犬を飼う日



 行野さんの部屋で、俺がやることは結構沢山ある。買ってきた本を読んだり、散らかり放題のゴミをまとめてあげたり、行野さんと寝たりする。他人の場所、というより自分の家の離れのような感覚だ。
 今は読書。行野さんはといえば、眠そうに欠伸を繰り返しながら夢を見ているような声で言う。
「犬を飼いたい。名前はシリウスがいいな。格好いいから」
 基本的に、俺が目の前にいる時の行野さんは俺をずっと眺めていて(もう慣れた)、他の行動に身が入らない。それを愛と呼ぶには感心してしまうほどの習慣が、まあ今回も発動されていた。
「俺は、世話をしないけれど」
 その願望に対し、行野さんは俺の返答が不服だったらしく、はあ?と怪訝な表情になった。睡眠不足が続いているせいで凶悪な顔が、更に人相悪く変化する。見慣れているから、どうってことはないのだけど。
 俺ももう少し、言葉を選んであげればよかったのかもしれない。
 近くの駐車場で昨日から、小さな捨て犬が救いを求めるように鳴いているのを知っていたから、俺が肯定するとこの人は、すぐにでも拾ってきてしまうだろう。
「オレの家で飼うのに、どうしてお前の許可が必要なんだよ。環」
「自分のこともままならない人なのに、どうしてそんな発想が生まれてくるのかな」
 溜息混じりに嫌味を言う。
「これでも一応、一人暮らし歴六年なんだが」
「俺が来ないとゴミ屋敷ですよ。この部屋」
「すまん」
 話は決着した。行野さんがもっと我が儘に、どうしてもあの犬を飼いたいと熱弁したなら俺は別の方法を考えなくてはならなかったけれど、行野さんの中で俺の占める割合はどうしたって大きいので、心配は無用だ。
 願いが叶わなくてちょっとしょんぼりしている行野さんは、かわいい。それこそ大きな犬が、尻尾を垂れて項垂れているみたいだ。撫でてあげたくなる。
「首輪でも着けましょうか?本来の趣味じゃないですが」
「オレは環を所有しているつもりはないし、自分がお前の所有物だという意識もない」
 …大げさな人だ。
 拗ねている行野さんは放っておいて、俺は読書を再開する。楽しみにしていた作家の新刊は、シリーズものの探偵小説で、勿論発売日(今日のことだ)に買いに行った。行野さんが住んでいるマンションは、丁度俺の家と本屋の中間に位置している。とても便利だ。
「その小説、面白いか?」
「面白いですよ。相変わらず、俺の推理は当たりそうにないです」
 無駄な努力とはわかっていても(犯人すら、いつも予想を外す)、推理ものは、頭を使いながら読むので普通の小説より読み終えるのに時間がかかる。
「いつ読み終わるんだ?オレの相手をしろよ。早く。待ちくたびれた」
「………おあずけ」
 つれなく宣言すると、恨めしそうな目が俺を睨みつけてくる。わざと焦らした時の行野さんの反応が大好きな俺は、時折こんな意地悪をしてしまう。
「オレが飼う犬に対して責任を負わなきゃいけないって言うなら、お前だってオレに対しての責任を果たすべきだろう?目の前に餌があるのに、生殺しはご免だ」
 案の定、行野さんは苛ついたように声を荒げた。いつも行野さんはブレることがなくて、どこまでも、いつでも俺の知っている行野さんでいてくれるから、俺は一緒にいるとすごく安心する。
「そんな長ったらしい文句よりも、一言愛してるって口説いてくれたらいい」
「愛してる。環…」
 そうだよ。あなたは気づいてないけれど俺は一刻も早く、その言葉が欲しかったんだ。行野さん。
 読みかけの場所に、栞を挟む。旅先のみやげ屋で、行野さんとお揃いで購入した想い出の品を、俺はなかなか気に入っている。行野さんはすぐになくしてしまいそうだからと、使用せず大事に保管しているらしい。消耗品なのだから、そのセンチメンタリズムには同意しかねるけれど、その気持ちは嬉しかった。
 行野さんは、大事なものを大事にしすぎて仕舞った場所を忘れてしまうような愛すべき人だ。だから俺は、その腕の中に仕舞われてしまわないように、ほんの少しは適当な、ひっかき傷ができるくらいの愛され方を慎重に選ぶ。


   ***


 行野さんの部屋から帰る時、駐車場を通った。彼が気に掛けている捨て犬は俺を見て、甘えるようにキュゥンと鳴く。かわいらしい容姿をした、ミニチュアダックスフンド。シリウスというよりは、プロキオンという名が相応しい気がする。
「おいで、…シリウス」
 しゃがみこんで視線を合わせると、警戒と期待が綯い交ぜになったような雰囲気で、おずおずとシリウスが近寄ってきた。薄汚れた身体をそっと抱き上げて、家路へと向かう。初めは緊張で硬くなっていたシリウスは、やがて柔らかい温もりになって、すやすやと寝息を立て始めた。
 …行野さんには、まだ内緒だ。


  2009.07.18


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