dream time



 行野さんが眠れない夜、俺はよく本を朗読する。それはある時は児童文学であったり、また、詩集だったり。「環の唇から零れる言葉は余計に美しい」と、行野さんはうっとりと目蓋を閉じる。その夢がどんな風なのかは、俺にはわからないけれど。
 俺は時折、行野さんの愛の盲目さを裏切ってしまうんじゃないのかと不安になったりもする。
「お前の声が好きだよ。環。言葉の発音の仕方や、余韻を大切にするところ」
 そんな風に囁く行野さんは満たされていて、俺はこの人のそういうところを見ていると(ああ。もっと大切にしなければ)という気持ちになって、年上で、見た目からは想像もつかないような繊細さを抱える行野さんを、抱きしめて腕の中に包みたくなるような衝動にかられる。
 実際にその欲求は行動に移されることはなく、俺は行野さんの愛情を享受するだけで、わかりにくい態度を取っているのかもしれない。
 俺が自分の愛情に従って過ごしていたら、きっと行野さんは身がもたない。俺は幸い我慢強いので、持て余してしまいそうなこの恋を、一生懸命懐柔しようと努力している。
「特にシュゼットが気に入っているのは、ふわふわとした綿菓子のようなベッドです。そこに寝そべっているだけで、シュゼットは楽しくて、幸せな夢の中に浸ることができるのでした。その柔らかさに触れている間は、何の悲しみも怒りも感じることはなく、ただ無防備に眠りに身を委ねていればいい」
 今夜は児童文学にした。幼い女の子の描写が可愛らしくて、なんだか微笑ましい類の。
「オレは、環の膝枕がいい」
 その台詞を嬉しいなんて喜ぶ、自分の単純さ。どんな言葉でもいいから、愛を伝えてほしいのだと。願う気持ちは少女のよう。
「俺の膝なんて、硬くて居心地悪いですよ。物好きだ」
 女のように、手入れをしているわけでもない。数ヶ月前、付き合いで連れて行かれたキャバクラ。行野さんにまといつくようなあの白い肌を思い出して、俺は気分が悪くなった。華やかでいい匂いのする、けれど攻撃的な女の性。不愉快というよりは自分が場違いだと感じ、俺はすぐに店を出た。あの場に行野さんさえいなければ、適当に楽しめる余裕はあっただろう。
 二人きりでいる時はまだしも、俺の独占欲ときたら自分でもうんざりするくらいで、すぐに許容範囲を超えてしまう。そういう思考を本人に気づかれていないだけ、僅かにマシだ。
 タクシーを拾おうか歩いて帰ろうか、思案している内に息の上がった行野さんがいつの間にか目の前にいて。そんなつもりはなかったのに、引き寄せられて安堵されてしまったら、この恋人が愛しすぎて泣きたくなった。
「気持ちいいんだよ。お前といるのは」
「その割に、よく怒ってますけどね。行野さん…沸点が低いんだから」
 照れ隠しというよりは、俺は調子に乗ってしまった。肩を竦めてなんでもない振りをしてみるけど、
「それも愛情表現の一つだろう?いちいち傷ついたりなんてしないでくれよ、オレは割とタフな環を愛してるんだから」
 後ろめたい回想を弾き飛ばしてくれるような睦言に、思わず俺は吹きだしてしまう。
「そうだな。俺、あなたが元気で傍にいてくれるって条件があるなら、いくらでも強くなれるから」
「…た、環〜!」
 甘えてくる行野さんは本当にかわいい。俺だけにしか見せない姿だって、ちゃんとわかっているからかな。
「眠れそうですか?」
「お前と一緒に寝たくなった」
「明日は午前中、一之瀬さんと打ち合わせがあるって言ってましたよね。行野さん、起きられないから駄目です」
 一之瀬さんというのは、行野さんの担当編集者だ。もっとも遅刻していったところで、あの人が怒るようにも思えないのだけれど。温和で明るく陽気な一之瀬さんは、俺たちと違い器が大きい。(一応、ちゃんと自覚はある)
「添い寝くらい、いいだろう?環の身体は、抱き枕より上等だ」
 ヒョイと、眼鏡を取り上げられる。まだ、歯も磨いていないのに。もっと近くに行かないと、大好きな行野さんの顔が見られなくなってしまった。心の中でそんな言い訳をし、俺はベッドに潜り込む。
 ───二人抱き合って眠る夢は、きっと同じだといいのに。


  2009.08.14


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