リズム



 急に寒くなった。直に冬が来て、世界を白く染め上げてしまうんだろう。
 オレは熱い緑茶を飲みながら、夜の秋の音に耳を済ませる。環のいないこの部屋は静かで、自然の囁くような虫の声が、よく聞こえるのだ。夏は蛙が煩かったが、眠れない程でもない。
 夜に身を任せながら、今書いている最中の小説を想った。小さい頃、親が早く寝ろと躾ける理由が理解できずに、オレは夜に何か素晴らしい秘密でも隠されているのだと、ずっと考えていた。夜の闇は恐ろしいというよりはいっそ安心できる類の優しさで、すっぽり包んでくれる気がする。
 そんな妄想の成果だろうか、深夜に筆が進むのは。誰にも何にも邪魔をされない空間の中で、頭の中に響く声。勢いよく溢れ出たそれでも途切れがちの場面を、つまむように繋げていく。消えてしまわないうちにペンで走り書きをして、頭痛のする頭を押さえた。垂れ流される情景は集中していないと、すぐに見失ってしまう。だから、意識を凝らしていないといけない。
「いや、そうじゃない…」
 もっと別のものを見ようとして、けれど上手く見つけられずに、頭を床に転がした。こういう時環でもいれば気が紛れるのに、他にしたいと思うことがない。環は流石オレのことをよく知っていて、オレがだらけている日は毎日のようにやってくるくせして、仕事に精を出している時は顔を見せない。
 始めは偶然かとも思ったが、そのタイミングがあまりに合致しているので、環はオレのリズムを把握しているのだろう。自分ですら扱えていない、ランダムな変化を。それは、愛されているということだろうか。
 そこまで思考し、起き上がった。煙草に手を出す。もう一度ペンを取り、机に向かう。今頃環も、同じように書いているかもしれない。その考えはいつも、オレのやる気を奮起させてくれる。オレも環にとって、そういう存在でありたい。


   ***


   いつの間にか眠っていたオレは、他人の気配で目を覚ました。もっとも、オレの寝ている間にこの部屋に訪れるような酔狂な人間は、二人しかいない。環か、担当編集の一之瀬だ。
「行野さん、おはよう。…といっても、もう夕方なんだけど」
 眼鏡の奥でにっこりと、環が笑っていた。環が笑うと、オレは幸せな気分になる。よかったとか、その笑顔の隣りにずっといられたらいいとか、そういう似合わないことを願ったりする。
「おはよう。環、今日も愛してるよ」
 会う度にこんな愛の言葉を繰り返していたら、前の恋人はうんざりと、別れ話を切り出してきた。うざいと嫌いは同義ではないので、オレはこの態度を改めるつもりはない。環も別に嫌がってはいないと、勝手に解釈しているのだが。
「行野さん、シャワーを浴びたらご飯を食べに行こう。お疲れ様」
 何もかもを見ていたように、恋人はオレをそんな風に労わってくれる。昨夜は風呂に入るという選択肢など無く、オレは酷い風情になっていた。環は見慣れているせいか、今更何も思わないようだ。
「…ああ。髪がボサボサだ」
「格好いいですよ。好きです、そんな行野さんも」
 眠気が一瞬で覚めた目に、証拠を与えるように近づく環の顔。唇がゆっくりと押しつけられて、離れていく。伸ばした手を背中に廻して、今度は深い口付けをした。漏れる吐息が色づいて、オレの欲望を刺激する。
「する、の。疲れているんでしょう、行野さん」
「お前が嫌ならしないよ。オレは、今すぐ交わりたいけど?」
   環が否定をしないことはわかっていたから、オレは無遠慮に熱を持ち始めた肌を弄る。空腹を満たすよりも先に、埋めたい衝動に後は従えばいい。
「俺とこうしている時の行野さんが、二番目に好きだよ」
 一番目は、とそんな問いかけはする必要もない。光栄だなと低く囁くと、環はくすぐったそうにその身体を捩らせた。


  2009.10.10


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