カトルカール



 和ノ宮邸は夜になるとしんと静まりかえっていて、そんな長い廊下を歩きながら、犬上はお目当ての台所まで辿り着いた。
 何となく食欲がなくて夕食は残したけれど、結局腹が減り、夜中目が覚めてしまったのだ。適当に何かつまんで戻ろうという計画は、エプロン姿の矢代を見て、別のものに変わった。
「清貴。いいところに」
「や、矢代さん…」
 甘くて優しい匂いがした。
 矢代は犬上の想う周防と仲が良いから、何となく顔を見合わせる度、ギクッとしてしまう。だから犬上は、矢代のことがほんの少し苦手だった。嫌い、というわけではないのだが。
 別にこの思慕が、矢代にバレているわけじゃない。そう自分を安心させようとするのだが、不思議な魅力というのがこの人にはあってそれが本当に、犬上を落ち着かなくさせるのだ。どうしていいのか、わからなくなる。
「いい匂いするけど、何か作ってんの?」
 幸いその疑問は、犬上のキャラから外れない気楽なものだったはずだ。
「カトルカールっていう、パウンドケーキだよ。
 こんな時間に甘い物が食べたくなっても、開いてるケーキ屋がないから」
「もうなんつうか、病気の域だよ。矢代さんの甘党」
「そう?あと五分で焼けるから、その間に紅茶を煎れようか」
「えっ、あの、オレ〜…」
 こういうところ、本当に焦る。困る。ペースが一瞬でもっていかれてしまう、矢代の笑顔ひとつで。きっと周防も矢代のこんな部分に弱いのだろう、そう推測して面白くない気分だ。
 甘やかしてもらえるのは、ただ単に年下だし新人だから。なんて、つまらない理由なんだろう?矢代にとっても周防にとっても、自分はなんて取るに足らない存在で。
「コーヒーの方がいい?」
 のんびりとした問いかけは、犬上の後ろ暗い思考をようやく引き止めてくれた。
「あ、えーとぉ、…じゃ、じゃあコーラを」
 どちらの選択肢にもない返事をし、それに気がついて犬上は赤面してしまう。その反応に矢代は優しく笑って、本当に子供扱いとしか形容しようがないが、犬上の髪を撫でた。
 什宝会の大人はよくこんな風に年下を可愛がる、でもまるで、その仕草は慈しんでくれているかのようで、本当に、犬上は戸惑ってしまったのだった。
「ちょ、矢代さん…」
「さすがにそれはカロリーが気になるから、お茶にしとこうか」
 チーンという音を立て、パウンドケーキが焼き上がる。切り分けられるのを大人しく待ちながら、犬上は妙にくすぐったい気持ちで湯飲みに口をつけた。
 自分は、(別に馬鹿と思われてもかまわない)単純な人間だから。甘いケーキを口に入れたら、苦手な気持ちなんてどこかに消えてしまうかもしれない。


  2006.12.17


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