優しいもの



「克己君変わったね。いい顔してる」

 六年ぶりに会う香織さんは、嬉しそうにそう言って微笑んだ。
 高城 香織。オレが一瞬会社勤めをしていた時の(三ヶ月ともたなかった)、優秀な同期だ。容姿が良くて仕事も出来る、となれば男は放っておかない。媚びないその毅然とした態度は、男のみならず同性にも受けが良かった。
 酒を飲み、意気投合したオレたちは恋愛感情を挟むというよりはお互いに同士で、だからこそ気安く顔を付き合わせることもできたのだが…。同じく同期の下野が香織さんに恋をして、オレの友情を疑うものだから距離をおいた。それだけといえば、それだけと表現できる関係だ。
 あの三ヶ月は、夢だったような気もする。思い出そうとしても現実感を伴わず、三ヶ月に四度くらい書き留めてある日記がかろうじての日々の証拠。それから目の前に居る香織さんも、オレの過去の証明にはなるんだろう。
「全っ然、連絡してくれないんだもん。自分から、探しに来ちゃった。元気な顔見れてよかった。…もう。克己君、何か喋ってよ」
「相変わらず綺麗ですね。香織さんは」
 本心からの台詞だというのに、棒読みになってしまうのはオレに役者の才能がないから。
「その挨拶みたいなお世辞、やめてって言ってるでしょう」
「そりゃあ…。綺麗な人には、挨拶で綺麗ですねくらいはオレも言いますよ」
 照れている香織さんは新鮮だが、環には愛してると挨拶をするし、それと何ら変わりのないことだ。
 その辺の無頓着さを時折誰かに何か言われたりもするが、別段どうってことはない。環は嫌がっていないし、その基準はオレも自分で惚けているとは思う。
「結婚してるんじゃないの。奥さんに気を遣ったら」
「結婚ね。この分じゃ、一生無縁のままだろうな。オレの恋人は男なんですよ」
 突然の連絡は、香織さんが結婚するということなのかもしれない。そういう節目に、無償に誰かに会いたくなる衝動。
「はっきり言うところが、克己君らしいわ。そういうとこ、好きよ」
「六年前に言ってほしかったなあ。あの頃ならオレ、その言葉を真に受けたのに。遅いですよ」
 オレは煙草に火をつけながら、気軽で簡単な嘘をついた。その時は付き合っている女がいたので、何かあっても香織さんはあくまでもオレの同僚でしかなかっただろう。
「ふふ。だとしても、あなたはあの場所にいなかったでしょ。繋ぎとめられもしない好意なんて、役に立たないわ。ね、そんなことより。克己君の付き合ってる人って、どんな人?興味あるな〜」
「感覚が、まともっていうか。オレがこんななんで、二人でいると丁度いいんです」
「…克己君の、『そんな』ところを好きな人って沢山いると思うけど。最近、ほんの少しね…書くもの、優しくなった気がしてた」
「え?」
 動揺した。最後の付け足された言葉に、自分でも無意識のうちに不安に思っていた領域へ入り込まれて、それだけで丸裸にされてしまったように急に居心地が悪くなる。香織さんの形の良い唇が笑う。

「そっか。克己君の揺れるところって、ここなんだ」

 凛とした声音に確信をつかれ、返事を聞く前にオレは立ち上がってしまった。
「香織さん…。オレ、帰ります」
「気分を悪くした?ごめんなさい」
「…用事を思い出しただけだ。それじゃ」
 香織さんは追いかけてこなかった。安堵している自分に苛つきながら、携帯のボタンを押す。呼び出すのは一之瀬だ、環じゃない。
「行野さん?行野さんからかけてくるなんて、珍しいなあ。嬉しいですけど」
「一之瀬」
「…行野さん、今どこですか?俺、すぐそっちに行きます!」
 名前を呼んだだけなのに、オレの状態を察したらしい一之瀬はすぐに反応を返す。
 オレが何を考えているかは見ればわかる、お見通しです。以前得意げに告げられた事実は全く本当で、ありがたい時と迷惑な時の半々。今は、おそらく前者の方だ。
「一之瀬…。いや、オレが行く。今日は、家に居るんだろ」
「で、でも。大丈夫ですか?」
 幼い子供に尋ねるみたいな優しい問いかけに、唇が歪んだ。
「大丈夫かって、何が…。自分じゃそれがわからないから、お前のところに行くって言ってんだよ。黙って待ってろ」
 オレが弱った時に向かうのは、孤独を選ぶかまずは一之瀬。好きな子にはいいところを見せたい、出来る限りは。よって、一番最後が環。環に泣きつくなんて、本当に最終手段なのだ。
「何かお菓子とか要ります?酒?あっ、そうだ。出前でも取りましょうか!」
 呑気な一之瀬に、オレはつい本気で叫んでしまった。
「何もいらねーよ!お前がいればいいんだよ、馬鹿!…クッソ、何でこんな台詞を一之瀬に吐かなきゃいけないんだ?オレは…。自分でも納得いかないがしょうがないだろ?おい、一之瀬。何とか言え!」
 文句を言っているうちに、自分でも恥ずかしくなってきてしまった。一之瀬が相手だと無性に抵抗のある台詞だが、本心だ。
 一之瀬は電話の向こうできっと目を丸くして、驚いているに違いない。ああ、目に見えるように理解できる。
「……………」
「一之瀬!」
 堪えきれない笑い声が、耳元で零れ後悔を煽る。
「う…は…ハ、ハハ…アハハハ!今の、もっかいお願いします!お前がいればいいんだよ、ってやつ!!」
 一之瀬は大はしゃぎで、人の気も知らずご機嫌全開絶好調になった。そのあまりの鬱陶しさに、眉間の皺も深くなる。
「………いいか、一之瀬。それは幻聴だ。お前は頭がおかしい。オレは何も言わなかった…」
「ええー!そんなぁ…。胸のトキメキを返してくださいよっ!」
「ときめく相手が違うだろうが、馬鹿…。とにかく、今から、行くから」
 これから一生、ことあるごとに今口から漏れた台詞を何度反芻されるのだろう。そんなことを考えるとゾッとして、不安を振り切るようにオレは一之瀬が住んでいるマンションへと向かった。


   ***


 一之瀬の部屋は、きちんと整理整頓されている。オレの顔を見ると奴は開口一番、「すぐにピザが来ます!マルゲリータにシーフード♪」と挨拶を忘れた笑顔で迎え入れてくれた。
 部屋の中で存在感を放つのは、色とりどりの熱帯魚。この男はこう見えてアクアリウムが趣味なので、本当に似合わないと思うが…いつも元気で明るく見せておいて、本質は違うところにあるのかもしれないとこの水槽を見るたびに思う。
「今日の行野さん、女の匂いがしますね〜。浮気は良くないですよ!?環さん、怒らせると怖いですからあ」
 なかなか鋭い勘をしている。環への感想が泣かせるのは可哀想、ではなく怒らせると怖い。…いや、間違ってはいないか。
「ですよ!?の!?が、この上なくウザったいんだよ…。わざとなのか?え?その態度は」
 座り心地のいいソファーに沈み込んで、オレは悪態をついた。乱暴な言い方をしても、鋼鉄の心臓を持った一之瀬にはかすり傷すらつけられないことを知っているので、余計な気を遣うこともない。
「…何があったんです?俺、すっごーーーく心配してるんですよ」
「………」
 さすが長い付き合いというべきか、一之瀬のオレに対する扱いは慣れたものだ。我がことながら、妙に感心してしまった。
 オレははっきり言って、この男には見事に懐柔されている。それだけの距離を赦して、一緒にいる。
「………話したくないならいい、って言いたいところですけど。話したいから行野さん、俺のところに来てるんですよね?俺、ちゃんと聞きますから。教えてもらえませんか?」
 珈琲が目の前に置かれた。最初濃かった一之瀬の出す珈琲は、今ではすっかりオレに丁度いい。
「オレの書くものはつまらなくなったか?」
「…え?そんなこと、あるわけないです。行野さんの書く小説は、面白いですよ!俺、大ファンですからね」
「………」
 一之瀬に尋ねるべきではなかったかもしれない。一之瀬だって、オレと一緒に作品を作り上げているのだ。自分一人で書き上げているわけじゃない。原稿が毎回すんなり通るわけでもなく、一之瀬との打ち合わせや修正は何度も(最終的には泊り込みで)行われるのだし。
「部数も上がってますし、」
「内容はどうだ?数の話じゃない…。オレは、昔と比べて---------」
 香織さんは、つまらないと言ったわけじゃない。優しくなった、という表現を使った。それを勝手に曲解して落ち込んで、励ましてもらいたいと思っている自分がいるのだ。一之瀬に、肯定してもらいたいと願う自分が。
 たとえば、満たされていなかった頃の文章と今とでは、言葉の鋭さが違っていたりする。読み返して、自分でも思うのだ。そういう細かい部分が積み重なって、物語の輪郭をも柔らかく変化してしまっているのだとしたら?それはオレの作風に、どういう働きをしているのか?
「誰に何を言われたのか知りませんけど、昔より、今の方が俺は好きですよ。好みの問題でしょうけど」
「一之瀬…」
 自らの内にではなく一之瀬に答えを求めてしまうあたりが、随分と情けないじゃないか。
「今度、恋愛小説でも書きましょうか?恥ずかしいですけど俺のこと、モデルにしてもらっても…」
「断る」
 違うジャンルなら、気晴らしになるとでも思ったんだろう。表面上は違っていても、その根底に流れる本質は同じものだ。…だから、そんな逃避はオレにとっては意味がなかった。
「…へへへ」
 一之瀬の照れくさそうな笑顔は、少しも残念そうでない。この笑顔にほだされないようにやってきたつもりが、いつの間にか、無意識にこの表情を指針にしているだなんて。ああ…。
「一之瀬」
 お前のところに来てよかった、助かった。
 喉の奥でそう発声はされたものの、それを素直に喋る気にはならなかった。表情には出ていたと思うが。
「あ、ピザが来たみたいです!ちょっと待ってて下さい、行野さん」
「…ありがとな」
 玄関に走る背中に小さく礼を告げると、頼れる仕事仲間は聞こえない振りをした。
 多分オレは、これからもほんの少しだけ優しいものを書いていくのだろう。今度は、迷うこともなく。


  2010.05.04


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