夜のとばり



「口説くのと口説かれるのは、どちらが好きですか?」

 初めて環にかけられた言葉は、そんな問いかけ。
 クリスマスが近づく冬の街。女に振られたばかりのオレはバーのカウンターに座っていて、マルガリータを飲んでいた。さっきまで一之瀬がオレをあの手この手で慰めようとしていたが、二時間半の頑張りの末、帰ったところだ。
 隣りに座った男のことなんて、特に興味も抱かない。眼鏡の男は一息にカクテルを飲み干して、オレに向かって質問する。
「口説くのと口説かれるのは、どちらが好きですか?」
「今なら、断然口説かれたいね。オレは」
 大体一之瀬の慰め方ときたら的外れで、一生懸命なのはいいんだが(そこがかわいいといえばかわいい、と肯定できなくもない数少ない美点だ)情緒に欠ける。
「…あなたみたいな人でも、振られることがあるんですね。相手の女性は、見る目がない」
「悪趣味だな。つまらない話だっただろう」
 他人の恋話などオレには全く興味がないが、世の中には物好きもいるものだ。
「いいえ。あなたが誰のものでもないと聞いて、俺は気分が高揚してしまったんです。ねえ、口説いてもいいですか?」
「…君は酔っているのか?酔狂なことを」
 物好きどころか、ゲテモノ食いか。心の中で悪態をついて、助けを求めるようにオレはカウンターにいるマスターを見やった。奴はオレの意思をわかっているくせに口元を微笑ませ、クロスでグラスを磨くだけだ。
 ここのマスターは嫌な感じの客に絡まれた時には必ず、さりげなく何とかしてくれる。つまりこの眼鏡は、マスターの合格点を通過していることになる。その点で、オレは少し安心した。
「この一杯で勇気が出るのなら、俺はいくらでも飲みますよ。はじめまして、俺は岡江環といいます」
 落ち着き払って口説きにかかる男に対して、動揺するのは癪に感じる。
「小説家と同じ名前だな。『恋愛仮面ゴルドラン』、オレは好きでね」
「あなたに知っていてもらえたの、嬉しいな。あれは、俺が書いたものです」
「岡江環!?」
 オレはそこでようやく初めて、環の顔をまじまじと見つめた。恋愛仮面ゴルドランだけじゃない、岡江環の本なら全部揃えている。
「オレ…は……」
 相手が岡江環だと聞くと、オレはなんだか名乗りづらくなった。オレの作風は岡江環とは正反対と言って差し支えなく、暴力的な表現も多い。そもそも環の方が、オレよりデビューが早いのだし知られていない可能性も……。
「行野克己先生、ですよね。著者近影の写真と同じだ」
「わかって…!」
 秘密を打ち明けるみたいに、環が悪戯っぽく微笑む。オレはからかわれているのだろうか、この男に。
「…先生は止めてくれ。それから、たちの悪い冗談も」
「行野さん」
「………」
「試してみませんか?相性が合うかどうか…」
 熱にうかされたように囁いて、眼鏡を掛けた目が真っ直ぐにオレを射抜くように見つめる。冗談を言っているような表情じゃない。酔ってしまっているのは、オレの方なのだろうか。
 オレは別にゲイではないが、時折同性に好意を向けられることがないでもなく、実を言うと寝た経験もある。だから嫌悪感を抱くというよりは、まあそれもありかもしれないと判定して、席を立った。

 それから数年経った今でも、環との付き合いは続いている。お試し期間なんてとうの昔に過ぎ去って、もうお互いが離れられなくなってしまった。オレはクリスマスが近づくたびに、あの夜の出会いを思い出すのだ。

「飲みすぎだぞ、環」
「…ん……」
 初めて会った夜の話をしたら、環は照れを隠すようにどんどんどんどん酒を飲み進め、この有様だ。オレは今にも眠ってしまいそうなその目から、邪魔な眼鏡を外してやった。
「行野、さん…」
 朝目が覚めてから、夜寝る前まで。ほとんどの時間、環は眼鏡を外すことはない。何かの拍子にコンタクトにすればと提案をしたら、目の健康の為には眼鏡の方がいいと思うし、俺は眼鏡が似合うからいいんです。眼鏡を掛けていることで、俺が何か行野さんに不利益をもたらしていますか?大体、とうんざりするような長さの説明を(途中から聞いていなかったが)受けたので、オレはもう二度とあんなことは言わない。
「水飲むか?もう寝るか?お望みを叶えてやるよ」
「キスがいいです」
 恋人のご所望は、状況が状況でなかったらかわいらしいものだった。
「酒の味しかしねえよ。明日の朝な。…ベッドに運ぶぞ」
「キスがいい…。子供がするようなの」
 本来は、オレよりも環の方が酒に対して耐性がある。ただ、酒癖ということであればたちが悪いのはオレより環で、一度だだをこね始めると本当に面倒くさい。しまったな。
「ほら、唇」
「ん」
 触れるだけの口付けを落とすと、環は嬉しそうに笑った。そのままオレに抱きついて、安堵したように寝息を立て始める。
 こういう時に何となく、オレは年の差を実感する。子供みたいじゃないか、環が。いつもあんなに澄ましているから、余計に微笑ましく思えるのだ。
「おばけ…、クリスマスが……袋の中に」
「何だって?」
 意味不明な寝言。環の夢の中は、一体どうなっているのか。返事の代わりに、抱きしめる腕が強くなる。
 オレは声も出さずに笑って、暫く環の温もりと重みを身体で感じていた。


  2009.12.21


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