恋人の肖像



 砂森は絵を描く前に、石けんで丁寧に手を洗う。それはまるで神聖な清めの儀式のようで、向井にはとても好ましく感じられるのだ。
 絵を描く砂森の動作や、表情が、いつの間にか大切だと感じるようになったのは…それに気が付いたのは、出会いのあった夏も終わり、秋に色めく季節の頃。
「文化祭で展示をする絵なんですが、向井先輩を描いてもいいですか?」
 その希望に、向井が否定する理由など一つもなかった。
 別にいいぜと笑ってみせたら、砂森ははにかむような笑みでキャンパスへ向き直る。つられたように、自分まで嬉しくなる。
 後輩というくくりを外してみても、砂森は本当にかわいい。人気の無かった美術室は、ずっと二人占めできたらよかったのに…さすがにこの時期になると、いつもは幽霊部員の何人かも顔を出している。そしてその部員中で交わされる会話が、向井にはシュールだと思う。
「砂森くん、君の美的センスに口を挟む気はないけれど…」
 この少数なコミュニティの中、容姿も性格もいい向井は、部員皆に可愛がられている。要は外部の人間に、砂森が熱を上げているのが気に入らない。
 鈍感というより恋愛感情に疎い砂森は、きょとんとした表情になり、それから端麗な表情を曇らせた。
「どうして、そんな意地悪を言うんですか?」
「砂森、俺は全然気にしてないから。君は絵に集中して」
「あ。…向井先輩」
 多分というかどう考えても、本人自身が向井への恋心に気づいていない。その状態が、向井を含めた部員全員に筒抜けで、それは時々このような微妙な空気を招き寄せるのだ。
 砂森の描く向井という人間の眩しさは、おそらく補正が百二十パーセントかけられたもの。それは故意ではなく自然に、砂森にそう見えているから素直に描いた、輪郭。色彩。恋でなくて、何だろう。
「もうすぐ、できあがりなんだろ。仕上がったら、頑張ったご褒美をあげないとな」
「お礼を言うのは、僕の方なんですから!…でも、そう言ってもらえるのは嬉しいな。楽しみにしてます。ふふ、何だろう…」
 微笑み。向けられるこっちが、照れてしまう。かわいくない、わけがない。
 打算も計算もない素直で、純粋な愛情は時折、どういう対応をしていいかわからなくなる。あまりに真っ直ぐで、清らかにさえ感じる気がして、触れていいのかどうか、判断がつきかねる。…本当は、触れてみたいと。
「そうか。じゃあ、俺にもご褒美をくれる?砂森」
「はい、勿論です」
「砂森…」 
「向井先輩は、みんなが思ってるような人じゃありません」
 悪気のない本気の発言で、部室内はしんと静かになる。ただのヤキモチを曲解されても困るのだが…、まあ、そろそろいいタイミングかもしれない。困り果てた部員と、空気の読めない砂森を面白半分で眺めながら向井はそんな風に思うのだった。
  

   ***

 
 うちへ寄っていきなよ。俺、一人暮らしなんだ。砂森。
「ご迷惑でないなら、是非お伺いしたいです」
 何なら泊まりでと押してみたら、実に楽しそうに砂森はニコニコと笑うばかり。
 こんな、簡単に罠にかかる。自分の性的嗜好はノーマルだとずっと思っていたが、どうやら砂森に限っては違うようだと、向井は最近知ったのだ。
 近くを走る電車の音がうるさくて、なかなかいい雰囲気にならない。スケッチブックと画材の入った袋が砂森の手に重そうで、それでも本人の足取りは至って軽いから、何も言えない。悶々と帰宅して、物珍しそうに室内を見回すその仕草ひとつひとつが、本当に参ってしまうほどかわいい。
「俺の料理は美味いから、期待しててくれよな」
「先輩、何でも出来るんですね…」
 警戒も緊張も何もない、ありのままの姿が憎らしいような愛しいような複雑な気分になる。
「そんなことないよ。好きな相手には本当弱くて、俺はまるきり駄目なんだ」
「好きな人ですか。…いいな」
「え?」
 その反応は、予想外だった。それはそれで、上手に転がせそうな気もするが。
「向井先輩とおつきあいできる女性は、きっと幸せだろうな」
「どうして?」
 それは、君が俺を好きだからだなんて、そんなこと言える勇気はない。向井の問いかけに、さも当然のような顔をして砂森は照れもせず返事をした。
 …聞いている、こっちが照れるようなセリフ。
「先輩の腕に抱かれたら、すごく安心できそうです。あ、触ってみてもいいですか?」  
「砂森…」
 これはさすがに、向井も動揺した。
「ふふ、すごい筋肉。僕の身体とは大違いで、格好いいで―――」
 よく我慢した方だと、思う。今まで、自分にしては。
 向井は砂森の身体を抱きしめて、抱く腕に力を込める。何が起こったかすぐに把握できない華奢な輪郭が、もごもごと力無くうごめいた。…離したくない。
「砂森」
「あ、あの。向井先輩…」
 泣きそうな声があがる。ここまで実力行使をしてようやく、男と認識されたとでもいうのか。情けない。退けない。始まりは砂森からだった、それに落ちたのは自分。
「安心できる?幸せ?答えろよ、砂森」
「ぜ、んぜん…。落ち着かないです、離して下さい。恥ずかしいです!」
「どうして?俺たち、男同士だろ。恥ずかしがることなんかない」
「や…っ」
 その掠れた、上擦った悲鳴に欲情した。
「か、からかわないで下さいっ…。冗談が過ぎます、僕は…僕なんて、恋人の練習台にもならないのに。こういうことは、よくないことです。お願い先輩離して」
 どこまで鈍感なのか…いくらなんでも気のない同性にこんなことを仕掛けるほど、悪趣味じゃない。
 弱々しい抗議を並べるその唇を向井が塞ぐと、信じられないような潤んだ目から涙が零れた。
「何がよくないんだ?好きな奴を抱きしめて、キスをすることが」
「……………」
 きれいな目が、瞬きをする。向井の真意を確かめようとするかのように、視線は逸らされない。もう、いじらしくてどうにかなりそう。
「本当に気づかない?好きだよ砂森。かわいくて、もっと君の色んな表情を…俺に見せてほしいと思う。砂森は違う?こんな俺は、嫌い?それとも怖い?」
「……………」
 砂森は黙り込んだまま、何かを考えているようだった。自分の気持ちを、整理しているのだろうか。もう、この沈黙が永遠のように感じられて苦しい。
「砂森。何とか言ってくれ」
 もしかして、取り返しのつかないことをやらかしてしまったのだろうか。
 ただの自惚れで、勘違いで、憧れから寸分のズレもない感情を、向けられていたとでも…。
「あ」
「砂森?」
 向井が伺うと、砂森は嬉しそうな表情をキラキラさせて言葉を続けた。見たこともないその全ては、恋に気づいた喜びに満ちあふれていた。照れも忘れてしまうくらいに。
「なんだ、そう…だったんだ。僕、ずっと先輩のこと好きだったんですね。当たり前に憧れていたから、僕、自分でもわかっていなくて…。ああ、なんか色々納得しました。僕、先輩のこと大好きです!」
 真っ直ぐどころか威力が強すぎる愛の言葉に、向井は赤くなってしまった。
「……………お、遅い。気づくの遅いぜ!?ああもう、めちゃくちゃ嬉しい。俺が幸せだ」
「ドキドキするから落ち着かないけど、僕も、すごく幸せです」
 砂森は大人しくされるがままで、どこかへと消えたらしい怯えは、幸福そうな微笑へと変わる。
「そんな顔見せてくれるなんて、どうしよう。僕、今すぐスケッチしたいくらいなんですけど、」
「馬鹿。これからは、毎日見ることになるんだぜ?飽きるくらい、夢に出るくらいに」
「うれしいです」

 
 料理を作る向井の傍らで、ひたすら筆を動かす砂森は、いつもと変わらないように見える。
 ただそこに綴られた愛の輪郭は、今までとはほんの少し違っていた。


  2007.09.02


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