蜜のような



 ホットケーキのいい匂いが、新聞を読む周防の鼻をくすぐった。
 什宝会の本拠地である和ノ宮邸に暮らす、周防と矢代。二人は何となく、一緒につるむことが多い。矢代がおやつを作ると張り切っているので、周防は冷やかしに来たのだけれど。
 新聞の大きな見出しには、昨日什宝会が浄化した、誘いの記事が載っている。大して面白みもないその内容にすぐに飽きて、周防は煙草の火をつけた。
「最近、どうや?正純とは」
「どうもこうも、いつも通りだよ。上手くやってる。…広大だって、三日前正純に会ったばかりだろう?変わりなかったじゃないか」
「まあな。相変わらず、かわいそうやったな。正純が」
 思い出しながら、周防は相づちをうつ。相変わらず一方通行な片思いに、いい加減諦めたらどうなんだと忠告したくなるくらいには。正純も矢代の態度も、いつもと何の変わりもなかった。…人のことは、言えないけれど。
「広大は本当に、正純が好きなんだね」
「………お前の読解力のなさだけは、ほんま死んでも直らんやろうな」
 白くくもった煙を吐き出す。
 矢代は正純の感情に、気づいていない。気づいていない振りをしているのかと疑ったこともあったが、本当に理解していなくて、周防は驚いたものだ。あれだけ露骨な態度を取られているというのに、こんな鈍感な男を周防は他に知らない。しかも手に負えないのが、本人自身も正純を想っているにもかかわらず、だ。
 愛染の呪いだかなんだか知らないが、矢代は自分の持つ武器について話そうとしないのだし少しくらいは青春の恋に身を焦がしても、罰は当たらないのではないだろうか。
「おれにわかるように言葉を選ぶのは、広大の義務なんだし」
「誰が義務や!」
「ほら、一枚焼けた。あったかいうちにどうぞ」
 いつものんびりマイペースで、なんだか気がそがれてしまう。
「なんや、この蜂蜜…」 
「おれから広大への愛情を込めて、ハート形にしてみた。どうかな?まあ、すぐに崩れるけど。受・け・取って・ね」
「…食欲失せるけん、止めてくれ」
 すぐにホットケーキから垂れて、受け皿に透明な蜜が溜まる。
「そういえば、この間広大に話した高校生。丈太郎くん、ちょっと掘り出しものかもしれない。彼、きっと素質あるよ」
 先日、誘いに襲われかけた高校生。矢代が浄化したという報告を、周防も受けていた。周防は助けた相手に対して、名前を聞くのも連絡先を控えるのも、普段ならしないような男だ。今のニュアンスから推測すると、矢代は丈太郎に何度か会って話をしているようだ。
「素質ぅ?鈍感なお前がよっく言うわ。高校生に手ぇ、出すな」  
「気が合うっていうか…おれは暫く、丈太郎くんを見定めることにしたから。もう決めた」
「どういう意味や、それは」
 なんだか、とてつもなく嫌な予感がした。
「甲斐、勝手なことは絶対するな。俺は許さん」
「…ハハ。広大は昔から、勘が良かったよな」 
 会話を打ち切られた。それ以上、教えてくれる気はないらしい。秘密主義というよりは、随分と自分勝手な性格。そのくせ穏やかな口調と物腰で、それが誤魔化されて…
「…ごっそさん」
「あれ、もう食べないのか?広大。まだ焼いて」
「気分が悪い」
 席を立ち周防が睨みつけると、エプロン姿の矢代は一瞬きょとんとした顔になり、それから唇を歪めた。自分に対してはわざとそんな表情をつくるこの同僚に、周防は心底複雑な気持ちになる。
「恋人つくればいいのに、広大は」
 何の脈絡もなく、矢代はそんなことを言う。 
「無理や」
 新しい存在の入る隙間なんて、心のどこにもない。目の前の人間がどれだけその割合を占めているのか、考えるのはもう止めにしているのだし。
 ふと近づいた距離。そのまま矢代に舐めるように唇を重ねられ、周防は身を引こうと後じさる。油断した。どうしてこういう展開になるのか、頭の構造が一般人とかけ離れすぎて予想ができない。
「っ…!」
 勢い余って後ろの壁に後頭部をぶつけると、色んな意味で頭痛がしてきた。ようやく離れた唇に、矢代の手を払いのけ周防は額を押さえる。
「広大が寂しそうな顔してたから、つい」
 悪びれもせず、どこまでも脱力するコメントが矢代らしくてもうどうでもよくなってくる。
「………何も、言う気がせんわ」
 正純相手だと、手も繋げない弱虫のくせに。最低だ。そんなに自分の立ち位置は、矢代の中で軽いのだろうか。悪ノリして、舌を絡められるくらいには。蜜の味とはほど遠い、苦いキス。冗談じゃない、こんなもの。
「男相手は、嫌だった?」
 矢代が困ったように微笑むから、周防は思わず無言でその顔を殴りつけてやった。早足で台所を後にし、不機嫌な足取りで自室へと向かう。よりにもよってゆとりと鉢合わせする自分の運の悪さを、周防は心の底から嘆いた。
「広大、すごい顔してどう…したん……!?…ああ」
 事の次第を理解したように呟かれ、覗かれたと理解した瞬間、周防は赤面してしまった。
「ゆとり頼む、何も言うな。困る」
「…ハ、ハハハ」
 早口で懇願すると、気の毒そうに向けられる視線が、本当にいたたまれない。逃げるように自室へ戻り、柔らかい布団に顔を押しつける。
「甲斐…」
 恋人なんて、つくれるわけがない。この執着が恋だと呼べるほど素直に肯定できる感情でもなくて、否定するにはあまりにも強く心を揺さぶる厄介な代物。
 いつから?いつの間に?彼の隣りにいる人間が自分じゃなくなってから、だ。什宝会最年少のメンバー、白鳥正純。仲間に引き入れるには若すぎると難色を示した周防たちに、矢代はそれはそれは熱心な説得を続け、今やパートナー。
 他のメンバーの中でも矢代は皆に好かれているから殊更、正純への風当たりは強かった。自分が嫌われている理由が本当はそんなものだと知ったら、正純はどう思うのだろう。彼女もつくらない矢代は、皆のもの。そんな、共通した誤解があった。のほほんと明るいキャラクター。誰の悪口も言わず、どこか憎めず、なのに芯が強い。
 一番長い時間を過ごしている周防なんて、お前は悔しくないのかなんて余計な世話を焼かれたものだ。少年趣味だったなんて知らなかったと嫌味を言われても、矢代は少しも気にした様子を見せない。
「…ハア」
 考えたからといって、どうにかなる関係じゃない。思考を止めて、周防は他のメンバーの様子を見に行こうと立ち上がる。
 スカウトの仕事は、素質のある人間を什宝会に引き入れること。その人間の状態を、正確に把握すること。幹部の命令の伝達。…色々と、忙しい。
「周防サン、モモが呼んでるっス」
 ノックの後ドアの向こうからそんな声が聞こえ、周防は苦笑いを浮かべた。
 情報班の重松。貧乏フリーターから転身したものの、一日中コンピューター相手に部屋に引きこもりがちで病気になりそうと時々弱音を吐くような、今時の若者だ。寮暮らしでない什宝会のメンバーは殆ど和ノ宮邸で暮らしており、重松もその中の一人だ。今、仕事はありがたい。一刻も早く、頭の中から矢代を消してしまいたいのだし。
「お前が来い、って言いたいところやけど…。わざわざパシられに来たシゲに免じて、行ってやる」
「ありがとうございます…。なんか、その表現ちょっと引っかかるんスけど」
 拗ねたような物言いがなんだかかわいらしく、周防は伸びっぱなしの重松の髪を撫でる。
「シゲ、いい加減その茶髪染め直したらどうや?プリンになっとるで」
「オレだって、美容院に行きたいのは山々なんですけど!モモが…」
「お前も苦労するなあ」
 重松の後輩にあたる百瀬は、厳しい上に人使いが荒すぎることで有名だ。二人きりで部屋に取り残されていると、鬱病になりそうな気がすると重松は以前漏らしていた。大体重松の方が先に入ったのに、百瀬の方が仕事ができるので、不本意にもこんな扱いを受けている…。
「なんか、周防サン…蜂蜜くさくないっスか?甘ったるい匂い。矢代サンに、何か作ってもらったんで」
「重松。今日、アイツの名前は俺の前で出すな」
「………す、すいません」
 長い廊下を歩きながら、どうやら触れてはいけないところらしいと気がついて、重松は俯く。以前、矢代のいないところで飲んでいた時。あの時、周防も一緒だったか…矢代が相手なら、蜜のような恋愛ができそうだ。なんて、笑っていた夜を思い出した。


  2006.11.15


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