いちごみるく



 その日は、とても寒かったことだけは憶えている。
 矢代さんが借りているというマンションの窓は、外一面に静かな粉雪を降らせていた。ああ寒いと震えながら矢代さんは俺にひっついてきて、しょうがない人だなあと思いながらも俺はそのまま腕の中に引き寄せられて、大人しくしてあげていた。
 眠くなるような平和なDVDをお互い見るともなしに見ていて、ただ時間だけが浪費されていく。それはいつものことだったけれど、唐突に矢代さんがやりたいな、と言った。
 欠伸を堪えた俺は何を?と呟いて、柔らかい視線と向かい合う。
 丈太郎くんとしたいなあと矢代さんはのんびり言って、屈託無く笑った。だから何を?ともう一度問いかけると、矢代さんは笑ったままの唇を寄せてくる。

 別に嫌ということもなかったので、突き放したりはしなかったけど、やっぱりこのDVDのつまらなさが刺激を求める一因となったのかもしれない。なんて本当にどうでもいいことを俺は考えながら、キスをする矢代さんを眺めていた。こういう時は目を閉じるんだよ、と矢代さんが言うので俺はそんなこと気にしたこともなかったし、それによく考えてみたら、これは俗に言うファーストキスじゃないかと思い当たってしまい、頭痛がするような気持ちになる。
 好きでもない人と、あ、いやそれは語弊があるのかもしれない。俺は、矢代さんのことは好きだし。だけどそうじゃなくて、お互い本命が別にいるというのに不毛だ。それなのに、やっぱり矢代さんの唇は甘かった。とても美味しかった。
 よりにもよっていちごみるくの飴を舐めていたらしく、俺のファーストキスはいちごみるく味という矢代さんのおかげで、なんとも少女趣味な思い出に彩られてしまった。甘いと矢代さんは嬉しそうに言って、それは矢代さんの唇だよと俺は事実を指摘する。
 いや、そうじゃなくてキスが。と矢代さんはよくわからない訂正をして、緩んだ頬のままにやっぱり、丈太郎くんとしたい。俺を抱きしめて囁く。

 俺は恋人なんていないし、別に悲しむ人もいないけど矢代さんは違うんじゃないの?一応、そう忠告をした。俺が身体を繋いだところで、別に誰も文句なんてきっと言わないだろう。せいぜい温が冷やかすか驚くかするくらいで、誰かを傷つけるようなことにはならない。
 でも矢代さんは。俺が口ごもると、不意に矢代さんは真面目な顔になって、丈太郎くんがいればいいよ。と半分本気のような声で告げて、もう一度、今度は舌を絡めてきた。
 ああ、駄目な大人だなと思ったけど、俺はそんな部分も含めてこの人のことを大事に想うから、俺も駄目な子供なのかもしれない。

 丈太郎くんがいてくれてよかった、そう切実な本音を漏らしたりするから、身体の力が抜ける。誰かにこんな風に優しく触れられるのは初めてだったから、どうしていいかわからない。
 昔を思い出すともっと怖いことや痛いことはあったから、いまいちどういう具合なのかが想像できないけど、矢代さんに対して、俺が恐怖を感じたりすることはなかった。

 身代わりでもいいよ、なんて、俺言ってあげないけど。うやむやなまま雰囲気に流されるというのも癪な気がして、ほんの少し意地悪する。矢代さんはこんな時に何を言うんだろうみたいな、珍しくちょっと怒ったように眉を上げて、違う。断言する。何が?と俺は何度目かの質問を投げかけて、矢代さんを見上げた。
 触れたいと思うのは、君だけだ。また、真面目な顔。俺はなんだか気分が萎えて、別に、無理にそういう雰囲気を作ろうとしなくてもいいよ。全然そういうの、気にしないから。矢代さんにそう伝えたけど、違うんだと泣くから、だから何が?怪訝な口調で、問いかけてやった。

 矢代さんは懺悔するように、正純には触れようとすら思えない弱虫なんだおれは、と続ける。傷つけることが怖くて、壊してしまうことが怖くて、気づかれることが怖くて、そういう情欲は浮かんでこないんだ。全く、と本当に悲しそうに俺に告白してくるのだった。
 人は恋をすると究極のところ、こんな風になってしまうのだろうか。いや、愛染という特殊な代物を抱える人間にとっては。それは本当に切羽詰まった、悲しい現実なのかもしれない。
 君を抱きたいと思うのは、間違っているんだろうか。触れることを、どうか許してもらえないかな。そんな風に聞かれても俺、頭が悪いから上手く答えることができない。

 お互いに、丁度良かった。そのタイミングを、その距離を、誰に責められるっていうんだろう。人恋しい気分というのは、きっと誰もが時折感じてしまう、抗いようのないものなのに。


  2006.12.20


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