君のとなり



 その姿はまるで夢みたいだと、秋月は思うのだ。
「秋月センセ」
 秋月には今でもまだ信じられないというか、この現実が自分の妄想のような気がしてしまう。
「セーンセってば。聞いてる?ねえ。秋月先生」
(…その言葉だけ聞いたら。何も変わっていないようで、あの頃から、色んなことが変わっているんだ…)
「………」
 これでは、会話が一向に進行しない。二人のやりとりを傍から見ていた長谷川が、呆れたように割って入った。
「秋月先生。しっかりして下さい」
「はいっ!すみません…えっ…と……」
 正気に返った秋月が、顔を赤くして口ごもる。長谷川はこうやって、よく秋月の目を覚ましてくれるのだが、その度にたまらなく恥ずかしい気持ちになるのだった。
 職員室。学生服姿ではなくスーツを着こなした英語教師の後藤が、昔と変わらない笑顔で目の前に居る。それが、全部本当のことだなんて。見慣れるでもなく見惚れてしまうのは、そんな感情には今は歯止めをかけたいのに。
 元々大人びていた後藤のスーツ姿には、何の違和感もない。似合っている。恋人が初めて赴任した学校は、母校ではなかった。その時も今も、秋月はそれぞれ違う意味で複雑な気持ちになる。
「後藤先生が、あなたに用があるようなので」
 救いを求めるような視線を向けてくる秋月に、長谷川は柔らかい苦笑を浮かべた。
 とんだお節介だと自分でも思うのだが、こんな秋月は可愛らしくて放っておけない。後藤だけに、独占させる義理はないのだ。
「急ぎの…用事、ですか。後藤…先、生」
 避けるどころか嫌われているようにしか感じられないこの態度が、全部愛情の裏返しだなんて。本当に、後藤が羨ましい。
「オレはただ、秋月先生と話がしたかっただけです。お仕事、まだかかりそうですか?」
 人目のあるところでは、後藤は秋月に対し敬語で話をする。その言葉が新鮮で、ドキドキして意識してしまうなんて、重症だし手に負えない。線引きをしてほしいと強く懇願した自分が、説得力に欠ける。
「もうすぐ終わるけど…」
(今後藤くんに話しかけられたことで、集中力が全部飛んでいってしまった)
 煮え切らないその返事に、後藤は嬉しそうに笑った。後藤はといえば、今の関係に幸せを感じている。先生と生徒だった頃は、邪魔だった垣根が今はもうない。先輩後輩という立場の差はあれど、恋人と同じ場所に立てることが嬉しいのだ。
 不純な動機で結構。これくらい行動して示さないことには、秋月はくだらない理由(後藤くんの為に、という名目の不安からくる情緒不安定)をつけて、自分から離れていってしまうだろうという判断もあった。そんなこと、させるものか。
 秋月が実際にお付き合いから逃げようとしたのは、後藤が高校を卒業する時と、大学に通っている頃の計二回。思い出したくもないがその時は、腹が立つというより、笑ってしまうくらい愛しさが増しただけだった。
 諦めるのではなく自分から行動を起こして、相手に近づいていくことの大切さをこの恋で学んだ。後は実践するだけで、たとえばお互いを繋ぐ赤い糸が細く頼りないものだとするならば、それを大切にしたいと思う。
「でしたら、一緒に帰りましょう。明日は休みですし、お酒でもいかがですか」
「……………」
「秋月先生」
 優しく名前を呼びかけられて、泣きそうな表情で秋月は頷くのだった。



  2010.02.22


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