきたよ」
「ほお。一体どんな風に?」
期待なんか。そう、自分に言い聞かせるように念を押すように、そんな言葉を脳裏に浮かべて。
ゆっくりと立ち上がり歩み寄ってくる矢代は、今まで触れたこともないような繊細な優しさで、周防に手を伸ばす。
抱きしめられているということより、それが自分にこの男がしている行為なのだという認識に時間がかかって、周防は呆然とした。身動きなんて出来なかった。どうしていいのか、全然わからない。一瞬で、何かが氷解する。
耳元で囁かれるのは、聴いたこともない…
「か、い……」
感情より先に、反応したのは涙腺で。静かな涙が、頬をとめどなく濡らしていく。
唇に触れた温かさが、信じられない。どんな表情をしているのか視線を合わせたら、夢か現実かますますわからなくなってしまった。
こんな完璧な世界の中に、二人でいられることがどんなに素晴らしいだろうかと、そんなことを周防は考える。
2010.12.18