とらわれびと



 美化委員、というのは実に地味な仕事だ。校内清掃に地域のボランティア、服や手は汚れるし面倒だし、僅かな楽しみはピカピカになった壮観の達成感くらい。
 二週間に一回当番が廻ってくるので、その時には俺は仕方なく袋一杯分のゴミを集めながら、校内をウロウロする。
 大体じゃんけんで負けたから、引き受けた仕事なのだし。クラス全員じゃんけんで敗北した俺は、じゃんけん最弱者という嬉しくない称号も頂いてしまい、踏んだり蹴ったりなのである。そして今日も面倒な時間が訪れ、何の気なしに校舎四階の音楽室の前を通った時、だった。
「えっ?」
 お世辞にも上手とは言えないメロディが、俺の足を止めさせる。正直、小学生でももっと上手に弾けるんじゃないか?そう思うほどのレベルの低さに、俺は軽く引いてしまったほどで。

 〜〜〜♪

 俺はドアの窓からそっと、誰が弾いているのかを確認した。
 その意外な人物は隣のクラスの、渚壮真だ。渚は何でも器用にこなすし、顔も(美形、というのとは違うかもしれないけど)格好いい。明るくて、目立つの大好きお祭り男。成績も上の方で、おまけに生徒会にも入っていたりするから、多分うちの高校の人間なら、誰でも知ってる。その割に気さくな性格で面倒見も良いから、結構人気があるんだよな。
 向かうところ敵なし、みたいなイメージを勝手に作り出していた俺は、その紡がれるメロディとのギャップに驚いてしまった。
「渚、お前何やってんの」
「見て分かるだろ?ピアノの練習だよ。磯谷(いそがい)」
「なんていうか、前衛的な旋律だったけど」
「初めて二週間だからな。指がカチコチでさ、全然言うこときかねーの」
 すごく楽しそうに笑いながら、渚は両手をひらひらさせる。そんな風に言われてしまうと、下手だとか向いてないとかいう言葉はどこかへ捨てて、応援したくなってしまう。
「そういう磯谷は、美化委員の清掃?お疲れ。サボらず、ちゃんとやっててえらいなあ」
「うん、そうなんだよ。もっと褒めてくれ」
「空気がきれいなのは、磯谷のおかげだな。磯谷様々だ。…ついでに、音楽室も掃除していってな♪」
「しょうがないな〜」
 正直、悪い気はしない。
 音楽室なんて用事がないからあまり入った記憶もないけど、埃っぽくないし、換気はちゃんとされているようだ。もしかしたら、渚がマメに空気の入れ換えをしているのかもしれない。
「オレ、ピアノの先生になりたいんだよ」
「えっ!?」
「ピアノの先生」
 屈託なくそう繰り返し、オレの正直な反応に渚は目を細め、柔らかく微笑んだ。
「なれたらいいなあって…夢だけど。叶うといいなあ」
「あんまりイメージなかったわ。俺、渚はもっと手堅い方向に進んでいくかと思ってた。頭いいしな」
 ただ単に興味本位かと思ったら、そうでもないらしい。
「無理って言わないんだな。ありがとな、磯谷。お前いい奴な」
「なんか、お前なら叶えちゃいそうな気がするよ。まあ頑張れ」
「おう」
 渚は力強く頷き、またぎこちない指遣いで、たどたどしいリズムを奏で始める。一生懸命なのは伝わってくるんだけど、どうも道のりは遠いようだ。
 何でもできる、なんて思っていた渚にもこんな一面があったなんて。人間って、面白いよなあ。

 それから俺は何となく、二週間に一度、音楽室も清掃するコースに入れた。
 最初が一番伸びるからなのか適性があったのかは知らないが、渚はどんどん上手くなって、俺を驚かせた。渚は傍目に見ても忙しい人間だと思うので、よっぽどの情熱とか何かが、彼を駆り立てているのだろう。何かに取り憑かれているみたいに、渚はその練習という作業に没頭していたのだから。
「頭の中にずっと居残って消えなくて、そのことだけしか考えられなくなるようなものを持ってるって、どんな感じ?」
 差し入れに、購買のベーコンエッグパンとドーナツ、それにスポーツ飲料水を持って行った。
 それを美味そうに頬張りながら、
「そうだな…。オレはもう捕まってしまっているけど、それが嫌なわけじゃないんだよ」
 渚がどこか遠い目をして、俺に告げる。
 それがうっとりしているように感じるなんて、俺は段々おかしくなってきたのだろうか。不揃いな旋律を聴いて洗脳されて、その度に少しずつ渚の、俺の頭での占有率が高くなっていく。パンとジュースで籠絡できるような、安い男でもないというのに。俺は、本当に馬鹿みたいだ…。だってそうだろう?渚の中に入り込む隙間なんて、俺は微塵も見つけられないんだから。
「なんていうか、それってもうさ、恋の域だよな…。いや、愛なのか?」
 渚のことでもあるし、俺のことでもある。
 男子校に通っているとはいえ、性的好奇心は正常だと俺は今まで思ってきたのに。
「ああ、間違いないね」
「苦しくない?」
「苦しかったら嫌いになるか?そうじゃないだろ。好きなもんは、ずっと好きだよ。変わらずに、きっと」
 渚は多分、すごくまともな発言をした。
 俺はそれを聞いて、そう質問してしまった自分が急に恥ずかしくなったり、なんか複雑な気分になったりで、沈黙する。その感覚を、ほんのちょっぴり羨ましいと思ったのかもしれない。
「渚の彼女は幸せだろうな。そんな風に言ってもらえたら」
「何、磯谷寂しそうな顔しちゃって」
 ずっと好きだよ、なんて。可愛い女に渚が愛を囁くところを想像したら、物凄く落ち込んできてしまった…。それだけじゃなくて、年頃なんだしキスもセックスもやりまくってるんだろうな、なんて思ったら、もう……それでその妄想を、今晩のおかずになんて考えている俺は本当に最悪なのかもしれない。渚ごめん。どんな顔してハメてんのかな、なんて思ったら興奮してきてしまった…本当、渚、ごめんなさい。
「あーあ。…俺は、委員活動に精を出すことにしましょうかね」
「たまには手伝ってやろうか。パンのお礼」
「マジで?助かるわ」
 俺は渚のピアノを目当てに、音楽室にやってきているわけじゃない。渚自身が目的だから、そこにピアノの仲介がなくなるのは嬉しい。クラスに行けば確かに会えるけど、渚はいつも友人に囲まれて楽しそうにしているので、その輪の中から彼を連れ出すのはとても難しいのだ。読書が趣味の大人しそうな友人なら簡単だけど、端から見てもとても濃いメンツなので、俺にはちょっと…。
「あ、ゴミ」
 躊躇なくティッシュ(鼻をかんだと思われる)を拾い上げ、こういう時となると真面目な渚は、途中何人もの生徒や先生に声をかけられながら、あっという間にゴミ袋を満杯にした。
「これ、焼却炉持ってくんだよな?」
「そうだよ。で、終わり」
「了解」
 きれいにすると気持ちがいいな!と、渚は調子のいいことを言う。
 大体渚は、浅く広くのつきあい方だし、俺もその中の一人で。こんな男を独占できる人間なんて、いるんだろうか。
「…渚って、シたことあんの?」
 唐突だったかもしれないけど、俺はもう自分の好奇心を抑えることができなかった。我慢は身体に毒だし。俺、我慢は苦手だし。
「い、い、いきなりな、何言ってんだよ!?べ、べ、別にどうだっていいだろ。そんなこと!」
「ないんだ。その反応」
「ないとは言ってないだろ!」
 動揺するあまり、渚はガン、と近くの柱に頭をぶつける。誘導尋問だよ馬鹿。やっぱ経験あるんだ、そりゃそうだよな…。
「俺には重要なことだよ。だって、好きになっちゃったもんなあ。俺、渚のこと」
「オレ…」
 頭が痛いと涙目になっている渚が、その告白に凍りついたように表情を硬くする。
「ストップ。いいよ、わかってる。男同士だもんな。ゴミと一緒に、オレの気持ちも捨てちゃって」
「全然気がつかなかったから、マジで驚いた…。ごめんな、オレ、無神経で」
「そりゃあ、渚はピアノに夢中だから」
「…はは。まさか、自分が言われる側になるなんて思ってもなかった。そうだな、オレ、頭の中はもういっぱいなんだ」
「知ってる。音楽室の清掃なんかじゃなく、俺が本当に払いのけたかったのは…」
 渚はなんだか、妙に引っかかることを言った。俺は本音を言いかけて、ピアノを弾かない渚には惹かれなかったろうかと考えて、そのまま沈黙する。
 沈黙が音楽に、なるだろうか。二週間後、俺が音楽室を訪れなければ、渚は何を思うだろう?
「なくなりようがないんだよ」
 もうこんな抽象的なようで、確信的な会話はできなくなるんだろうか?
「俺の勝ち目なんて、なかったよな」
「最初からオレの心はもう、ここにはないんだ。持って行かれてしまっているから」
 誰に?ピアノに?…渚の答えは俺に提示されないままで、でもそれが、お互いの関係に相応しいんだろう。渚はぽんと俺の肩を慰めるように叩いて、自分の居場所へと戻っていった。その腕を掴めるほどの強烈な感情を、衝動を、残念ながら俺は持ちあわせていないのだ。

 叶うことならば、俺は彼にとってのピアノのようなもの、になりたかった。


  2008.05.22


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