前奏曲「木漏れ日の中で」



 もっと違う出逢い方をしていたら、何か結果は変わっただろうか。

 菊池は放課後、新聞部に向かっていた。
「あの、お尋ねしたいんですが」
 妙に落ち着いた声に呼び止められ、振り向いて新入生らしい後輩を目に留める。
「音楽室は、どこでしょうか?迷ってしまって…」
 見ればなかなか、彼は造りの良い顔をしていた。
 どこかで見覚えがあるような気がしたものの、菊池にはそれがどこなのか思い出せない。
 かといって、「どこかで会ったことが?」なんて、尋ねるわけにいかないだろう。ナンパをしたいわけじゃないのだから。
「吹奏楽部に入部希望なら、うちにはそんな部活はないが」  
「いえ、違います」
「…案内しよう。こっちだ、ええと」
「岡崎です。先輩、お願いします」
 それきり黙って、岡崎は菊池の後をついてきた。
 元々、あまり饒舌なタイプではないのだろう。それは、菊池も同じだった。沈黙が、不思議と居心地悪くない。普段特に用事もない音楽室の前に立ち、菊池は笑顔を浮かべた。
「最上階だから遠いんだが、憶えやすいだろう?岡崎」
「そうですね、あまり人も通らないようですし…。ああ、今日は天気が良いですね」  
 窓から入る日差しの強さに、岡崎が表情を和らげる。
「ありがとうございました、先輩。それでは、失礼します」
「待って!」
 岡崎の腕を掴んでしまったのは、反射的な行動だった。
 菊池はまじまじと岡崎の顔を見つめて、それから嬉しそうに声を張り上げる。
「思い出した!君、ピアニストの岡崎楽だろう!?俺、新聞部二年の菊池辰巳っていう…」
 どうしてすぐに、気づかなかったのだろうか。それほどに印象に残っていた、あのピアノと凛と立つステージ上の、少年は。
 ああ、聞きたいことが山ほどある。何より、彼の音楽を。知りたいと、菊池は強い衝動にかられたのだけれど…岡崎は表情を変えて、菊池の手を振り払うと怪訝そうに視線を落とした。
「それが、何か?」
「何か、って…。俺、君のピアノ聴いたことあるんだ。確か、親子コンサートで……」
「だから、それが?」
「いや、その……」
「そんなこと、あなたに関係ない」 
 素っ気ない声が、菊池を冷たく拒絶する。
「岡崎…」
「……………」
 無言のまま菊池に背を向けて、岡崎は走り去ってしまった。一体、どうしたというのだろう。聞いてみても、答えてはくれないだろうけれど。
 何故音楽科でなく、普通科しかないうちの高校を選んだのか?次々に浮かんでくる、疑問符。…調べてみれば、面白いネタになるかもしれない。が、そんな気分にはなれなかった。 

 何日かして、菊池が音楽室の前を通るとピアノの音。
 今までこんなことはなかったから、きっと岡崎が弾いているのだろうと思った。意識してみれば、どこか神経質な旋律という気もする。曲名までは、わからない。
 どんな顔をして、弾いているのだろう。彼は、幸せなんだろうか。どうしてこんなことまで自分は、考えているのだろう。菊池は音楽室のドアを見つめたまま、小さく溜息をつく。
 いつか、話が聞けるだろうか。彼のことを、もっと知りたい。教えてほしい。
 このドアを開ける勇気が、今はない臆病者だけれども。彼の領域に踏み込めることを赦されるのが、自分であったらどんなに嬉しいだろうか。
「…どうかしてるな、俺は」
 ただの興味にしてはいやに、彼に拘ろうとしている。
 その行為の意味を考えるには、あまりにも瞬間的な出逢いに過ぎない。
「……まさか、俺は」
 不意に、ピアノの音が止む。静かな四階の廊下は、誰もいないかのように静かだった。いくら待っても、願っても…それ以上のことは、起こらなかった。
 懐かしい思い出。暖かい、春の日のことだ。


  2006.06.25


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