「衝動的に、情熱を込めて」



 その音を初めて聴いた瞬間、何故だか涙が出て、胸が詰まるような苦しさを感じた。
 居ても立っても居られなくなって、気が付いた時には、その場所へと駆け上がっていって音楽室のドアを開けると、見覚えのあるピアニストと目が合う。
 静止した旋律はオレを無言で責めているかのようで、怯みそうになりながらも第一声を発した。
「…あの、さ」
 ひどく上擦った声。自分のものじゃないみたいだ。何に動揺しているのか、説明するならばそう、何もかもに。
 オレのクラスメイト…岡崎楽は黙りこんでオレの言葉の続きを待っている。
「岡崎、だったんだな。ピアノ…感動して、オレ……誰が弾いてるんだろうって…急いで、」
 そこで深呼吸。文節のおかしさなんて構わずに、頭の中に浮かんだ単語を必死で繋げる。
 だからどう、とかじゃなくて。とにかく今はこの感動をどうやって伝えればいいのか、
「渚」
 岡崎が、視線を鍵盤へ落とす。
 読み取りにくい表情だった。無表情というよりはまるで、何か考え込むような…
「練習の邪魔だから、出て行ってくれないか」
 反応は、冷たすぎる拒絶だ。
「岡崎、そういう言い方はないんじゃないか?オレ、何か気に入らないこと――――」
 ヴァアン!
 乱暴に叩きつけられる音階に、オレは唾を飲む。
「出て行けよ」
 訳がわからない。オレはすっかり呆気に取られて、俯いた岡崎を凝視するだけ。
 岡崎は頑なだった。オレを見ようともしない。どうしてそんな態度を取られなければいけないのか、せめてもの抵抗に、煩い音を立てドアを閉める。
 いつまで経っても、静まりかえった静謐のまま、ピアノはもう聴こえてこなかった。
 無性に腹が立ってきて、逃げるようにオレは廊下を走り抜けていく。すっかり忘れていたけれど、用事があったことも思い出したのだ。
 あの一音、オレの心はすっかり奪われてしまったのだ。それなのに、岡崎ときたら。
「…何なんだよ。アイツ」
「あ、渚!見っけ〜。おはよっ」 
「うわ、羽柴…」
 今の気分にそぐわない明るい声に、オレは思わず眉をしかめた。
 いや元々、用事があったのは確かなのだけど。いくらなんでも、朝からこう全快すぎる。
「そんな嬉しそうな顔しないでよ。俺、繊細なハートの持ち主なんだから」
「よっく言うぜ。本当に繊細な奴は、そんなセリフ出てこないんだよ」 
 羽柴綾は、うちの学校の生徒会長だ。あどけない雰囲気のわりに、やることはけっこうえげつない。数日程度の短いつきあいのオレがそう思うんだから、恐ろしい男に違いない。オレも生徒会長に立候補したんだけど、数票差で羽柴に負けた。今は副会長をしている。
「生徒会新聞に載せる原稿、ちゃんと書いてきた?渚」
 オレの判断は正しかったのだ。催促される前に渡しに行きたかったが、これはあいこだろう。
 この羽柴の、期待した目。今はこんな些細なやりとりだが、これからのことは考えたくない。
「オレを誰だと思ってんだよ。ほれ、どうぞお納め下さい」
 鞄の中から取りだして、昨日考えた原稿を手渡す。一時間もかからない課題。要は、決められた文字数を埋めてしまえばいいのだ。簡単な話。
「それでは確かに。お疲れ様」
 ざっと目を通し、羽柴はにっこりとほほえんだ。
 本来そんなもの、顧問の長谷川にでも任せておけばいいものを…律儀を越えて、真面目も通り抜け、完璧主義もここまでくると感心してしまう。
「そういう羽柴は、どうなんだよ」
「ん?コレ。読んでもいいよん」
 無論、尋ねるまでもない。きれいとは言い難いが、読みやすい字だ。
 相変わらず熱のこもった文章に、オレは溜息を殺した。
「お前、外面良すぎだよな」
「えっ?失礼なこと言わないでほしいなあ。内面から滲み出た文章だよ」
「そうかよ」
 あんまり眩しくて、最後まで読む気にならないきれいごとの羅列だった。
 羽柴のそういう性格は別に嫌いじゃないけど、たまに辟易してしまう。本心なのだろうかと。
「そういえば、音楽室の方から走ってきたみたいだけど」
「ああ。ピアノが聴こえて…」
「岡崎のピアノ、凄いよね」
 それだけでもう理解されてしまうオレに問題があるのか、羽柴の読解力が恐ろしく発達しているのか。とにかく、オレは、コイツだけは絶対に敵にまわしたくないと思う。
 余計なことは口に出さずに、意外な返事に問いかけてみる。
「知ってんのか?」
「超有名」
 やたらと噂に詳しいところなんて、一体どういう情報網なのか不思議すぎる。
「マジで?」
 同じクラスだっていうのに、岡崎と特に親しいわけでもないオレは、全然知らなかった。そりゃそうだろ?オレが、クラスメイトの男子に興味が湧くとか…ありえないだろ?
 にやりと笑って、雰囲気を出すためなのか、羽柴は何故か声をひそめた。
「岡崎のピアノを邪魔する者には、容赦なくタクトやシャーペンが飛んでくる。無傷で音楽室を後にした生徒はいないって、噂」
「……こえええええぇよ!」
 思わず、想像してしまった。
 可笑しそうに笑って、羽柴は面白がっているのかオレをけしかけてくる。
「ま、あくまで噂だけどね。確かめてみれば?渚」
「……………」
 確かめるも何も、それを知っていたらあんな無謀なことはしなかった。…たぶん。
 悪戯っぽく羽柴は笑うが、危ないところだったんだろうか。オレ、もしかして。
「そんじゃ!また放課後。渚」
「おう」
 羽柴とは、毎日のように放課後、顔をつき合わせることになるのだ。
 教室に入る。当たり前だが、まだ岡崎が居ないことにホッとしてオレは席に着いた。
 大体、人が折角褒めてやってんのにあの態度…。思い出しただけでも、むかついてくる。
「壮真どうした?爽やかな朝に似合わない顔だぞ」
 オレの親友の修介が、にこにこ笑いながら声をかけてくる。この笑顔が、曲者なのだ。新聞部所属、瀬名修介。デジカメと、小さいメモ帳を常に持ち歩き、情報収集に余念のない男。たちの悪さでは、羽柴といい勝負だと思う。
 …どうしてオレの周りって、こんなに濃い奴らばかりなんだ?まあ、オレの親友に代わりはない。大事な存在ではあるのだが。
「あ、おはよ。聞いてくれよ、修介!今日さあ、」
 瞬間、修介がにやついたから何かあるとは思ったのだ。
 身体が揺れた。かくんと膝が落ちるオレに、不機嫌極まりない声音が背後から届けられる。
「渚うるっせえ!耳元で大声出すな。寝らんねーんだよ…」
 うるさいのはお前の方だろ、という言葉は飲み込む。代わりのセリフも、大して変わりなかったが。
 後藤はいつも居眠りをしている問題児で、やたらオレにつっかかってくるのだ。反応が面白いらしいよとは、同じクラスで彼の友人・倉内の弁なのだけれど。
 くっそー、油断した。毎度の事ながら…この悔しさは半端じゃない。
「後藤さあ、その、すぐ暴力に訴える癖直せよ。バカ」 
 後藤の手癖(足も含まれる)の悪さときたら、オレの日頃のフラストレーションは溜まる一方。
 オレの抗議に、いつも睡眠ばかり取っている後藤は、眠そうな顔で欠伸をした。
「悪いな、足が長くて…。まあ、渚が嫉妬する気持ちもわかるよ」
「お前、半分寝てるだろ?言ってること、おかしいんだけど…」
 相手にしてられない。眠い時のこのクラスメイトは、本当に最悪だ。
 修介は傍観するだけで、他人のいざこざには割り込まない日和見主義。
「渚。いちいち後藤を相手にしない方がいいよ。親切心で、アドバイスしてあげるけど」
 後藤の性格は熟知しているらしい図書委員の倉内が、そう口を挟んでくる。修介の情報網では、つきあっているらしい後藤と倉内。オレ、倉内苦手なんだよな。生徒会長になった羽柴の応援演説をしたのは倉内で、美形ゆえなのか何なのか、奴は妙な人気がある。…オレが数票差で負けたのも、きっと倉内の影響が大きいに違いない。つまり、天敵だ。この男さえいなければ、オレは生徒会長だったはずなのだ。
「お前さあ、ほんっと言うことかわいくねえよな。会話する度に、ビックリするぜ」
「後藤に、かわいいなんて思ってもらわなくて結構。気持ち悪いこと言わないでよね」
 あーあ、また始まった。この二人は仲がいいのか悪いのか、飽きもせず、年中ケンカばっかりしている。つきあっているなんて、修介には悪いが、オレにはとても信じられない。まあ、こうなるともう二人の世界なので、放っておけばいいだけだ。
 要領の良い修介は、にこにこと事の成り行きを見守るだけの薄情者だ。
「なんだかな…。修介、オレ時々、このクラスすごく疲れるんだけど」
 二年A組。担任の芝木―――通称・シバちゃんを筆頭に、濃すぎるメンツが揃っている。
「まあ、俺の存在で癒されるしかないな」
 普段にこにこしているくせに、妙なことにこの親友は、冗談を言う時だけ真顔になる。
 冗談を笑わないで言うから、余計疲れも増すというものだ。
「真顔で言わないでくれ…」
 
「どけよ。邪魔なんだよ、渚」

 肘鉄をもろに食らってしまった。
 今度は何だっつーんだよ。今日は厄日だ。家に帰ったら、塩で手を念入りに洗おう。
 不意打ちに軽く突き飛ばされたオレは、咄嗟に手を差し伸べてくれた修介に支えられる。 
「何だよアレ。お前、岡崎に何かした?」
 ぶつかられたオレよりも、修介の方が驚いているらしい。
 すぐに気を取り直して、溜息を飲み込んで…オレは、岡崎の背中を睨みつけてやった。
「…何もしてねえよ」
 むしろオレ、被害者だぜ?
 泣かされたんだからな、岡崎に。あんまり凄いピアノだったから、
「……何もしてねーだろ!バーカ!!」
 オレはどうやら、腹に据えかねていたらしい。
 自分で意識したよりも大声が出てしまい、教室中がしんと静まりかえった。視界の中で、眠りから覚めた後藤がぴくんと魚のような動きをする。 
 周りの視線が痛すぎる。何よりも、岡崎のシカトは一番のダメージだった。窓際の席に腰を下ろすと、岡崎は何事もなかったかのように、ポケットから取り出したウォークマンのイヤホンを耳に嵌める。時折、たん、たんという机を叩く指の音がした。
 徐々に教室がいつものざわめきを取り戻し始め、心配そうにオレを隣りで呼ぶ声がする。
「どうかしたのか、壮真?大丈夫か?」
 修介が珍しく優しい表情をするから、何事なのかと思ってしまった。 
 どうして自分が泣いているのかといえば、今朝のピアノの旋律が、脳裏に蘇ったからだ。あの指が、叩いているのは奴の脳裏ではモノクロームの楽器なのだ。見えるようだ。
 胸が苦しい。恋に落ちたら、こんな気持ちになるだろうか?
「壮真」
 揺さぶられて、我に返る。 
「あんまり、気にすんなって。な?」
 そんなことは、問題じゃない。あの音楽、あの旋律を聴いたら誰だって…

「…うわああああ」

 オレは頭を抱え、床にしゃがみ込んだ。今たぶん、顔が真っ赤だろう。見られたくない。まさか、と思うだろう。誰がこんな…こんなはずじゃなかった。明後日だって、合コンの予定がある。隣りの女子校の生徒と、四対四。楽しみにしてた。
 好きになった瞬間失恋が決定したなんて、本当にオレはついてない。 
 僅かに上げた視線の先で、岡崎は目を閉じ、手のひらを動かしている。あそこだけ、違う空間みたいだった。岡崎とピアノだけ、きっと存在しているんだろう。
 まただ。また…オレのすべては釘付けになって、焦がれるような感覚に、苦しくておかしくなりそう。
 何度も何度も繰り返し、恋に誘う旋律が侵食していくように、胸を痛めた。



  2005.04.27


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