輪郭



 絵のモデルに、なってくれませんか。

 震えたようなか細い声は、向井の耳にかろうじてそう、聞き取ることができた。一年だろうか、印象にない顔だ。夏休みのグラウンド横、水飲み場。二人の他に、人気はない。
 日焼けもしていない、不健康すぎるほど白い肌が、緊張のせいか真っ赤に火照ってしまっている。長い睫毛が、沈黙に耐えるべく静かに伏せているのを、向井は感心したように見つめた。絵のモデルに、というならば彼の方がよっぽど、被写体に合っているのではないかと思ったからだった。
「向井先輩、僕は一Bの砂森といいます。もし、お時間がございましたら…」
「俺でいいのか?」
 三年の向井はテニス部をもう引退していたが、テニスも後輩も相変わらず好きなので、時間をみては部活に顔を出し、練習につきあっている。休憩中に顔を洗おうと、第二グラウンドを出て水飲み場へと来たのだが、これは思わぬ出会いだった。
「先輩が、いいんです」 
 砂森と名乗った後輩はまるで告白でもするかのように、大真面目な口調で告げる。
「…いきなりのことで、驚かせてしまってごめんなさい。ずっと先輩のことを、見ていました。テニスが上手で、明るくて、面倒見が良くて…。僕はテニスには詳しくないんですが、先輩のプレイが好きで、試合をいつも観に行っていました。引退されてしまってからは、時折校内で見かけるだけで嬉しくて…」
 今までの人生を生きてきた中で、こんなにも真摯に好意を示されたのが、向井には初めてだった。
「僕は美術部なんですが、向井先輩を見ていると、すごく絵が描きたくなるんです。そのうちに、先輩自身を描きたくてたまらなくなって…。駄目元で、お願いしてみようって、思ったんです」
「そんなことを一生懸命言われると、照れるよ」
 女に告白された時でさえ、その場で手を握るくらいの余裕はあったというのに。
 正直な感想を述べれば、砂森は慌てたように頭を下げた。その仕草がわかりやすくて、可愛らしい。小さくて、保護してやりたくなる動物みたいだ。この手の中で、大事に大事にしたくなるような。
「あ、すみません!別に好意を押しつけるつもりではなくて、あの、迷惑だったらいいんです。聞いてくださって、どうもありがとうございました。先輩とお話できただけで、僕は、すごく嬉しかったです」
「え?待って。モデル、引き受けるよ」
 華奢な腕を向井が掴むと、逃げだそうとした獲物を捕まえるハンターのような図、になってしまった。触れたところが熱を持ち、おずおずとした視線が向井の目を捉える。
 本当、ですか。ぽつりと問いかけられた言葉。夢を見たような、信じられないような響きを含んだ声。
「ああ。俺が、美術室に行けばいいか?テニス部の奴らに、抜けるって言ってくるから」
「いいんですか?そうして下さると、すごく助かります」
「ちょっと待っててくれ、向井。美術室は確か、四階だったな」
 図書室の隣り。普段利用することもないが朧気な記憶は、どうやら正解していたらしい。
「ありがとうございます…!」
 たかがそれくらいのことで、と向井は思うのだ。
 今にも泣きだしそうに潤んだ目が、見惚れそうなほどきれいで、上手く返答ができなかった。


   ***

 
 校舎の中というだけで、グラウンドよりは随分涼しい気がする。四階は遠く感じたが、向井は苦に思わなかった。それだけでも、普段鍛えている甲斐はある。向井が美術室に入るのは、初めてだ。普段特に用事もないし、選択授業は書道だった。
 ドアをノックすると、上擦った声がどうぞと返事をする。
「あれ、砂森だけなのか?」
「夏休みですから。うちの部、そんなに熱心な方でもなくて…。僕だけです」
 微笑む砂森の傍らに、橙色のキャンパス。
「じゃあ、その絵は…」
「はい。僕が描きました。夏ですから、照りつける太陽を」 
 意外だった。この容姿、この態度。優しくて繊細な絵を描くのかと、向井は想像していたのだが。太陽と表現されたその絵は力強い存在感で、攻撃的とも穏やかとも違う、圧倒的な美しさ。
「…凄いな。悪い、何て言ったらいいんだろう。君が、こういう絵を描くとは思わなくて。圧倒された」
 画材は何を?俺も、詳しくはないんだが…」
 一見、油絵のようだった。
「水彩絵の具です。筆は使わずに、自分の指で塗りました」
 …ますます意外だ。段々と、向井は砂森に興味が湧いてくる。
「あの、デッサンさせて頂いてよろしいでしょうか?」
「俺は何か、ポーズを取った方がいいか?」
「普通にしてくださっていて、大丈夫です。自然な先輩を、見てみたいですし」 
 普通に、と言われても困る。特に何もすることが、ないのだし。
 落ち着かない様子でもぞもぞしていた向井は、やがて覚悟を決め、何をするでもなくただ、絵を描く砂森を見ていることにした。
 鉛筆を動かしている時の砂森は先ほどまでとはうって変わって、別人のように研ぎ澄まされている。そう表現するのが正しい、描かれていることなど気になりもしない、静謐な真剣さ。
「先輩の輪郭は、僕にとって憧れです」
 歌うような告白が、今度はしっかりと耳に届いた。それはなんだか純粋すぎて、愛情と呼ぶには無粋な気もする。自惚れてもいいくらいの、想いの強さは感じるというのに。
 今まで誰にも与えられたことのない、疑う余地のない好意は。
 どうして自分が悶々としているのか、いっそ居心地の良い沈黙に、できることは考えるくらいで。
 砂森の目に、自分しか見えていないことが妙に嬉しい。砂森がこの時間をどれだけ心待ちにしていたかを想像すると、くすぐったいような気持ちになる。でも、やっぱり照れくらいで気持ち悪いなんて、思えなかった。一途な眼差しを受けることが、光栄だとすら考える。
 やがてその白の上に、どんな自分が存在するのだろう?砂森の手で。想像すると、柄にもなく向井はドキドキした。恋が始まる時のような、予感が胸に満ちている。
 その時、一体何を言おう。向井は、何と言うだろうか。この興奮が、表に出てはいないだろうか…。

 全ての答えは輪郭が浮かぶ頃、静かに確かに、もうすぐ導かれようとしていた。


  2007.07.01


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