ささやかな楽しみ



 バレンタインが近づいていた。…とは言っても、オレが勤めているのは男子校。校内に変化はない。そう断言したいところだが、どこにでも『例外』はあるものだ。
 昔はオレもその例外の中の一人で、そんな思い出が懐かしい。
「後藤先生。今、かまいませんか」
 同僚の長谷川に声をかけられて、職員室を出る。
 廊下を歩き人気のない窓際で立ち止まると、長谷川は物言いたげな視線を彷徨わせた。こんな態度は珍しい。
「何ですか?秋月先生なら、さっき図書室に行くって言ってましたけど」
「その、秋月先生に関係した話なんですが」
(何だ?)
 オレの恋人である秋月文久を、長谷川が想っていることは知っている。宣戦布告など、今更な話だ。
「あなたにこんなお願いをするのは、間違っているんでしょうけど…」
「別れませんよ」
 宣言したオレに、長谷川は首を振る。
「もうすぐ、バレンタインが近いですよね」
「はあ」
「毎年、俺は秋月先生にチョコを頂いているんです。俺はそれを、ものすごく楽しみにしていて、義理でも本当に嬉しくて…」
「………」
「だからそれを、俺のささやかな楽しみを…今年も、奪わないでもらえますか?大目に見て頂きたいんです」
 わざわざどうしてこんなこと、オレの了承を得ようとするのか。嫌がらせかとも思ったが、切実な表情は言葉通りのようだった。オレに邪魔されるのは本当に辛いから、こういう手段を取るしかなかったんだろう。
 文久が長谷川にチョコを贈っていたなんて、オレは全然知らなかった。他の男にももしかしたら配っているのかもしれないし、長谷川が文久にとって、オレとはまた違う<特別な存在>なのかもしれない。考えたくないけど。
 何と返事をしたらいいかわからず、意地悪な疑問が頭に浮かぶ。
「…長谷川先生は、そんなことで満足なんですか?平気なんですか。あの人はオレのもので、その相手に、こんな」
 オレだったら、こんな状況は絶対に耐えられない。
「最初から、君しか見えていない人だから。その感情に比べたら、俺の気持ちなんて淡いんじゃないかと感じるくらいにはね」
 それぞれの想いを、比較なんてできるだろうか。オレが自惚れた秋月先生の恋心に、長谷川もまた気づいていた?隠すつもりで零れていた想いの欠片を、あの頃オレは一つ一つ大切に受け取っていたのだけれど。
「それでもどうして、まだ好きでいられるんですか?
 先生は…馬鹿正直だし余裕ないくせに格好つけようとして失敗するし、すぐ自分を投げ出そうとする。酒に弱くて煙草にも逃げるし、だらしないかと思えば、変なとこ真面目ですぐ怒る。嘘をつくのが下手なのに嘘つきで、浮気はするし、人の気持ちわかんないような人ですけど」
 長谷川が笑う。言葉にしなくてもお互いの気持ちが一瞬通じ合ったような錯覚をおぼえ、頭痛がする。恋敵と通じ合ったところで、何も嬉しくなどなかった。
 それでも。全部ひっくるめて、オレたちはあの人が好きなのだ。結局そこに戻る。だからこんな、不毛な会話を。
「かまいませんよ。別に、チョコくらい」
 オレは余裕ぶるのに失敗し、溜息を殺して譲歩した。


   ***


 はっきり言って、オレは相当面白くなかった。
 そりゃあ文久が日頃どれだけ長谷川の世話になっているかは、傍で見ていれば嫌ってくらい承知しているにしても。その見返りに愛を求められるのは、冗談じゃない。チョコならまあ…簡単に頷けない自分の器の小ささ。
「後藤くん、機嫌悪いね」
「真之」
 食器を洗い終わった後、わざとオレを挑発するような物言いをして、文久は肩を竦めた。
 この恋人のオレへの態度は、付き合う前から気紛れで、オレは振り回されてばかり。でもそういうところ、本当は嫌いじゃない。いい時も悪い時もあって当然だし、文久らしいのが一番嬉しいから。
「今度は僕、何をしたのかな?身に覚えがないんだけど」
 普段の行いのせいでオレに色々言われている文久は、困ったように表情を曇らせる。自分に原因があるのだと確信しているあたりはさすが、オレのことをよくわかっているというか…。
「アンタ、長谷川のことどう思ってんの」
 初めて聞くような質問でもない。気持ちがささくれ立つ度にぶつける感情は、うまいこと誤魔化されたりなだめられたり。
 嫉妬は飼い慣らせるようになった。そんな大人のような表現は、オレにはまだ全然似合いそうもない。
「…お世話になってる人」
 一瞬だけ、考えたような間があった。
「それだけ?」
「……すごく、お世話になってる人」
 思案した後に、ひらめいた!みたいな様子で「すごく」を付け足した文久は、他に何も思いつかないようだった。オレはなんだか一気に色んなことがどうでも良くなって、噴きだすのを堪える。
(文久は、こういう性格なんだった…)
 けっこう単純に物事を捉える文久が、複雑にしようとするものなんてオレが相手の時くらいだ。あんまり嬉しくない。
 その容姿のせいでよく誤解されがちなのだが、文久が何も考えずぼんやりしている姿を、憂えていると周りが勝手に心配を始めたりする。得なのか損なのか、わかんねーけど。
「僕、何かおかしいこと言った?本当のことなのに…」
「いや…。ごめん、文久を試すような質問して」
 オレが聞きたかったのは、もう少し路線の違う話だったような。
「別に…。それで真之の気がすむなら、僕はかまわないけど」
「バレンタインの話をしたんだ、長谷川と。文久にチョコをもらえるのが嬉しい、って言うから」
「あの人のそういうところ、かわいいよね」
 反応を見ようとしたのにしれっとそんな風に返されて、一瞬言葉に詰まってしまう。オレより文久の方が、一枚も二枚も上手なのだ。
 浮気がバレたみたいな表情でもしてくれたら、色々ツッコミようもあるというのに。なんだか悔しい。
「それはない」
「真之のヤキモチは、もっとかわいいけどね」
「…もう!その余裕な顔、ムカつくんだけど」
 校内でオレとすれ違う時なんて、笑っちゃうくらい緊張して気を張っているくせに。今のこのリラックスは何。
「僕は真之の余裕のない表情、かわいくて大好きだよ。今みたいな」
 文久は微笑んで、オレにキスをした。かわいいというより凶悪なほど、蠱惑的なものだ。
「もっとかわいいところも見せて…。他の男に興味なんか湧かなくなるくらい、夢中にさせてよ。僕が真之を傷つけた時は、おしおきしていいから…。ね?」
「そういうプレイがお望みなわけ?」
「責められたいの」
 オレに身体を押しつけてくる文久は、完全にエロスイッチが入ってる。
(本当にもう!)
「真之」
(うっ…)
 昔から、この誘惑に抗えたことなど一度もない。オレは自分の敗北を悟った。
 もう好きにして。オレが言うのは間違っているのかもしれない。でも、これほど的確な台詞もない。翻弄されて悔しいと感じるのは一瞬で、簡単に快楽に流される。強烈で、眩暈を伴うほどの快感を貪る幸せを、手放す気はない。
 大切なことを忘れそうになる前に、

「アンタが誰にチョコをあげようが勝手だけど、愛をばらまく相手はオレだけにしといて」

 オレの牽制に、勿論と嬉しそうに返事をする文久。本当は嫌だけどなんて格好悪いことは言えなくて、情けない自分。それでもそんな笑顔を見たら、まあいいかなんて結局はすべて赦してしまう。
 ずっとそんな風に積み重ね続いてきた関係が、これからも変わらないように。
 願うだけでは足りなくて、オレは文久の肌に唇を落とした。



  2012.01.16


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