「夢」



 岡崎と離れてから、一年近くの歳月が過ぎていた。

 白黒の鍵盤の上を、ぎこちなく流れていくメロディ。
 あ、まただ。ミスを自覚した刹那、リズムが調子を乱しバラバラに崩れてしまった。
「渚くん、もう少しリラックスして。余分な力が入ってるわよ」
 隣りからアドバイスを受けて、オレは思わず苦笑いを浮かべてしまう。注意されることは、大抵同じ。気合いがあるのは良いけれど、硬くなるとちゃんと弾けないわよ。…わかって、いるのに。
 鍵盤にだらしなく下ろした指から、間延びした音が響いた。
「頭では、わかってるつもりなんですけど…」
 意識すればするほどに、逆効果になってしまうのだ。自分でもそれが理解できるから、もどかしくてしょうがない。どうにかしたいのに。
 オレのぼやきに、ピアノの先生をしてくれているひとみさんは、可笑しそうに表情を緩ませた。
「フフッ…。今日はここまでにしましょうか。お疲れ様」
「はい。ありがとうございました」
 あっという間に、時は過ぎてしまう。
 一時間は、あまりにも短い。週に一回、一時間、オレはピアノのレッスンを受けている。…ただ残念なことは、うちでピアノを買うわけにはいかないから、電子ピアノで我慢しているという点だろうか。それはまあ、いつかの夢にとっておくとして。
 ピアノの前に立っていると、どこかで、岡崎と繋がっているような気がする。オレがこうしてピアノを弾くようになったのは、その感覚をよりもっと長く自分の中に留めておきたいからだった。初めの、きっかけは。もっと言えば、本当は岡崎と、…あの音を知ったから、なんだろうけど。
 それがいつの間にか、習慣化した。俺の中で、ピアノを弾くという行為がはっきりと明確な意識になるまで、そう時間はかからなかった。そうしたらいつのまにか、目的は手段に変わっていて。
「あ、そうだ。ピアノコンサートのチケットが手に入ったんだけど、渚くんは興味ある?」
 思い出したようにひとみさんが、鞄の中から一枚のチケットを取りだした。受け取ったオレの目に、懐かしい名前が飛び込んでくる。
 不意をつかれて、まじまじとそのチケットを眺め…オレは信じられない気持ちだった。
「ひとみさん、これ…!?」
 記されたその名前が、オレたちの一年という時間を物語る。
「地元の子なんでしょう?この子。岡崎楽、期待の新人ピアニストよ」
 どこか誇らしい気持ちで頷く。なんだか気恥ずかしくて、少し顔が赤くなってしまった。
「知ってます!オレの…同級生です、から」
「そう。あげるわ、楽しんできてね」
 ひとみさんは柔らかい笑顔で、いつものようにオレを送りだした。もらったチケットを大事に鞄に仕舞うと、オレは昂揚した気分で、きつく目を閉じる。
 岡崎が、帰ってきたのだ。一年という期間が長いのかどうかは、わからない。
 オレはその間、ピアノを習い始め、弾くようになった。もともと器用な方だから、楽譜を覚えるのも、指を動かすのも、何となくこなせるようになって。問題は基本を終えたあたりで、難しい練習曲になった途端、間違いを連発するようになってしまった。
 鍵盤を叩くという、たったそれだけの行為なのにこんなに指がぎこちなく、思うようにならない。脳裏に何度でも蘇る岡崎の旋律が、どれだけ凄いことなのか、今のオレにはよくわかった。
 まるで魔法の指だ。ともすれば、岡崎は魔法使いなのだ。
「…もうすぐ、会えるんだな。岡崎」
 色んなことが、あったような気もする。生徒会も忙しかったし、学校生活は充実していた。それより何より、心の中を音楽が占める割合ときたら…岡崎が知ったら、一体どんな顔をするだろう。
 コンサートの日は、週末。ようやく、岡崎に会えるのだ。早くその時が来ればいいのに、こんな時に限って時間が経つのは遅く感じられる。


   ***


 単純なもので翌日は、いつもより早く目が覚めた。
 早朝、岡崎が使っていた音楽室は、そのままオレの練習場と化している。家にピアノがあるわけじゃないし、折角のグランドピアノが使われていないのも可哀相だからだ。
 硬くなってしまう指を、そろりと鍵盤の上に乗せる。ここに座る度にどうしても岡崎を思い出すというのに、頭の中のイメージとかけ離れたひどい音が、オレの耳に不快に届く。こんなんじゃない、はずなのに。もっと、もっと…あのイメージは、どこまでも澄んで、深く響いて。
 オレに感動を与えた、岡崎の音楽。あれを、あの素晴らしさをオレは誰かに伝えたいと思った。それなのに。…オレのこのただの音の羅列では、誰にも何も伝えられないのか?
 どうしても、諦められない。諦めたく、ない。
 何かをこんなに懸命に練習するのは、初めてだった。それが今は、なんだか嬉しい。
 間違える。楽譜を見る。特に同じところ、いつも間違える場所は。悔しくて何度も何度も、何度でもオレは、ピアノに向かう。
 いっぱい考えた。これからのこととか、自分は何をするべきなのか…したいのか。考えてもよくわからなくて、ただ頭の中に浮かんできたイメージは、ピアノ。いや、岡崎だったのだろうか…。
 オレは夢中で、ピアノの練習に没頭した。一日に何時間も、毎日。楽理の勉強をしたり、CDを聴いたり。コンサートに、出かけてみたりした。
 今までは興味なんてなかったのに、ピアノだけじゃなくて弦楽器とか…今は色々、聴きたいことがたくさんあった。知りたいことも、勉強したいことだって。岡崎と話したいことも、たくさんできた。
 今から練習したって、上手くは弾けないよ。周りはそういう声が多くて、でもそういう問題じゃなくて。弾けるようになりたい。いつか、あの素晴らしいイメージを自分でつかみとりたい。
 それを伝えられる…そう、たとえばピアノの先生なんてどうだろうか?オレの頑張りに、ひとみさんはできる限り、夢に近づけるようサポートするわって笑う。
 突然の決意に、みんなは馬鹿だって呆れてたけど。
 いい大学に入ってそれなりの就職をすれば、さぞお金が稼げるだろうに。おまえの頭なら、って。でもそんなの、オレには何の意味もないことだ。
「渚。そこはもう少し、優しく」
 唐突に耳元で聞こえてきた声に飛び上がって、オレは椅子から落ちそうになった。
 後ろから、きつく抱きしめられる。岡崎の匂いが、鼻をついた。
「叩くんじゃなく、触れるだけの軽さで…」
「おか、ざきっ…」
「ピアノの演奏は、上手な脱力がとても大切なんだ。渚。使うのは、指だけじゃない。たとえば、足。ペダルを踏む技術だって、必要なんだよ。身体の力を抜いて、全身で音楽を伝えるんだ」
 ああ、オレは…夢を、見ているんだろうか。
「よく、見ていて」
 何も変わっていない。一年前のあの日とまったく変わらない岡崎が、オレの後ろに佇んでいた。集中していたせいなのか、いつ音楽室の中に入ってきたのか、オレには全然気がつかなかった。
 器用に岡崎が、鍵盤の上に手を滑らせる。ああやっぱり、コイツは魔法を使えるらしかった。
 どうしてだろう。今は何も、ピアノの音が自分の中に入ってこない。
 岡崎がいて、岡崎がピアノを弾いて…そう。いつもオレの中の岡崎は、いつだってピアノを弾いている。それが、オレの好きな岡崎だ。この目の前にいる、岡崎こそが…惚けたようにオレはただ時が流れるのに身を任せていて、やがて、岡崎はピアノから手を離した。
 相変わらず落ち着いた、きれいな顔立ちをしている。目が合うと、その表情が優しく微笑んだ。
 どちらともなく唇が触れて、きつく抱いた胸がたまらなく苦しくなる。
「ただいま、渚」
「ああ。おかえり、ずっと待ってた。岡崎……」
 ずっとこうやって、抱きしめたいと思っていた。触れたいと、岡崎に逢いたいと。
 胸がいっぱいになり、オレは口をつぐむ。岡崎が、どこか眩しそうに目を細めるのがわかった。
「君は、ピアノを弾くようになったのか?渚」
 面と向かって問われると、なんだか照れくさい気持ちになる。
 どう思われるだろう、岡崎に。少しは嬉しいと、喜んでくれるだろうか?
「今はまだ、とても弾けるとは胸を張って言えないけど。いつか…そう、なれたらいいと思う。ピアノの先生になれたら、って思うんだ。音楽の素晴らしさを、みんなに教えてあげられるような人間になりたいって…。それは、岡崎と出逢えたから生まれた選択肢だ」
「…夢のある仕事だな。きっと、渚になら叶えられる」
 岡崎が、嬉しそうに微笑む。
「誰かにそう、思ってもらえる日が来るなんて…。それが、渚だなんて俺は本当に嬉しいよ。俺は、ずっとこんな日が来たらいいなと夢想してた。でもそんな日は来るわけないと、どこかで諦めて、諦めきれずに、苛々とした日々を過ごしていた。ピアノを弾いていてよかった。渚と出逢って、心から、俺は何度もそういう気持ちになる。ありがとう」
 礼を言うべきなのは、オレの方なんだ。岡崎。
 オレの方こそ、何度も岡崎にそう思った。今すぐ伝えたいと、逢いたいと…何度も。
「岡崎…。俺、岡崎と同じものを見たいと思ったんだ。そこにたどり着けなくてもいい、ただ、見ていたくて。岡崎が何を見ているのか、知りたくて。聴きたくて。―――これから、教えてくれないか?」
 問いかけるオレに、岡崎はしっかりと頷く。何だろう、この安心感は。岡崎が好きだ。岡崎の弾く、ピアノの音が好き。すべてが、オレを岡崎に向かわせる。
 知っているだろうか、岡崎は。知らなければ、明かしてしまえばいい。
「一年、長かった…。ずっと、渚に会いたかったんだ。次に会った時、君に落胆されないよう、頑張ろうと思って過ごしてきた。渚」
「…オレも。オレも同じ気持ちだった」
 ああ、オレ。もっとこう、気の利いたことは言えないのか。
 言葉にならない。言いたいことはたくさん、本当にあるというのに。
「君の為に、ピアノを弾きたい。聴いてくれないか、渚。もう一度、…この曲を」
 岡崎が、柔らかく微笑む。
 忘れるはずもない。オレと、岡崎の始まりの曲。その旋律は、オレが一番最初に聴いた音だった。それなのに何か、どこかが違う。
 以前感じたせつないような苦しさは、もうどこにも聴こえない。ただそこには、圧倒的な美しさがあった。せつなさを凌駕する、激しさ。それを内包する、美しい音楽。
 やっぱりどうしたって岡崎には、この場所が一番似合いすぎていた。
 この大好きな音が止み、俺が曲を当ててみせたら、岡崎はどんな顔をするだろうか。
 岡崎と、話したいことがたくさんある。聞きたいことも、知りたいことも。
 すべては、これから。


   FIN.


  2005.10


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