両手で、



 異常気象だと、身をもって感じた今年の夏もいつしか遠くなった。
 殆どクーラーの効いた部屋から出なかった行野さんも、今は俺と一緒に夕飯の買出しに来ている。メニューは秋刀魚の塩焼き、大根おろしつき。
 うだるような日々の中、必要最低限以下の行動しか取らなかった行野さんに、俺は母親よろしく世話を焼いた。恋人というより母親の域だなと言葉にしたのは行野さんの方で、マザコンの気持ちが初めてわかったなんて続けるから、文句を言う気がそがれてしまった。
 俺は、行野さんに喜んでもらえるとすごく嬉しいんだ。あの端麗で攻撃的としか思えない表情が、不意に柔らかく俺に向かって微笑む瞬間を見ると本当に、もう他に何もいらないと思う。
 行野さんの「だるい」「どうでもいい」「疲れた」が、俺を必要としている言葉に思えるなんて本当におめでたい思考回路だけど。
 半同棲状態、その響きは甘くもあるし切なくもある。行野さんと一緒に暮らせたらな、と俺はこっそり何度も考えてみるからだ。眠る時も目覚める時も、それこそ四六時中一緒にいられるなんて。…夢みたいだ。
 こんなに傍にいる間柄でも、もしかしたら初めて目にする、知るような行野さんの一面があるのかもしれない。そんなことを夢想する。
 ただ、俺たちはお互いに外へ出る仕事ではないから…一日中顔をつき合わせているということがお互いの関係にどう作用するのか、吉と出るのか凶と出るのか。わからない。

「環。オレと一緒に暮らしたいか?」

 スーパーまでは、徒歩十分圏内。ただでさえ運動不足な俺たちは、車は使わず歩いて重い食材を運ぶ。途切れがちな会話の最中、行野さんに心を読まれたようで俺は思わず立ち止まってしまった。
 暗闇に紛れ、その表情は読みづらい。
「行野さんがそれを望むなら、俺は」
 一緒に、暮らしたい。
 素直な一言は喉に引っかかったまま、夜にとけて消えていく。
 俺の気持ちを気遣った上でなく、行野さんが心からそう願ってくれたというなら、その時は。
「ま、もう一緒に暮らしてるようなもんだろう。
 オレは昔、友達と暮らしたこともあれば、彼女と同棲したこともある。…けど、どれも上手くいかなかった。その相手が、今どうしているのかさえ知らない。オレは環とずっと一緒にやっていきたいから、自分の中の不安定要素には手を出したくないんだ。だから今は、踏ん切りがつかねえ。悪いな」
 こういう風に時折、ぽつりぽつりと行野さんは自分のことを俺に教えてくれる。注意深くしていないと聞き逃してしまいそうな折に、この人の本音はひそやかに吐露されるのだ。
 行野さんを今すぐ抱きしめたい衝動にかられて、代わりにもならないスーパーの袋を俺はただ握り締めながら、溜息を吐き出す。
「あなたは俺を喜ばせたいのか悲しませたいのか、どっちなんだか。
 そんな風に言われて嬉しいなんて、俺は自分でも判断基準が鈍ってるとしか思えない」
「オレの唇は、環を喜ばせる為に存在しているのに?」
「あと五分我慢してくれたら、俺は行野さんに簡単に口説かれてあげる」
 そろそろ荷物を持つ手が、重い。
 食事よりも先に…欲しいもの。行野さんが俺に与えてくれるなら、両手で、全部で。貰いにいくから。
「五分の猶予で、どれくらいの口説き文句が思いつけるもんかね。試してみようか?」
「期待してます」
 行野さんが嬉しいことばかり言うから、頬が緩む。
 どんな風に自分たちの関係を考えてくれているのか、その感情を引き出せただけでもすごく大きな進展だった。俺が口にしなくたって気持ちは、ちゃんと伝わっているのだ。案じてくれた、ということだろう。彼なりに。
 俺が笑って答えると、「ご期待に添えられるよう、頑張ります」。上機嫌な声で模範解答が返ってきて、自然足取りも軽くなるのだった。


  2010.09.10


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