いばら



 …駄目だ。
 瀬名はスポーツ新聞から目を背けると、冷たい机の上に頭を突っ伏した。
「ああ、瀬名。いたのか」
 部室のドアが開き、菊池が顔を見せる。返事をするのも億劫だったが、何とかどうもと声を発した。
 どすん、と重い質量が自分の隣りに座る気配がする。
「今日はずっと、ここにいたのか?珍しいな」
「そうですかね」
「渚と、喧嘩でもしたのか?」
「どうですかね」
 溜息混じりの返事がすべてを物語っており、菊池は思わず肩を竦めた。
 わかりやすい後輩だ、と心の隅でそっとそんなことを考える。口に出したら、きっと憤慨するだろうが。
「二人でも、喧嘩をすることがあるんだな。意外だ」
「そうですかね」
「仲が良いからな、何だかんだいって」
 もし喧嘩をしたのであれば、菊池の知るところでは初めてだ。
「どうですかね」
「…瀬名」
 優しく肘鉄を食らわせると、慌てて瀬名が顔を上げ落ち込んだ表情を見せる。
 そんな素を見せることすら瀬名にしては本当に珍しく、菊池はからかいのセリフを打ち消した。
「すみません、部長に八つ当たりしてもしょうがないんですけど。少し気が立ってて」
 やはり珍しい。自分からそう、白状することなどめったにないくせに。
「俺でよければ、話を聞くが」
「部長は、卒業したら大学に進学して写真部に入る。そう、言ってましたよね」
 予想外の瀬名の問いかけに、菊池は少しだけ面食らった。
「ああ。そうだな。その希望は、今でも変わっていない」
 いつか、写真家の道を進めたらいいと。生き生きとした人間の生き様を、一枚のフレームで表現できたら最高だといつも菊池は思っていた。
 この高校には、写真部はない。だから菊池は新聞部(元は報道部だったのだが、別れてしまった)に入部したのだけれど。
 瀬名は最初から、報道に興味があるようだった。他人が何を考えているのか、知りたい。興味津々に目を輝かせて、いつもインタビューに望んでいて。
 人間が好きだという点において、菊池と瀬名は似ているところがある。明確に口にしたりしないが。
 いずれ自分が卒業する時、菊池は瀬名に部長を継がせようとは思っていた。
「俺はずっと、壮真の隣りにいるんだって当たり前みたいに思いこんでいて。昔も今もこれからも、きっとずっとそうなんだろうって自然に、思ってたんですけど。でも、あいつは」
 瀬名が、言葉を切る。
 先を告げるのをためらうようで、その指先は少し震えているようにも見えた。
「渚がどうかしたのか?」
「音楽に関わる仕事がしたいって、言われました。…どうしてなのか、部長ならわかりますよね」
 言われるまでもない。
「…岡崎、か」
 あの二人がどんな風に出逢い、惹かれ合ったのか…菊池は知らない。
 岡崎のことを少なからず意識していた菊池にとって、瀬名の失望感は共感できるものではあった。
 どうして、自分ではなかったのか。考えても仕方のない疑問符。答えなどない。彼の世界に、誰も触れられる者などいないと思っていた。そう、思っていたかった。呆気なく、渚によってその仮定が崩されてしまうまで。
「勿論、俺は反対しました。そんなの壮真には似合わない、もっとお前なら活躍できる場所があるって。言い合いになって、なんか、俺…すごく…寂しくなったんです。身勝手に信じていたものに、突然裏切られたような気分に、なって…そう思ったら……たまらなく、」 
 …たまらない、気持ちになったのだ。何でもできる自慢の、幼なじみ。誇らしかった。
 今まで触れたこともなかったような、音楽の道。上手くいくなんて、確証はない。それどころか、
「……怖かったのかも、しれません」
 瀬名はきつく瞼を閉じて、溢れそうになる何かを必死で堪えようと試みた。
「そうか」
「はい。俺たちって、そんなもんなのかなって思って。幼なじみって、難しいですよ。いきなり現れた岡崎に、大事な大事な壮真を取られたような気になって、腹が立つやら悔しいやらで。俺が文句を言う間もなく、あいつはドイツに留学しちゃうし。ああああもーーーおう!」
 だん、と力強くテーブルを叩いてみる。手がじんじんと痺れて痛い。不快になっただけだった。
 叫んでしまうと随分気持ちが晴れてきて、改めて瀬名は深呼吸する。
「渚のことが好きなのか?瀬名は」
「そりゃあ好きですよ。…チッ、今までどれだけ俺が苦労して、あいつの恋を揉み消してきたか……」
「え?」
 思わず、菊池は聞き返してしまった。
 自分の失言に気がつき、瀬名はにこにこと笑顔を浮かべる。そうすると、もういつも通りだ。
 好きなように伸び伸びと行動するのには、渚にとって色恋は邪魔だと思っていた。
「あ、こっちの話です。気にしないでください。ま、恋愛感情ってわけじゃないんですけどね。家族とも違うし。なんていうか、俺にとってあいつは、特別なんです。手の届かない、眩しい太陽みたいで」
「ああ」
 瀬名にとっての幼なじみが太陽ならば、自分にとっての岡崎は月のようだと菊池はぼんやり思った。静かなのに惹かれる。じわじわと、焦がれるでもなく淡い感情を抱いてしまう。
 岡崎が戻ってくる場所に、もう自分はいない。そんなことに思いを巡らせて、菊池は視線を落とした。
 明るい表情になった瀬名が、気持ちよさそうに伸びをする。
「…ふう。なんか話したらスッキリしました。ありがとうございました、菊池先輩」
「そうか?なら、よかった」
 菊池も表情を和らげ、頷く。
 瀬名にはどこか、人をくったようなところがある。そこが魅力でもあり、短所でもあった。こんな打ち明け話ほど、瀬名に似合わないものはない。きっと、自覚もしているであろうが。
 囁くような、声が届く。秘密を、そっと零すような口調。
「あいつがいばらの道を進むなら、俺は…」
 最後に何と言ったのか、菊池には聞き取れなかった。
 瀬名は立ち上がり、ドアのところで菊池を振り返りほほえんだ。その笑顔は、晴れやかだ。
「仲直りしてきます。俺には、あいつが必要ですから。きっと、壮真にも」 
「健闘を祈る」
 そのすべてに何か、言葉にしがたい羨ましさのようなものを菊池は感じた。
 瀬名の見ていた、スポーツ新聞。どうやら、星占いの欄だったのだろう。自分から行動を起こすべし、という文字が目に入った。


  2005.11.13


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