好きな先輩



 生徒会室にこの人が存在している、という光景はこれで最後なのかもしれない。

 宮内先輩は、優しい先輩だった。
 二年で生徒会長に当選した俺に、生徒会を経験していた宮内先輩は、それはもう生ぬるいくらいの温かさで、面倒を見てくれた。俺が困っていると相談に乗ってくれるし、いつもにこにこと本当に人畜無害なそのオーラは、いつだって気を休ませてくれる。
「みゃーちゃん、卒業しないでよ。俺が寂しいから」
 もう大学も決まって、普通は気楽なものだろうに宮内先輩は、俺たちのことを心配してばかり。
 そんなに心配なら、いっそ留年してよ。以前そう言ったら、思いっきりデコピンされてお説教された。長かった…。そういう、宮内先輩のまともな感覚が俺は大好き。宮内先輩は、俺のオアシスです。
「羽柴さん…。あなたは時々、そういう顔をして僕を困らせるんですね。わざとなんですか?」
「わざとだったら何か駄目なの?別にそんなこと、いちいち意識してるわけじゃないよ。俺はいつも、自分に正直なの」
「はあ…。本当に、生徒会長様ときたら」
「溜息をつきたいほど悲しいのは俺の方なのに、みゃーちゃんはひどい」
 俺が無茶を言うと、宮内先輩は心底困った顔で沈黙する。こういう時、俺は何となく落ち着くような気持ちになる。性格が悪いと、副会長の渚はよくぼやいてくるけど、まあ否定はできないと思う。それでも渚は隣りにいてくれるから、つきあいが良くてやっぱり大好き。俺はけっこう、幸せ者。
「僕だって寂しいです」
「そういう風に見えないです」
「…そういう風にしたら、羽柴さんは困るでしょう。それは、僕は嫌なんです」
 宮内先輩はなんだか慈愛に満ちた眼差しで俺を見つめて、俺はきょとんとする他に何もとっさに上手い反応ができなかったけど、その回答こそが困るような…そう思って、何かの言葉を飲み込んだ。
 ふふ、と宮内先輩は笑う。あ、してやられたかもしれない。
「みゃーちゃんは、俺の手の届かないところに行くくせに、意味深なこと言うのはずるい」
「手を伸ばす気なんて、ないでしょう」
 寂しそうな声音。
 俺は目を丸くするばかりで、その発言の真意を考えようかどうしようか迷ってから、止めた。
 宮内先輩はきっと、俺のことをよく理解しているんだろう。だったら俺はそれに従うだけで、その結論に不都合もなかった。俺のこの好意は、宮内先輩の寂しさをかき消すくらいの情熱なんて、含んでいない。恋愛かと問いかけられれば、否。世話をやいてくれた先輩がいなくなってつまらない、ただそれだけ。子供のワガママ。
「寂しいんですよ。僕は、とても」
「実家から通える大学なんだから、ちゃんと会いに来て下さい。俺、待ってます」  
 露骨な俺の引き際に、落胆したのか何なのか、宮内先輩は机に顔を突っ伏してしまった。
「…みゃーちゃん」
「僕がいなくなっても、大丈夫なんですよね。あなたは…大丈夫、ですよね?一人で突っ走って痛い目に遭って、泣いたりしませんよね?今までのように、もう、僕は慰めることができませんけど」
「長谷川先生もいるし渚もいるから、俺は平気。ということを、俺はこの一年で学んだような気はします」
 長谷川先生は、俺と仲良しの生徒会の顧問の先生。鉄面皮のようでいて、意外に優しかったりもする。渚は生徒会副会長で、明るくて格好良くて何でもできる、いい男。補佐役には勿体ないくらい、本当に頼りになる。俺はそんな周りに支えられて今日も、元気で暮らしているわけです。
「他人事みたいに言わないでください。僕は、本気で…!」
 …ああ、泣かせてしまったみたい。宮内先輩は、必死で涙を何度も何度も拭っていたけど止まらないみたいで、ハンカチに顔を押しつけていた。
「いいよ、泣いても。俺が慰めてあげます」
 余計な一言だったのか、宮内先輩はしゃくりあげながら、殴りたくなった。と物騒な言葉を続ける。
「バイオレンスなラブはいりません」
「君に僕が必要とされていないことが、苦しいよ…」
「えっ、どうしてそんな流れになってるの?俺、みゃーちゃんがいてくれれば嬉しいのに」
「嘘だ。僕がいなくても平気なんだ、羽柴さんは!もうやだ…」
 宮内先輩はぐずぐず泣いた。それを冷静に眺める俺、というのはけっこう最悪のような気がする。
 俺はなんだか宮内先輩が気の毒になってきて、また神経を逆撫でするようなことを、本気で口にしてしまった。 
「あ、じゃあ殴っていいです。それでちょっとはスッキリしますか?」

 ガッ…!

 殴られた衝撃で目がチカチカするのと、慌てたように生徒会室のドアが開いて、書記の佐々谷が何か喚きながら入室してきたのが、ほぼ同時くらいだった。
「全然スッキリなんてしない…。ごめんなさい、僕は帰ります」
 いたたまれないような感じで、宮内先輩は出て行ってしまった。もしかして、こんな思い出が最後ならあまりにも…
「みゃーちゃん、待ってよ!これきりなんて嫌だってば」
「僕が会いに来ればいいんでしょう!?…羽柴さんの馬鹿」
 最後でないならいいか、と納得したあたり俺は、本当に殴られてしかるべきなんだろう。
 追いかけた方がいいのだろうか、と宮内先輩の走り去った後を眺め、きっと微妙な空気の俺を眺めて…佐々谷は結局、大丈夫ですか?そう、俺の顔を覗き込んだ。
「な、何かあったんですか!?宮内先輩と喧嘩でもしたんですか…。羽柴先輩」
「何があったっていうか、何もなかったから怒ってるのかなあ…」
「…オレ、びっくりしましたよ。あの優しくて穏やかな宮内先輩が、人を殴るなんて」
「うん。俺、保健室行ってくる」
 その一言で済ませるような問題では、なかったのかもしれないけど。
「…あの」
「佐々やん、戸締まりしといてくれない?お・ね・が・い」
 理由を聞かれたって、上手く俺は答えられない。
 一学年下の佐々谷は、時々うっとうしいけど基本的には俺のお願いをよくきいてくれる、扱いやすい(と表現すると、色んな方面からまた注意されそうな)後輩だ。わかりましたと溜息混じりに返事をして、お大事に。百点満点の反応をしてくれる。   
 頬は痛いけど、こういう風に知覚しないと鈍感な俺には、よくわからない。


   ***


 保健室に行くと、俺の親友(と書いても、恥ずかしくないくらい大好きな)マサがいた。マサは保健室に入り浸っているから、もしかしたら鉢合わせるかもしれないと予感はあったけど、思った通りだ。
 ああ、養護教諭の阿部先生はいない。俺は少しだけガッカリして、それを態度に出さないように尽力を試みる。俺の顔を見て、マサは不機嫌そうに眉をひそめる。誰にやられたんだ、と険しい表情が問いかけてきた。
「さっき、階段で顔からこけた」
「…わかりやすい嘘つくなよ。待ってろ、氷出してやる」
「何で嘘って思うの?俺のこと信じないなんて、親友失格だよお。マサ」
「何が親友失格だよお、マサだ。馬鹿」
 俺の腫れた頬を、マサが引っ張る。じんじんと鈍い痛みだったのに、それはもうれつな鋭い痛みに変わり、俺は思わず泣きそうになった。
「いっ…いひゃいです」
「痛いんだったら泣けよ」
「いじめいくない…」
「いいから」
 本当に痛くなってきたので、俺は無理やりマサの手を振り払う。宮内先輩の胸の痛みに比べたら、こんなの大したものじゃない?そんなの、他人の俺にはわからない。
「…出ないよ。涙なんて」
「オレの薄っぺらい胸で良ければ、貸してやるのに」
「そんなの借りたら、返せなくなるよ。本当に、マサが心配するほどのことじゃないからさ」
「…そうかよ」
 拗ねたように呟くマサは全然、納得がいってないみたいだ。それでも俺に氷袋を渡すと、心配そうな顔になる。自分だって、秘密主義なところがあるくせにね。
「頼りにしていた好きな先輩が卒業しちゃって、寂しいだけ」
「それと殴られることがどうして直結するのか、全然理解できないな。オレには」
「だよね〜」
「………」
 俺、マサにも前に殴られたことがあるんだよね。そういえば。俺はそんなことを思い出して、相槌をうつ。よっぽど俺のやり方はまずくて、端から見るとどうしようもないんだろうと思う。今の態度なんて、適当そのものかもしれないし。…自覚はある分、本来ならどうにかしないといけないのかな。でも生憎、まだそんな相手には出会ってない。
「じゃ、マサありがとね!バイバーイ」
「一緒に帰るか?」
「ううん」
 今は誰かと一緒にいて、言葉を選ばなきゃいけないのは、正直に言うとしんどかった。
「そうか。じゃあ、また明日な」
 本当に聞いてほしくないこととか、マサは深入りして聞いてこない。こういう距離の取り方は、助かるし好きだ。寂しいと思っていることは本当なのに、どうしてその深さとか何だかを、比較されなきゃいけないんだろう?そんなことを考えながら歩いていると、靴箱近くに生徒会顧問の長谷川先生が立っていた。俺を見つけると渋い表情が若干和らいだような気もするから、俺を待っていたのかもしれない。
「お疲れ様です。先生さよなら」
 素っ気なく帰ってしまおうとした俺の腕は、力強く引き留められてしまう。
「宮内に聞いた」
「そうですか」
「長谷川先生がいるから、羽柴さん、僕が卒業しても痛くもかゆくもないんです!だってな」
「渚も付け加えてください。それに、痛くもかゆくもはないけど、寂しくて悲しいとは思ってるよ」
「…帰ろうか。一緒に来なさい」
 長谷川先生は強引に、俺を引きずって歩きだした。何やってんだよ羽柴〜。なんていう、野次馬の笑い声が飛んだけど俺の顔面は、長谷川先生の横腹辺りにあったので返事をすることができなかった。
 うちの生徒会メンバーは、顧問を筆頭に少し過保護すぎやしませんか?ねえ。
「そんな顔で帰ったら、ご両親が心配するだろう。うちに泊まっていきなさい」
「階段からこけたことにするから、平気です」
 マサは一秒たりとも、俺の言葉なんて信じてはくれなかったけど。
「その言葉をそっくりそのまま真に受けるような、純粋で馬鹿正直な家族を持っているのかね」
「…はあ。わかりました。お言葉に甘えさせていただきますー」
 俺は面倒くさくなってきて、助手席のシートを思いきり倒して寝に入った。長谷川先生は俺の駄目な部分をいっぱい知ってるから、今更取り繕う必要がない。俺も、長谷川先生の駄目な部分をいっぱい知ってるし、おあいこなんだ。
 そういう感じで、顧問と会長の関係は良好なわけです。それなりには。
「こんなこと言ってるけどさあ、俺だって、卒業式には絶対泣く自信あるもん。恥ずかしい。もうやだ、何で春が来るんだろう」
「まあ、宮内も号泣する図が目に浮かぶから…。送る言葉、ではせめてしっかりとな」
「努力はするけど…。ああもう、卒業式の練習もやだ。つらい。みゃーちゃんがいなくなるなんて、全然想像できない」
「それを宮内に、言ってやればよかったのに」
「いいの。みゃーちゃんの中で、俺はずっと、鈍感でオレ様な生徒会長のままで」
 
 
  ***


 長谷川先生の部屋は簡素で、黒を基調にしているから落ち着きを通り越して、いっそホテルみたいになってる。俺はなんだかお腹が痛くなってきて、長谷川先生自慢の手料理を半分以上残してしまった。
 弱りきった俺に、鎮痛薬やらココアやら、考えつく限りの甘やかしを施して、長谷川先生は笑う。
「卒業式の前の日に、大病を患ったりするなよ?羽柴。…どこら辺が、鈍感でオレ様なんだかな」
「ううう…」
 お腹が痛すぎるので、どうにも反論ができない。下痢的な感じではなくて、こう、留まるような厄介な気持ち悪さ。こんなたかが行事のことで、体調を崩してしまうなんて高校生にもなって、情けない。
 小さい頃から、大事なものはあえて手放すことで、強くなろうとしていた気もする。そんなことばかり繰り返していたら、いつか一人きりになってしまうのかな?そんなのは寂しいな…。
「もし万が一のことがあったら、渚に代わってもらうから…」
 渚はもう毎度のことで、俺のフォローなんて手慣れたものだ。たまに俺は渚の方が、生徒会長に向いてるんじゃないかって思う。…譲る気はないけど。そう考えているとなんだか悔しくなってきて、せめて送る言葉くらい立派にやり遂げなければな、なんて結論に至った。
「…やっぱり頑張る。ううー、お腹痛いよー」
 ベットを占拠しのたうちまわる俺を見ても、上機嫌な長谷川先生はひどすぎる。
「人の不幸を笑うなんて!」
「いや。今のはそういう意味でなく、ただ単に…」
「何ですかあ?」
「俺にしてみれば、繊細なくせに自分本位な生徒会長様が、かわいくて仕方ないと思っただけでね」
「頭も痛くなってきた…。もう寝る!」
 俺は布団を頭まで被って、無理やり目を瞑る。おやすみ、という声が聞こえた。
 その日見た夢は卒業式が終わった後、宮内先輩に挨拶をする俺という…胸の痛さも、涙のまずさも正夢だった。


  2008.03.04


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