青葉の闇



 まだ八月半ばだというのに、丈太郎はもうとうに夏を終えたような気がしていた。それは矢代のいない喪失感が、そう思わせているのかもしれない。蝉の煩い鳴き声も、肌にはりつくような不愉快な暑さも、自分を取り巻くすべてのことが遠かった。
 洋菓子店ディレットで、夏蜜柑のゼリーを買ってゆっくりと寮への帰路につく。
「なあ、御堂。王崎見なかった?」
「見てない」
 丈太郎は寮のロビーで同じクラスの二宮にそう声をかけられ、短く返事をした。
 夏休み中、実家へ帰省する者は生徒の半分にも満たない。なんだかんだ言って、学校という箱庭は少なくとも安全だという意識がある。一歩外へ出れば、誘いだの何だのと物騒な世の中なのだ。それに、親のいない生徒も多い。いわばここが家であり、青春時代の殆どを過ごす場所だといえた。
「さっきから探してるんだけどさ〜。全然見つからないんだよ。じゃあな」
「へえ」
(…そんなことまで、聞いてねえよ。俺は)
 内心面白くない気持ちで、丈太郎は肩を竦める。誰も彼もが、王崎王崎。ずっと周りにはべられて、よく息苦しくならないものだ。
 確かに王崎は、独特の存在感があるし実際造形が美しい。性格も堂々としていて、クラスの中心人物だ。同性だといえ追いかけ回したくなる気持ちが、理解できないわけではない。だからこそ、丈太郎自身そんな状況が気にいらないのだ。
(ゼリー食ってシャワー浴びて…、寝よ) 
 廊下を歩きながら何気なく、窓の外を見る。青葉の陰に、一人で佇む王崎の姿を目に留めて丈太郎は息をつめた。
 この暑い日差しの中、王崎のいる場所だけ違う空間のように涼しげに見えてしまう。男子寮と女子寮の間にある木立で、誰かを待っているのだろうか。一体、誰を?その相手が気になってしまい、丈太郎は立ち去ることもできず王崎を見つめていた。暫くすると案の定女生徒が姿を現し、
(あ、告白されたっぽい) 
 何度か見たことのある光景に、丈太郎は溜息を殺す。
 丈太郎の知る限り、王崎が誰かとつきあったという噂は聞かない。取り巻きの全員と寝たことがあるとか、そういう中傷的な噂は、あくまでも王崎を疎んじる連中の作り話だとそうであってほしいなんて、願う自分が馬鹿みたいだとも思った。
 女生徒は首を横に振り、どこかへと消える。予想通りの展開で、何の感想も抱けない。ふと視線に気づいたのかこちらを見上げた王崎と目が合って、丈太郎は慌ててその場を離れた。僅かに驚いたように見開いた形の良い瞼が、反射的に丈太郎の体温を上げる。
(っと、危ない危ない…) 
 ちくりと刺すように、右手の薬指が痛んだ。嫌味なタイミングでしつこい携帯の着信音が流れ、周防広大と表示されたディスプレイに電源を切る。
「わかってる。ちゃんと、考えてるよ…」
 丈太郎は誰にも届かない本音を、独り言のように呟いた。矢代が空けた枠…。什宝会に入れと言われても、まだ気持ちの整理がつかない。今は矢代に関わっていた人間に会うこと自体、丈太郎には苦しかった。
「み、御堂くん…」
「王崎なら、さっき広場にいたぜ。神津」
 苦手な相手のご登場に、丈太郎は一刻も早く会話を終わらせようとしたのだけれど。他の取り巻きならいざ知らず、この男だけは話が別だ。
「……………」
 神津は、丈太郎の先制に神妙な表情で黙り込んでしまった。お互いの会話が弾んだことなど一度もないが、気まずさに耐えきれず丈太郎は先に口を開く。神津のこういう態度そのものが、本当に丈太郎にはどうかと思うのだが。
「何だよ?」
「何故…」
「そこの窓から、偶然見えた。じゃ、行くから」
「……………」
(言いたいことがあるなら、言えっての。神津ってホント、わかんねえ)
 背中から、神津の物言いたげな視線が心底気持ち悪い。丈太郎が早足で自分の部屋へ戻ると、当然のように幼なじみがベットを占領して眠っていた。
「…あっちゃん」
 このところ元気のない丈太郎に、温はいつも以上に世話を焼いてくれている。それは嬉しいというよりは、どちらかといえばありがた迷惑で…丈太郎は、苦笑してしまった。
 この間なんて何を血迷ったのか、温は丈太郎にのしかかってきたのだ。まあ、抵抗しなかった自分も自分だが。基本的に、温のすることに丈太郎は異議を唱えることはできない。最大の願いを叶えてもらった温に、丈太郎が返せることなどそれくらいなのだから。
「あっちゃん。夏蜜柑ゼリー、買ってきたんだけど。最近和風が流行りなんだって〜。みほこちゃんが言ってた。すげえ綺麗なんだぜ」
「いや、俺は」
「つきあいわっる〜」
 軽口だけは一応叩いて、丈太郎はいそいそとおやつの準備を始めた。せっかく、二つ買ってきたのに。まあ一つは帰って食べて、もう一つは後のお楽しみにしようと思っていたのだが。
「…丈太郎」
「ん?」
 温は罰の悪そうな顔で、ゆっくりとベットから起きあがった。
「その、明日から少し留守にする」
「ふうん。そっか」
「………」
 気にも留めない丈太郎の態度に思うところがあったらしく、温は拗ねてしまったようだ。
(オイオイ、俺たち恋人同士じゃないんだから)
 それでもこれを放置しておくともっと、面倒くさいことになる。丈太郎は温が知ったら憤慨しそうなことを心の隅で考え、最大限の配慮をした。
「そりゃあ寂しいとは思うけどさ、温の時間を全部俺にくれなんて言えないし」
「言ってもいいんだぞ?そんな簡単な願いなら、いつでも叶えてやる」
「そういうこと言うなよ。困るだろ」
 昔から温の構い方にはすごいものがあったが、妙にその方向性がずれてきたような気がする。軌道修正の方法もわからないし、丈太郎自身半ば投げ出してしまっていた。
「お前が俺のことで?」
「他に何があんだよ」
「…ハハ!いや、嬉しいと思って」
 温のご機嫌は、どうやら簡単に直ってくれたみたいだった。
「で、嬉しくなったら腹が減ったな」
「あっそう。学食、今なら空いてんじゃねえ…っ!?」
 突然のキスは夏蜜柑の味がした。丈太郎は眉をしかめて、やがて観念し目を閉じる。
「抵抗しないのか?どっちかって言うと、嫌がられた方が燃えるんだがな」
「それ聞いたら、断固拒否したくなった…。頼むから、そういうことを真顔で言うのは」
「照れてるのか?可愛いな」
「呆れてるんだよ!!!」
 力一杯丈太郎が否定してみせると、温は精一杯笑いを堪えているらしく肩を震わせる。抱きしめた腕を離さないあたりなんだか幸せそうだったので、丈太郎は大人しく身を任せていた。
「俺の可愛い丈太郎…。自分で扱いて、…そう。いい加減慣れないか?俺に抱かれるの、そんなに恥ずかしい?」
 ご機嫌な温が、耳を舐めながら嬉しそうに囁く。そりゃあ恥ずかしい、と返事をしようとしてキスで塞がれた。恋人同士ではないのだけれど、温は丈太郎とキスをするのが好きだ。
「…んんっ、…んぅ……ぁは…。普通、幼なじみの裸を見て勃たねえよ…」
「そんなこと言って、自分だってもうこんなに、先走り汁でヌルヌルじゃないか?キスがそんなに気持ち良かった?丈太郎。嬉しいな」
 震える先端を擦ると、涙を溜めた目が温を睨む。その上気した頬も、泣きそうな表情も…温はすべてがいとしいと思う。セックスでしか見られない、色っぽい仕草。
「誰のせいだよ。俺のは習性です…誰かさんの…どっかのエロ眼鏡のおかげでっ…アン…!」
「可愛い声…。他の誰にも聞かせたくない。もっといっぱい俺を感じてくれよ、丈太郎」
 激しく突かれるよりも、丈太郎は時間をかけてゆっくりアナルを攻められると感じるらしい。感じるというか、そっちの丈太郎の方が温は好きだ。もどかしそうで恥ずかしそうで、泣いてしまったりなんかすれば最高。
「……ぁ、ぁっあ…ゃ…あぁん…い、や……!」
 温が尻を掴んで緩やかな注挿を始めると、案の定官能的な悲鳴が上がる。丈太郎の感じるところはもうわかっているので、わざと執拗にそこを嬲った。
「こうされると、本当に丈太郎はたまらないんだよな。うっ…ズブズブすっごい音出して……俺も、気持ちいいよ…あぁ……」
 激しく律動を始めた温に泣きながら、丈太郎はシーツを力強く掴む。ベッドがギシギシ鳴った。それより何より、温曰く挿入のズブズブという音が、やけに響いて聞こえてしまう。
「はぁん…アッ…温…駄目…俺もう出、出ちゃうから…っ!……アッ、アァッ…温のすごい当たってっ…ぁん、あん……イク…ひぁっ!」
「まだだ。丈太郎、俺が留守の間寂しくないように…いっぱい…もっと、気持ち良くしてあげるから。もっと…ずっとしてよう?」
「も、出るよぉ…アアッ…イカせて……!」
 ペニスの根元を掴まれて、切ない懇願が温の耳に届く。
「温、温、温…っ」
 わかってやっているのかいないのか、丈太郎にそうやって名前を呼ばれると、何でも許してしまいそうになる。ようやく解放された性に、丈太郎は涙と口元を拭った。
 …温とヤった後は必ず、恥ずかしくて情けなくて丈太郎は落ち込んでしまうのだった。


***


「隣り、いいか?」
 学食で焼き魚定食を頬張っていた丈太郎は、思わず骨を喉に詰まらせそうになり咽せてしまう。告白を偶然目撃したというだけで、それっぽっちの罪悪感は気にしなければいいのだろうが。自分自身押し殺している下心のせいか、魚の味もわからなくなってくる。
(混んでるってわけじゃないし、わざわざ隣りに来なくても…。動揺しすぎだ。俺は)
 王崎はさして気にした様子もなく、反対側の隣りに神津以下数名を連れて席につく。並んで座っている温が何となくではあるが、不愉快そうに箸を置いたのが目の隅で見えた。
「丈太郎、お茶のお代わりいるか?取ってくる」
「いや、俺はいいよ。サンキュ、温」
「…なら、俺もやめとくか」
 どうしても隣りにいる王崎が、気になってしょうがない。早く食べて部屋に戻ろうと思うのだが、食事に集中できない理由は他にもあった。
「温、食べにくい。あっち向いてろよ」
「美味しそうに食べるな、と思って」
 そんな風に嘯いて、温は頬杖をついたままにっこりと微笑む。眼鏡の奥の笑顔がうさんくさすぎて、なんだか食欲まで減退してきた。どうにか食べ終え席を立とうとした丈太郎の脚を、隣りの指が制止させた。王崎だ。
「なん、」
「昼間、オレのこと覗いてたろ。御堂」
 王崎の囁くような声音に、丈太郎は心臓を掴まれたような気がした。触れられたところから、熱が広がる。その一言を言いたいがために、この場所を選んだのだろうか。ぎこちなく目をやると、形の良い唇が媚びるような笑みを作る。
「それが?」
「ドキッとした。誰かに見られてるなんて、思ってなかったから」
(…その、笑顔は)
 何か意味があるのだろうか。意味など、何もないのだろうか。何気なさを装えたかどうか、丈太郎には自信がない。すべては偶然だと、言い訳のように自分に言い聞かせて。疚しい感情を、肯定させようとする。それきり興味を無くした様子で、王崎は取り巻きとの会話を再開させた。たまに会話があるとすれば、この程度。一向に、近づかない距離。それが、丈太郎と王崎の関係だ。
「行こうぜ、丈太郎」
「ああ…」
 昼間なのに、木陰に浮いた王崎の美貌に目がくらんだ。ただそれだけの事実を咎められたような気がして、恥ずかしい気持ちになる。丈太郎は左手で、右手を包むように握りしめた。胸の動悸は当分、収まってくれそうもない。


  2006.11.14


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