ハード・ロマンチッカー



 その人は本当に、美しい人だった。
 俺は彼が自分と同じ空間に存在し、呼吸して、瞬きをしたり、その白い指先で本を捲るのを眺めているのが好きだった。彼の澄んだような静謐さは、一緒にいるだけで自分も特別になれるような錯覚さえ起こす。
 青春を思い起こす時は、決まって高校の図書館。少し古びたあの本の匂いと、幼くて大切な恋心。
 閉店前の、人気がまばらで静かな夜の本屋。どうしてそんなことを、俺は考えていたんだろう。

「------玉置先輩?」

 玉置というのは、ペンネームではない俺の本名の、苗字だ。
 凛とした声音は一瞬で、俺の時間を巻き戻した。棚に伸ばそうとした手は止まり、視界に映るは忘れがたき淡い恋の面影。
 高校三年の時、当時図書委員を務めていた後輩の倉内さん。俺の、大好きだった人。その過去形が間違いじゃないのかと疑いたくなるくらいに、倉内さんは昔よりずっと存在を増して、俺の前に立っている。
「倉内、さん…」
 頭がクラクラして、胸がズキズキした。若い頃の恋というものは総じて、頭を抱えたくなるような痛々しさを時に伴う。それは俺も例外ではなくて、どう振舞っていいのかわからない動揺を、必死で抑え込んだ。
「よかった。やっぱり、玉置先輩だったんですね。お元気でしたか?」
 完璧な微笑が、俺を惑わせる。
 健気だった少年はいつの間にか現実に現れた王子様のようで、もう本当に、俺は冷静に物を考えられなかった。
「うん、ありがとう。本屋で会うなんて、俺たちらしい気もするね」
「もしよかったら、少し話しませんか?」
「勿論。君がいいなら、喜んで」
 ああ、俺は夢を見ているのだろうか。舞い上がって倉内さんの隣りを歩きながら、この心臓の音が聞こえてはいないかと心配になる。
 深夜まで営業しているカフェに入り、向かい合って座った。二人きりのデートだなんて、あの頃の自分には想像もつかなかった今の時間に、ますます落ち着かない気分になる。
「玉置先輩、お酒は飲めるんですか?」
「嗜む程度なら。君は?」
 倉内さんは笑って、首を横に振る。俺はなんだかそれだけでちょっと嬉しくなって、自分の幻想を抱きすぎた恋心に呆れ、めまぐるしい思考回路に勝手に疲労するのだった。
「俺、大人になった倉内さんに会えるなんて思っていなかったから。わかっていたら、昨日美容院に行って、今日一番マシな格好をして、気合を入れたのにな」
 俺はこの人相手だと、どうでもいいことまでベラベラと喋ってしまう。人生初めての告白を思い出しながら、赤面した頬を隠すように俯く。色めきたった、一挙一動が恥ずかしい。
「そんな風に張り切っている岡江さ…玉置先輩なんて、想像もつかない」
 こんな風に沢山、笑う人だったろうか。俺の言葉で笑ってくれているというなら、なんて幸せなんだろうって思う。
「呼びやすい方でいいよ。どちらも俺だから、そういうことを気にはしないし」
「じゃあ、岡江さん。僕、実はさっきの本屋で岡江さんの新刊を買ったところだったんです。ほら、」
 差し出された文庫本に胸が詰まって、喉が震えた。
「あ、ありがとう…。どうしよう、俺、嬉しくて泣いてしまいそうなんだけど」
 素直な気持ちは、誇張しているわけではなくて。
 高校生の頃。俺はやっぱり小説を書いていて、ありがたくも文学界の隅っこに居座ることを許されていた。
 図書委員の倉内さんに恋をしながら、自分の存在を知ってほしくて、だけど勇気が出ないまま。恋心と同じくらいにいつも「この本は俺が書いたんです」と、告げたくて、告げられなくて毎日あの図書館に通っていた。
 …倉内さんにしてみれば随分挙動不審だったろうなと思うと、本当にいたたまれない。
「そういえば、僕、気になっててずっと聞きたいことがあったんですけど。岡江さん図書館で、いつもその…岡江さん自身の本を借りてましたよね?あれって何か、理由があったんでしょうか」
 真っ直ぐな目に見つめられて、困り果てた俺は一気にグラスの梅酒を飲み干す。どうやって誤魔化したらいいのか、めまぐるしく脳が動いていた。
 酒が身体中にまわる。いつもより、酔いが早い気がする。薄明かりで、間近に対峙する倉内さんに熱が上がる。
「理由ならあるよ。でも、秘密にしていた方が君の心に残りそうだよね」
「えっ…」
 きょとんとした表情の倉内さんは、昔の面影を残していてキスをしたくなった。
 俺には行野さんという恋人がいるのだから、その衝動は間違っているのかもしれないけれど。倉内さんの佇まいときたら本当に俺の理想みたいなもので、彼から発せられる美学のようなものに俺はいちいち感動し、共感してしまう。
「俺も倉内さんに、聞きたいことがあったよ。あの司書さんとは、結ばれたの?…なんて問うのは、下世話かな」
 倉内さんは、司書の男を好きだった。その密やかな感情に気がついた時、俺は、秘密を共有したような勝手な気持ちになったのだ。
「…応援、してくれてたんですよね。岡江さんは、僕の気持ちを。それを知った時、僕は凄く励まされて…。嬉しかった……」
 倉内さんとその司書をモデルにした話を、書いた。二人の関係がどうなるかということよりも、一途な想いがあまりにきれいに見えたから、俺は書きとめておきたかった。そうしたらまるで、自分が倉内さんと同じ図書館で過ごした放課後を、あの文章の中に永遠に閉じ込めておける気がしたから。
 倉内さんはその話を読んだから、きっと俺の書くものに興味を持ってくれたんだろう。
「行野克己って知ってますか?」
「あ、うん…。全部読んでるけど」
 まさか倉内さんからその名前が出てくるとは思わなくて、俺はますます赤くなる。知っているどころじゃない、俺は行野さんとつきあっているんだから。正直誰よりも詳しいだろうけれど、そんなことを話す気にはなれなかった。
 それに、彼の著作なら全部読んでいるというのは嘘じゃない。
「ハード・ロマンチッカーっていう話の中で。死にかけの有働が、篠宮に抱き起こされる時に言った台詞…」
「『後は神様に、委ねることにする』」
「そう、それ!」
 倉内さんが嬉しそうに頷く。『ハード・ロマンチッカー』っていうのは行野さんのシリーズものでも人気があるハードボイルド小説で、俺も好きだったりする。その場面は泣いたし(なんて、行野さんには絶対教えてあげないことだ)。
 自分は手を尽くしたから、もうこれ以上出来ることはない。諦めでもなく縋るでもなく、有働は穏やかにそう言うのだ。
「僕はあの人に対して、いつも全力でぶつかったし、やれることは全部やりました。結果がどうであれ、相手の決断を受けとめられるくらいには、強くもなりました」
「うん」

「おい、環。たーまーき、ちゃん」

「わっ!!?」
 真剣に話を聞いていた俺に、不意に馴染んだ声が降ってくる。普段より怒りの滲んだ低音は、この状況に苛立っているようだった。
「オレ、浮気は許さないって常日頃言ってるよな?一体どこの王子と逢引してるんだ、お前は。納得できるように説明しろ」
 行野さんは早口で言い募ると、俺と倉内さんを交互に見る。嫌な汗で、かけている眼鏡が滑った。
 逢引だなんて、とんでもない。浮かれているのはきっと俺一人なのだから、倉内さんを痴話喧嘩に巻き込むことだけは避けたい。
「ゆ、行野克己…?」
 著者近影の写真で知っているんだろう。倉内さんは驚いた顔で、端麗な睫毛を瞬きして震わせる。そんな場合じゃないのに、俺は繊細なその動きに一瞬見惚れた。
「いかにもオレは行野克己だが、君と酒を飲んでいた環はオレの恋人でね。悪いが席を外してもらえないだろうか」
「行野さん!」
 穴があったら入りたいって、こういう時に使う表現なのだろうか。
「僕、あなたのファンなんです。お会いできるなんて嬉しいです…!あの、サイン、頂けませんか?」
 二人の空気は、明らかに異なるもの。倉内さんのテンションがこんなに高いところを、俺は初めて見た。倉内さんは鞄から本を取り出して、ぽかんとしている行野さんへ差し出す。本にはブックカバーがかけられていたけれど、それは行野さんの著作だったようだ。
 手慣れた様子で、行野さんがサインを書く。行野さんの書く字ときたら、解読できるのは俺か担当の一之瀬さんくらいだというのに、サインだけは本当に綺麗だ。一生懸命練習したのかな、なんて考えるとかわいい。
「…これでいいかい」
 不機嫌顔は、仏頂面へと変化する。それを受け取る倉内さんは、見ているこちらがつられて笑顔になってしまいそうな、満面の笑み。
「ありがとうございます。大切にします」
 宝物のように本を胸に抱いて、倉内さんは立ち上がった。俺を見て、失礼しますと頭を下げる。千円札が二枚、机の上へ並べられて。離れていく後姿に、俺は声をかけた。
「倉内さん!あの、」
 正直に白状すると、俺はもう少し彼と同じ空間の中にいたかった。そんな気持ちを知ってか知らずか、倉内さんの微笑みは優しい。
「ファンレター、書きますよ。先生方の次回作、楽しみにしています」


   ***
 

 少しだけ、肌寒かった。
 静かな夜道を、行野さんと並んで歩く。秋の音が耳に心地よくて、懐かしい思い出が俺の胸を満たした。
「憧れていたんです。俺は、あの人に」
 確かに恋をしていたけれど、自分の中で抱え込む類の、発展性のない淡い感情。
 行野さんに事細かく説明するには、あまりに青臭い思い出と感じて、それ以上は何も言えなかった。
 あの頃の気持ちを、俺は完全には捨てきれず自分のどこかに埋め込んだ。もう二度と同じものは書けないし書くことはないけれど、気持ちまで捨ててしまう必要はない気がしたから。
「学生の頃の環、もっとかわいかったんだろうな」
 ぽつりと呟くその様は、特に怒っているわけではないらしい。倉内さんは行野さんのファンだと言っていたから、もしかしたらそれで怒りが相殺されたのかもしれない。
「行野さんは、どんな学生だったんですか?」
 俺は、行野さんの学生時代を夢想する。今と変わらない?それとも、俺の知らない少年がそこにはいたのだろうか。
 出逢った時、既にもう行野さんは行野さんで、俺は俺だった。だから、恋に落ちたのだ。まったく自然に、必然的に。運命として。
「つまらないもんだよ。…オレは、早く大人になりたかった。大人になって、お前と出逢うのを待ってた」
「行野さん…」
「手を繋いでほしい」
 その手を離さないでほしいと、どこか頼りなく囁くような声が、密やかに続いた。


  2009.09.15


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