フィナンシェ



 矢代さんはいつも、ポケットの中に甘いお菓子を忍ばせていて、時折ふと思い出したようにそれを俺に差し出してくれる。今日は、フィナンシェ。四角い長方形の、しっとりしたお菓子だ。コンビニの中に置いてあるのを見たことがあるけど、俺は一度も食べたことはなかった。
「丈太郎くん、どうぞ」
「ありがとう」
 矢代さんが俺にプレゼントしてくれるお菓子は、どれも美味しい。一応吟味した上でのチョイスなのか、外れた記憶は一度もなく、俺は無条件で美味しいと毎回喉の奥に溶ける甘さに、素直に喜ぶ。
 矢代さんと出会う前は、クリームやスポンジのありがたさなんて頓着したこともなかったのに。餌付けよろしく、俺がその度に矢代さんに懐いていることは事実で甘い匂いのするこの人が、それを分けてくれるこの人が、好き。
 単純に寄せる好意は、たとえば普段王崎へと向かう欲情の入り交じったあの激しい波とは違って、安心できるもので、自分自身受け入れることができる。
「…はあ」
 食べ終えてようやく人心地ついたみたいな溜息に、俺は可笑しくなって笑った。
 喫煙者のニコチンとか愛酒家のアルコールとか、そんなのと一緒なんだって矢代さんは以前、俺にそう説明した。一日に何度か、甘い美味しいを実感しないと苛々するというか、神経質になるって。人間の習慣って、まあそんなものなのかもしれない。
「幸せだ。美味しいお菓子と丈太郎くんがいてくれれば、おれは生きていける…」
 矢代さんが幸せだ、と明確に言葉に示すのはいつも、糖分を摂取した後。俺はそんなどこかご機嫌な矢代さんと一緒にいるのが、好きだ。一緒にいるとすごく落ち着く。矢代さんも、そう思ってくれていたらいい。
 お互い特に用事があるわけでもなく、恋人でも友達でもありはしないのに、俺たちは、こうやって小さい逢瀬を積み重ねている。 
 いつかは終わることだと知っているからか、少しでも、二人の時間は大事だった。甘くて優しい、夢みたいな淡いもの。だけどちゃんと大事だって、俺も矢代さんもわかっている。
 矢代さんの台詞は割と、俺たちのこれからを暗示していたけど…俺はのんびりとフィナンシェを頬張りながら、本当に幸せそうな矢代さんを眺めた。
「あれ?俺、今もしかして口説かれた?矢代さんに」
「そうだよ。プロポーズだよ」
 好きな子には何にも言えないくせに、その分俺にはどうしようもないほど、この人は甘い。甘くて甘くて、童謡みたいに砂糖で出来てるんじゃないかと疑うくらいには。
 嘘をつくみたいに楽しそうに微笑むから、俺は肩を竦めるだけ。


  2006.12.17


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