初恋



 保健室には、ある一人の住人がいる。名前は後藤真之、俺は喋ったことはないけど。同じ中学三年で、クラスが一緒になったことはないから、どんな奴なのかはよく知らない。関わりもなかったから。
 背が高くて大人っぽくて、なんだか中学生じゃないみたいな感じ。遠巻きに、女子の注目。一番窓際のベットは半ば後藤専用みたいになっていて、彼はよくそこで寝ているらしい。らしい、というのは実際その現場を俺が見るのはこれが初めてで、保健委員として第一の活動に訪れた今、やはり後藤が眠っているからである。
 出会いが訪れたのは火曜日のうららかな昼休み、俺の初めての当番日。
「ああ、早乙女くんは今日が初めてなんだっけ。今日はね、私ちょっと用事があって席を外すから…。十分だけ、留守番を頼みたいんだけど。すぐ戻ってくるから」
「あ、はい」
「そこのベットで後藤くんが寝ているけど、放っておいていいから。よろしく頼むわね」
「わかりました」
 養護教諭の芳野先生が、保健室を出て行った。
 特にすることもなさそうなので、俺は連絡ノートという名の落書き帳をぼんやりと眺めていた。とりとめもないような、他愛ない一言やイラストに、この場所は温かいところなのかなと思ったりして、頬を緩ませる。後ろでごそ、という音がして人の目覚める気配がした。
 どこか緊張しながら、俺はベットを振り返る。白いカーテンがシャ、という音を立てて開いた。後藤はまだ眠そうな目のままで、盛大な欠伸をする。顎が外れるんじゃないだろうか、と心配になるくらい。
「…おはようございます。誰?どこか怪我でもしてるのか、大丈夫か?」
「俺は3Bの早乙女陽。保健委員の当番なんだよ」
「あー、保健委員…。オレ、3A後藤真之。元気なら何より」
 芳野先生がいないということを、すぐに理解した後藤は眠そうな目を擦った。
「すげえ眠そう。お前の方が大丈夫?」
「すげえ眠い。でも大丈夫。飯食う」
 野生の動物みたいだ…。保健室にあらかじめ用意してあったらしい弁当を取り出すと、後藤はそれをぱくつき始めた。俺が珍しいものを見ているような視線をしているのに気づいたのか、ちらりと送られた流し目に勝手にドキッとする。
「陽ちゃんはもう飯食ったのか」
「ああ。…って、よ、陽ちゃん?お前、見かけによらず気さくな奴な」
「マサって呼んでも良いぞ」
 にこって笑って告げられた言葉が、本当見かけによらず中学生って感じだったので、俺はなんだか笑ってしまった。ギャップがあって、ちょっとかわいかった。そう言ったら、コイツはどんな反応をするんだろう?なんか、想像がつかない。
「マサね、マサ。超野生っぽい」
「オレは温かい布団を求める、野生には向かないごく普通の人間だし」
「変な奴…」
「そう?」
 俺が何を言っても、後藤はまったく気にした様子がない。弁当を食べ終えお茶を煎れて飲み、また気持ちよさそうに欠伸をしている。不思議なほどの自由さで。
「何でここにいんの?」
「そこにベットがあるから」
「あ、そう」
 お前、なんか本当に大丈夫なの?もう一度、問いかけたいのを堪える。
 俺にはとてつもなく変人に感じるのだけど、後藤にとってはそれが普通の日々なんだろう。静かな保健室の中で、温かいベットがあって、そこで後藤が眠る。…健全な中学三年生、にはほど遠そうだ。
「じゃ、オレ起きたし教室行く。おやすみ陽ちゃん」
「その挨拶おかしくねー!?」
「そう?またな」
 その日を境に、俺と後藤は少しずつ仲良くなっていった。
 後藤のマイペースさ加減にも、扱いにも段々慣れてきた頃、小さな事件は起こったのだった。


   ***


「早乙女、後藤くんと仲良いんだょね?」
 同じクラスの三津橋が、少し赤い頬をして俺に話しかけてくる。
 三津橋の香水の匂いが、俺の鼻をくすぐった。スカートの丈が短すぎて、見えそうで見えないのが気になる…。中学生だけど、三津橋はバッチリ化粧をしてる。だから他の女子と話すより、なんか舞い上がってしまう俺。
「うん。マサがどうかした?みっつー」
「あたしね、後藤くんのこと気になってるんだ…。早乙女、協力してくれないかな?」
「あ、そう…なんだ」
 よくよく考えれば、それは不自然なことでもなんでもない。後藤と一緒にいると、女子から視線を感じることは多い。直接話しかけてくる勇者は皆無に等しいので、後藤本人は気にもならないらしいけど。女子の集団はうるさいので、眠りの妨げになるらしく、後藤は事ある毎に避けていた。
「後藤くん、けっこう人気あるんだょ。早乙女は、仲が良くて羨ましぃよ〜。彼、女の子嫌いなのかなぁ」
「さあ…そういえば、恋バナとか聞いたことないわ。悪いけど、みっつーに協力するのはちょっと保留でいいかな?」
 もし恋愛に興味がない、なんて一刀両断されたら、三津橋の期待を裏切ることになってしまう。
「早乙女って超真面目だょね!?律儀って言うんだっけ。ウケル〜」
「………」
 一瞬協力する気が萎えたけど、それは早計ってものだろう。とりあえず、後藤の恋愛観を把握しないことには話が始まらない。
 一緒に帰ろうぜ、と誘うと後藤はいつもの如く超スローな歩き方で、俺の隣りをふらふらと歩く。コイツはなんて生きること自体に無気力なんだろう、いやそれは俺の誤解かもしれないけど…なんて一人で勝手にぐるぐる考えを巡らせて、俺は溜息をついた。
 今車が激突しそうになったら、きっと避けもせずに、あの世へのロードを進んでいくのではないだろうか?後藤という男は。俺が気にしたってしょうがないんですけど…。もしこれが恋や何かで、変わることがあるなら俺は応援したいとは思うよ。 
「マサってどんな女の子がタイプ?明るいとか大人しいとか、巨乳とか…えーと……」
「年上」
 後藤は短く返答して、そのらしいような簡潔すぎる一言に、俺は妙に複雑な感情を抱いてしまう。
「何で?クラスの女子とか、かわいいって思わない?」
「可愛かったら付き合いたいか?別に…オレもガキだし、そんな同士でつきあったって、上手くいかないんじゃね?」
 ホンット、冷めてる。聞いてて悲しくなってくる。
 それで俺は、その考えを覆してあげられるような言葉や考え方を、プレゼントすることもできない。
「えっ、そんな難しい考え方…?俺は、かわいかったら、付き合いたいなーって思うけど」
「陽ちゃんのそういうとこ、オレは好きだよ」
 後藤は柔らかく告げた後、のんびりとした欠伸をする。後藤の眠気はどんな話をしている時だろうが、本人の意志に関係なくやってくるらしい。何回か、それで喧嘩もした。
「ん〜…。オレがもっと可愛かったら、陽ちゃんと付き合えるのか。残念残念」
「な、何だよそれ…」
 俺は、動揺してしまった。よく後藤の雰囲気にのまれてしまうので、それがからかわれる原因の一つにはなっているって、自覚しているのに。
「面白いジョークのつもりだったけど」
 しらっとそんな種明かしは、わかりきっているのに、すごくすごく面白くない。赤くなっている顔に、気づかれませんように。そう祈っても、後藤は俺の方なんて注目してはいなかった。
「お、お前なんか全然かわいくないし…!」
「格好いいって言いたいんだろ?わかってる、照れなくていいよ」
 寝言みたいに喋るから、聞き取りづらくて懸命に聞き取ろうとして、そんな自分が馬鹿みたいだ。
 後藤って、何を考えているのかわからない。本人があえて隠しているせいなのか、感性が違いすぎるのか…。たまにこうやって自分を持ち上げるくせに、それが本気なのか冗談なのか、俺にはつかめない。何もわからない。
「……俺、は…」
「真に受けなくていいんだぜ?優しくて面倒見の良い、オレの大好きな陽ちゃん」
 バイバイと手を振って、別れ道の坂を後藤が上っていく。奴はいつも、一度だって振り返らない。ただの後ろ姿に、どうしてこんなにせつなくなるんだ。俺だって、そう一瞬浮かんだ思考回路に鳥肌が立った。春の風が、生温くて気持ちが悪い。睨みつけていた身体が大きく揺らいで、地面に転がる。
「マサっ!?」 
 何が起こったのか、よくわからなかった。駆け寄って重い身体を起こして、瞼を閉じた顔を見つめて…
「マサ、マサっ…!どうしたんだよ、何、変な冗談止めてくれよ」
「…ん……」
 このよくわからない状況が恐ろしくて、俺は涙が込み上げてきた。
 後藤はぼんやりと意識を取り戻し、一瞬だけ、ずっと隠していたものがバレてしまった時のような嫌な表情をして、段々といつもの眠そうな俺の知っている顔に戻った。多分、後藤は冷静なんだ。足を滑らせて転んで恥ずかしいとか、そういう類のものじゃない。何か理由がありそうだった。持病でも持っているのかもしれない。あまりに今までは、そんなこと考えも及ばなかったことだけど。
「あー…。ごめん、陽ちゃん。大丈夫だから」
 俺はお節介というか本当馬鹿だから、後藤の無気力さとか佇まい、背景、色んなことを勝手に妄想してしまった。誰にも言えないくらいの、後藤が重く抱えるものを。
「お前ほんと何なの…」
 どうして俺は、泣いてるんだろう。抱きしめたまま身体を離さない俺に、後藤は困っている様子だ。
「何でいつも保健室で寝てんの。病気なの。どうして…俺……」
「それ以上言わなくていいから。ね、陽ちゃん」
 まるで子供をあやすような優しい声音が、俺の耳を通り抜けていく。
 ああ、話す気なんて全然ないんじゃんって思ったら、むかつくを通り越してすごい悲しくなってきたんだ。俺は。だって、俺じゃ駄目だっていうことなんだろう。何でだろう、何でだよ…
「今日っ…、今日、お前のこと好きな子がいて…俺に、協力、してくれって…い、言われ…」
 俺は後藤の何かを引き出そうとして、このまま会話を終わらせてサヨナラなんて絶対にしたくなくて、でも上手い言葉が見つけられなくて、そうしゃくりあげる。

 慰めるように触れた唇が、俺のファーストキスだった。

 驚いて言葉を失った俺に微笑んで、立ち上がらせると、すっかり覚醒している後藤はハンカチを差しだしてくれる。俺が今後藤から欲しいのは、そんな気遣いじゃないのに。
「その子のことを、陽ちゃんより好きになれたらね」
 至って普通の調子で後藤は告げて、俺はもう本当にどうしようもない気持ちになって、ごしごしと涙を拭う。本音だろうが誤魔化しだろうが、そんな返事はひどすぎる。
「こんなことされたらさあ、俺、お前のこともっと好きになっちゃうじゃん!本当、何…考えてんの……」  
「…陽ちゃんは優しいから」
 それって意味不明な言葉だ。だから何だって言うんだろう、むかつく、もどかしくて悔しい、苦しい。別に、俺、優しくなんてない。もう三津橋の恋に協力することなんてしないし、今後藤に対して、罵詈雑言を吐いてスッキリしたいくらい。いや、そんなことしたって、ちっとも気分は晴れないんだろうけど。
「そういうことじゃないよ!違うだろ…こんな苦しいなら、ずっと、気づきたくなんてなかったのに」
「陽ちゃんを見ていたり、一緒にいると、オレはすごく救われたような気持ちになる。でも、だからかな、欲情はしないんだ」
「それって中三のセリフじゃねえよ…。何カッコつけてんの?後藤のバーカ、うんこ。うう……」
「小学生かお前は」
 年上なら良かったのかよ。質問を喉の奥に飲み込んで、過去や未来色んなことを秤にかけて、俺は後藤を睨みつける。後藤は笑ったんだけど、後藤の笑顔は大抵は無邪気とは程遠い、匂い立つような影がちらほらと見え隠れするようなものなので、それを俺は切り崩すことなんてできそうもないから、やっぱり涙が出た。
「まあでも、オレが陽ちゃんのことを好きなのは本当なんだけど」
 そんなフォローいらないんですけど。嬉しくなんてない、そう言い切れない。やっぱり俺、後藤のことを…夕陽が目に染みる。痛いところだらけで、何も変わらない俺たちはグダグダな空気のまま、今日を別れた。どうしてこんなに気になるのか、後藤のことばかりを考えてしまうのか。それはいずれは、自覚する本音だったのだろうか。

「早乙女、後藤くんに聞いてみてくれたぁ?」
「みっつー、ごめん。マサ、大人の女が好きなんだって。
 …あのさ、俺、みっつーと好きなものが似てると思うんだけど―――」


   ***


「三津橋と、付き合うことにした」
 俺がそう報告した秋の日、相変わらずの白い居場所の中で後藤はふうんと言い、おめでとうと続けて、笑った。こういう時ばかり、寂しさも影も感じない年相応のいい笑顔を浮かべる友達に、俺はそれ以上何も言えなくなってしまって、視線を逸らす。
 忘れようとしたはずの涙がじわじわと目に溜まり、鈍い痛みが胸を苛んだ。


  2008.06.03


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