「欲しいもの」



 岡崎は、居なくなってしまった。

 オレは悶々とした毎日を過ごし、憂鬱を生徒会の雑務で紛らわせ、どうにかやり過ごしている。
 あんなに幸せだった恋のトキメキは、恋人が居なくなってしまうと現実に併合し、今はどこか冷めた気持ちで、相変わらず見つからない何かを探して、懸命に模索するのだ。
 いや、今はそれどころじゃない。刹那的で重要な問題が、今のオレを取り巻いている。本来ならばオレの席であるはずなのに、自分のクラスでもないのに、羽柴が当然のようにオレの席に陣取っていた。奴のフットワークの軽さを、オレは時々恐ろしく思う。
「でね、マサもそう思うよね?」
 机に突っ伏す親友に、羽柴はそんな風に声をかける。律儀に返事をしたのは後藤でなく倉内で、…漫才トリオでも見ているようだ。
 こういう時修介がいたら、オレの味方をしてくれ…ないか。あいつ、日和見主義だもんな。修介は後ろの方の席、真面目な表情で、ノートに原稿の下書きをしているようだった。そうしていると修介なのに真人間みたいで、オレはにやにやと心の中で笑う。
「羽柴も甲斐甲斐しいよね。友情に篤いっていうか…後藤、まだ寝る気?」
 オレからすれば、お馬鹿コンビにつきあう倉内も、相当友情に篤いと思うんだけど…。まあ、アレだ。
 類は友を呼ぶ、だな。できればあんまり、関わり合いになりたくないな。…手遅れかもしれないけど。
「今から寝るんだよ。まだ、とか言うな。なあ、渚」
 そこで同意を求められても、オレだって困るというものだ。
 ここは確固たる意志を持って、オレの席を取り戻さなければ!オレは、大きく息を吸った。
「…なあ、じゃねえよ!お前ら、人の席で何やってんだよ。どけよ」
 オレがそう声を荒げれば、羽柴は心配そうな顔で表情を伺ってくるのだ。
「渚、カルシウムが足りてないんじゃない?大丈夫?」
 心配なのか嫌味なのか天然なのか、オレも時々判断に困る。
 わざとだとどこかで思っているから、こんなに無性に腹が立つ瞬間があるんだろうけど。
「羽柴、足りてないも何も…。渚は、いつもこんなだよ」
 呆れたように倉内が解説してくれたが、ありがた迷惑というものだ。
「…どこの誰のせいだよ。オイ」
「少なくとも、オレのせいじゃないな。そうだろ、渚」
 オレに抱きついてくるなんて、今日の後藤はどうしたんだ?オレは、抱き枕じゃないっつーの!
「一番の主犯がよく言うよ。羽柴、コイツらどうにかしてくれ」
 むさ苦しいと後藤を押しのけて、オレは羽柴に救いを求める。…のが、間違いだった。
「ダメだぞ、マサ〜」
「アハハ」
 馬鹿じゃないのか、コイツら。何だよ、この妙な空気は!
 倉内も嫌そうに黙りこんで、溜息をついたりなんかしている。
「………」
「…アハハじゃねえよ!この極悪トリオっ」
 堪えきれなくなって、オレは正当な抗議をする。オレはただ、休み時間を普通に安静に、平穏に過ごしたいだけなんだ。それだけなんだ…!
 そりゃあほんの少しくらいは、からかいやすい性格をしてるかもしれない。特にこの三人にとっては。
 だけど、今くらいそっとしておいてくれないか。オレは、岡崎がいなくなって寂しいんだ…そんな気分に、浸る一瞬があったってそれが今だって、誰もオレを責められないだろう?
「…ちょっと待って。今、後藤と羽柴と僕を一括りにしたね?渚は。悪いけど、一緒にしないでくれる。訂正して」
 女王様が、お怒りになる。
 …なんか疲れてきた。オレは席に座るという些細な希望は諦めて、溜息を殺す。
「……外の空気を吸いに行ってくる。オレ」
 さぞかし、哀愁の漂う後ろ姿だったろう。今のオレは。
「バイバーイ」
「アハハ」
「………」
 相手にするのはやめよう、もう。この度にオレは、思うんだけど。
 教室を出ようとすると、古文の教科書を抱えた秋月先生に呼び止められた。
「渚くん、もう授業始まるんだけど…」
 腕時計をちらりと見て、先生はそうオレをたしなめる。
 タイミング良く、始業開始のチャイムが鳴り始めた。何とも言えない十分間だった…。
「羽柴くんも、教室に戻って」
「はーい」
 子供のワーイと似た発音で、羽柴は手を振って去っていく。一体、何の用だったんだ?後藤に会いに来ただけなのか?羽柴の奴。
 オレが席に座ると、机の上に変な落書きがしてあった。
 
 「元気出してネ」

 という吹き出しの横に、ぶさいくなライオンの絵が描いてある。
「あいつ…」
 岡崎の、突然のドイツ留学。オレが落ち込んでいると思って、励まそうとしてくれたんだろうか。
 これから、一年。岡崎が帰ってくるまでに、オレは何か見つけているだろうか?色んなことがあるだろう。岡崎にも、オレにだって。…きっと大丈夫だ、そう思いたい。いや、願いたい。そうありたいと。心の中で決意表明して、オレは岡崎に想いを馳せる。
 ピアノを弾いている場面が、途切れることなく何度も繰り返されるのだった。


   ***


 それから数日後、オレは菊池先輩に呼びだされた。

 新聞部の部室、というのはどこか独特な匂いがする。それは部員の持ち込む色褪せた資料であったり雑誌であったり、理由があるのだけど。
 菊池先輩に呼びだされたオレは、放課後の部室に足を踏み入れた。オレに気がつくと、菊池先輩は柔らかくほほえんでくれる。
「ああ、渚。わざわざありがとう。生徒会の方は、大丈夫か?」
「はい。今日は何もないんで…。何かあったんですか?菊池先輩。修介にも内緒で来いなんて言うから、オレ、ちょっと緊張してるんですけど」
 新聞部の自称・菊池部長の後継者修介(あくまでも自称)は、今頃情報処理室でパソコンと睨み合っているところだろう。休み時間中、「いきなり、三日間で仕上げろなんて部長が言うから、参った」なんて、珍しく弱音を吐いていたのだ。要は修介をこの部室に立ち入らせない為で、それほど大事な話があったってことになる。菊池先輩が、オレに。
「岡崎、行ったんだってな」
「…え?はい」
 きょとんと頷くしかないオレは、何を言われるのだろうかとドキドキして、先輩の次の言葉を待つ。
「初めてインタビューに応えてくれたんだ、岡崎が。…ただ、その見返りに欲しがったものがあって。渚にはそれが、何かわかるか?」
「わかりません…」
 項垂れる。オレ、岡崎のことなんてほとんど何も知らないまま、あいつは行ってしまったんだから。
 菊池先輩の答えは、オレの予想外で信じがたいものだった。
「君の写真だよ。岡崎は、渚の写真を欲しがったんだ」
「岡崎が…?でも、写真なんて」
「あるんだ。見てみるか?生徒会選挙の時に、俺が撮った写真だ」
「あ…!」
 そこには間違いなく、オレがいた。
 こうやって客観視するのは、変な気分だ。改めてみても、妙な自信が漲っているのが伺える。根拠のない楽観的なその自信は、羽柴の存在によってあっけなく崩されたけれど。
「なかなか、いいだろう?渚には華があるから、画面に凄く映えるんだ。生命力に溢れてるから、レンズを通してもそれが画になって、現れてくれる…。被写体として、俺は、渚にとても興味があった。だから、何かあれば君の写真を撮る癖がついた」
「そ、そうだったんですか…?!」
 憧れの先輩に手放しで褒められてしまうと、嬉しいを通り越してなんだか恐縮してしまう。
「モデルになってほしいくらいだよ。…それとは別に、俺はピアニストとしての岡崎に興味があった。彼は音楽一家でね。古いしきたりを嫌悪するあまり、結果それに縛られている。違うものになどなれるはずないのに、色んな意味で彼は異質なんだ。音を聴けばわかると思うが、どこまでも純粋なピアニストで、一度話を聴きたいとずっと思っていた」
 熱っぽく語る菊池先輩は、ああ新聞部の部長なんだなと実感してしまう格好良さで。
「…音楽一家って言われてみれば、そんな感じもしますけど」
 岡崎にだって、そりゃあ家族はいるんだろうけど。考えつきもしなかった。考えようともしなかったのか…オレは未だに、岡崎とピアノ以外の組み合わせが思いつかない。オレでさえ、入り込めない気がする。入り込むとかどうだとか、そんな問題じゃないんだろうけど。何せ、生活感がない。
「家族はドイツに住んでいてね。留学中は、一緒に住むそうだ。ピアノの練習より、そっちの方が落ち着かないと笑いながら言ってたよ。渚のおかげで、留学する決心がついたそうだ。妙な噂はあっても、実際、あの音楽室のドアを開けて、感動したなんて言う奴は…渚が初めてだったんだな」
 あれが…あの瞬間が、オレの恋の始まりだったのだ。
 何か考え込むような表情をしていた、岡崎。拒絶はもしかしたら、戸惑いだったのかもしれない。
「ずっと岡崎は、何かを待っていたんだと思う。何か…というか、いわゆる確信ってやつだな。渚は、それを岡崎に与えてくれたんだ。きっかけって、必要だろう?特に、何か大きな行動を起こす時は。そのおかげで、俺も岡崎に話を聴くことができた。渚は、大した男だよ。ありがとう」
 菊池先輩は礼を言い、オレに向かって、殊勝に頭を下げる。
「…そんな」
「渚に、お礼が言いたかったんだ」
 満足げに笑う菊池先輩から、オレはそっと視線を外す。
「…岡崎のこと、記事にするんですか?」
「当たり障りのない部分だけね。渚は、心配することはないよ」
「……岡崎も、菊池先輩も…すごいです。オレは」
 その後が、続けられなかった。この空気にそぐわないと思ったし、
 菊池先輩は言葉を遮るようにオレの頭をぐりぐりと撫でて、力強く続ける。 
「何言ってるんだ、君は岡崎を変えた。俺がしたくても、できなかったことだ…」
 君でなければいけなかったんだと、菊池先輩はどこか寂しそうに続けた。
「………」
 胸が締めつけられるような、緩やかな苦しさを感じる。
 迷いを捨て、何かを選んだ岡崎。生き生きしている先輩。オレは…
 オレは?

 恋の悩みによって埋められていたと錯覚していたような、時折訪れる虚無感。再来した忌々しい感覚にオレは舌打ちして、音楽室のドアを開ける。ピアノの前に立った。
 人差し指を、そろりと鍵盤の上に乗せてみる。自分が想像したより大きな音がして、慌てて手を離した。今度は隣りの鍵盤。レ、という音階が響き渡る。
「叩けば、鳴るか…。まあ、当たり前と言えば当たり前だな」
 それだけのことがなんだか無性に面白く感じられて、無造作にでたらめな旋律を紡いだ。いつのまにか気持ちは晴れて、この単純な作業に没頭している自分がそこにいる。
 思い描く恋人の理想図とはかけ離れていたとしても、どこか繋がっているような安心感を感じて…せつないような愛しさに、オレは胸がつまりそうになった。



  2005.09.02


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