あんみつ



 夏の盛りに、矢代さんが遠出をしようと言った。
 丈太郎くんを連れて行きたいところがあるから、と笑うその提案に俺が別段反対する理由もないので、了承し、連れて行かれた場所は緑の並ぶ木々の麓、しんと佇むお茶屋さん。
 老夫婦が営んでいるというその店は、ゆっくりとした時間が流れていて、せわしない世の中が違う世界の出来事のような、そんな不思議な気分になる。もう、四十年近くになるそうだ。矢代さんが挨拶をすると、おばあちゃんは久しぶりねえと、しわくちゃの笑顔を見せる。
「クリームあんみつ、二つください」
「お友達を連れてくるのは、初めてねえ」
 矢代さんはその言葉に上機嫌に微笑み、大事そうな視線を俺へと注ぐ。時々こんな風な、俺に対しては目に入れても痛くないような、子供を溺愛する馬鹿親みたいな態度を矢代さんに取られてしまうと、無性に照れくさい気持ちになる。
「どうやって、このお店見つけたんですか。矢代さん」
「ああ、仕事でね…。この近くに来たことがあって、その時に」
 俺が、楽園の支部が数キロ離れたところにあったと知ったのは、随分と後になってからの話だ。あったと過去形なのは多分、什宝会がそれを潰したから今はもう存在していない、のだろう。この時はまだ、矢代さんの仕事が詳しくはどんなことをしているのかすら、よくわかっていなかった。
 クリームあんみつはどこかノスタルジーな完璧さで、黒い机の上に二つ並んで置かれる。ちりんちりん、と風鈴が鳴る音が涼しい。遠くからこちらを睨みつける猫すら、微笑ましい。古めかしい時計が壁に鎮座して、クーラーがないのに心地の良い涼しさで、その切り取られた夏の空間は作り物みたいに自然と、そこに存在しているのだった。
「美味しい…」
「おばあちゃん、美味しいって!」
 自分の手柄のように声を張り上げる矢代さんは、あっという間の早さでクリームあんみつを食べ終えた。熱々の緑茶を続いて飲み干し、「やっぱり夏はこれなんだよ」と満足げに目を細める。
「ねえ、丈太郎くん。こんな情景を忘れられるわけがない。こんな、完璧な夏を」
 目を閉じた矢代さんは、なんだか苦しそうにそんなことを呟くと、そのまま寝息を立て始めた。寝ている時だけは、何もかも忘れたような安らかな寝顔で、俺はそれを見ていると落ち着かない気分になる。…ありえないけど、このまま死んでしまいはしないかと不安になるんだ。
「あらまあ、疲れているのねえ。お仕事、大変なの?甲斐さんは」
「おばあちゃん達に会って、あんみつが美味しくて、それで、満足したら眠くなったんだと思います…」
「ゆっくりしていきなさい。おじいさんが、今、野菜を取ってるから沢山持って帰って」
「ありがとうございます…」
 あんこが美味しい。白く溶けるアイスが、黒豆に溶けて美味しい。俺はゆっくり、その甘味を味わうように口に運んだ。おばあちゃんが、矢代さんとの思い出話を始める。
 やがて目を開けた矢代さんは、幸せそうに欠伸をして俺を手招きした。


  2007.08.24


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