月下氷人



 僕が魔法使いに出会ったのは、灰色の雨の日。

「大丈夫ですか?立てますか、ほら…手を貸して」
 雨は昨日から降り続いていて、僕の憂鬱な気分を増幅させている。性格も性癖も大嫌いだけど金の羽振りだけはいい、切るに切れない顧客の相手は今回も最悪だった。雨に浄化してもらえばいいだろう、と屋根から放り出されて今に至る。すぐに動く気にはなれなくて、僕は冷たい道端に尻をついていた。
「あなたが汚れる。触らないで」
 誰もが奇異の視線を向けるだけで去っていく中、彼は僕に優しく声をかけ、傘を差していない方の手を差し出してくれる。顔を見なくても触れた空気だけで、その存在は自分とは違うことがすぐにわかった。だから、真っ直ぐ目を見ることがなんだか怖くて。
「私の名はレイといいます。このすぐ先に宿をとっていますから、行きましょう。そのままでいたら、きっと風邪をひきますよ」
「…………」
 僕の身体は見てくれほど、繊細に出来てはいない。育ちがあまりよろしくはないから、自然逞しくなったのだ。身銭を稼ぐ為、生き抜く為なら何だってやる。
「お腹は減っていませんか?美しいあなたに、何かご馳走させてください」
「…………」
 大抵の場合こういう好意は、下心から向けられることが多かった。僕は定めるようにようやく顔を上げ、自分より遥かに綺麗な造りの男を見、瞬きする。見惚れた一瞬は、短いような長いような…そこだけが現実感を伴わない。
 その美しい人は、濡れた地面に膝をつき僕に微笑んだ。
「私は、あなたに危害を加えるようなことはしません。お約束しますから」
 …僕はきっと、魅せられてしまったのだ。

 温かい湯につかり、用意されていた服に着替える。宿の部屋にはハープがあって、僕が風呂をすませると懐かしい旋律が耳に届いた。レイはまるで僕を宥めるように、慰めるように…目を閉じて指を撫でるように動かす。その唇から零れるは、郷愁。
 …どうしてわかるんだろう?いや、ただの偶然?
 僕の生まれた、故郷の歌。遠く離れてしまった大切な人を想う、愛の歌。
 今の僕は異国のこの街の中で、色欲に染まりすぎているから。それはどこか洗われるようで、ただ、綺麗すぎていた。
「……っ」
 ああ、なんだかすごく遠いところに来てしまったような気がする。僕はもう一度あの場所に還れるだろうか、そんな資格があるだろうか。残してきた大切なものを想った瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。誠実な幼馴染に逢いたいと、強く願って。
 普段張り詰めているものが、僕の中の防波堤が声に、溶かされていく。
「僕の名前は、セルジュ。男娼をしてる。…気持ち悪くないかい、こういうのは」
 軽蔑されるかもしれないと思った。それでも、僕はレイに自分の話を聞いてほしかった。
「ううん、まだ、どうか演奏を止めないで。僕は、レイの奏でる音楽が好きみたいだ」
 その全てに、癒されていく。音が流れているのに何故か静かで、さっきまでのグチャグチャした卑猥で気持ちの悪い音が遠く、泣きたいような気持ちになった。
 それだけで満たされてしまって、あまり食事が喉を通らない。こんなにも美味しいのに、美味しいと感じること自体が随分と久しぶりなのに、日ごろ簡素で退屈な餌のような栄養補給に慣れきってしまっているせいか、少しで満足した。
「ねえ、セルジュ。私があなたを身請けしたいと申し出たなら、迷惑でしょうか?」
 それは、僕にとっては信じられない突然の申し出だった。
「えっ?何故…?」
 レイが得をすることなんて、何もない。彼が僕に性的興味を抱いていないことなんて、言葉にしなくても伝わってきたし、慈善行為にしか思えない。何より、金がかかる。
 僕のとりえは顔の綺麗さくらいなもので、それすらレイに負けているのだ。
「疚しい気持ちから、あなたを好きにしたいわけではありません。信じてもらえないかもしれませんが…。一人で旅をするのも、少々味気ないものです。寂しい私の話し相手に、なってはくれませんか?ほんの暫くの間…。セルジュの時間を、私にください」
「だって!さっき、会ったばかりの他人なのに…」
「ふふ…。私はセルジュに愛してくれだなんて、お願いしてはいませんよ」
 レイは真剣だった。嘘をつき、僕を騙ろうとしているわけではない。僕も毎日色んな人間を相手にしてきているけど、彼の真摯さは信じられるような気がした。信じたかった、だけかもしれない。
「いいの?僕を助けてくれるの?」
「はい。来るのが、遅くなってごめんなさい」
 何故かそんな風に頭を下げ、レイは恭しく僕の手に口づけを落とした。その洗練された仕草ときたら、僕が今まで対峙してきた貴族の誰より美しく、自分が姫君にでもなったような心地だった。


   ***


 下卑たネオンや、喧騒。薄汚いゴミに、鼻をつくような不快な匂い。近くて遠い他人との距離感。何年も過ごしてきたそういった類のものが、なんだか見てきた幻のように感じる。
 まだ幼かった僕の目に、あの巨大な都市は化け物みたいに襲いかかった。まるで異世界で、僕は今まで大切にしてきた何かを一度、それらを壊されないよう慎重に、自分の中へ奥へと仕舞っておく必要があったのだ。
 髪を撫でる優しい風。人工物ではない光に溢れた世界の中で、緑が陽を受けて煌いている。レイの話す声と、鳥の鳴き声。僕の故郷は思い出と寸分の変わりもなく、そのままでそこに在ってくれた。
 僕には好きな人がいて、その人は僕の幼馴染だった。温かい人だったから、離れて音信不通の僕にも定期的に便りをくれた。ずっと勉強していた、建築の仕事に就いて。セルジュは元気ですか、今でもあなたを想っています。手紙には、いつもそんな風に書いてあった。
 事情があってお金を稼ぎたかった僕は、手っ取り早い手段に出た。色んなことを、もっと簡単に考えていた。思慮深い幼馴染は毎日僕を説得していたけど、馬鹿だったし若かった。捨てたものは沢山あった上に、居場所を捨てる切欠となった家族はもう、いない。理由も何もないのに、あのギラギラした箱庭は、僕を呑み込んで腐らせようとしていたのだ。
 そんなことを考えながらぼんやりしていたら、休憩しようとレイがさりげなく気遣ってくれる。僕の思考なんて、レイには筒抜けなんじゃないかと時折思う。
「セルジュ、あなたにこれを差し上げます」
 差し出されたものは、純白の小さな宝石だった。
「わぁ、綺麗…!これは?」
 そこでいつもと様子が違うと、すぐに気づけばよかったのかもしれない。僕は帰郷の期待と不安で興奮していたし、レイは不思議な人だったから、その微笑みの意味が異なっているだなんて、考えがまわらなかった。
「これは『人魚の涙』と呼ばれている宝石です。オルターナ地方の、人魚伝説はご存知でしょうか?人間に恋をした人魚が、想いを成就させ、喜びの涙を零したのが名前の由来。身に着けていると、きっと、その恋は永遠になると言い伝えがあるのです」
「そんなものを僕に…?レイが持っていた方が」
「私には、必要ありません」
 旅をして二月半。レイに恋人がいないというのは、一緒にいてよくわかった。僕が話を振ろうとすると、レイは珍しく本当に照れた様子で『自分の話をするのは苦手で』と押し黙ってしまうので、僕もそれ以上はつっこめなかったのだ。恩人を、困らせたくはなかった。
 皆がレイと話して仲良くなりたがっているのを感じながら、僕はその隣りで、色んな感情の揺れを眺めていた。ほんの少しだけ、自分は特別なような気がして優越感を感じながら。
「セルジュ…。ありがとう、あなたと旅をするのは楽しかった」
「え…?どうしたの、突然」
 間抜けに問い返した僕に答えず、レイは続ける。
「ここで、少し待っていてもらえますか?安心してください。すぐに迎えに来ますから。ね」
 目を閉じていてください。私を、信じて。そんな風に諭されてしまうと、僕はもう何も言えなくなって、大人しく言われた通り目を閉じた。
 なんだかドキドキして、胸が苦しくなる。待つのは…苦手だ。
「セルジュ」
 不意に降ってきた声と共に背中から抱きしめられて、懐かしい匂いに、過ぎた時間を忘れそうになる。それはレイではなくもっと大切な僕の、大事に仕舞っていた存在で。
「…ロラン?嘘。僕、夢を見てる…?」
「おかえり。もう、二度と離さない。君をどこにも行かせないよ。愛してる、セルジュ」
「ロラン…本当に君が、」
 続きは、言わせてもらえなかった。キスなんて、健全な関係を築いていた僕たちだから、これが初めてだったのに。ああでもなんだかずっと、こうならなかったことの方が不思議だ。
 僕の幼馴染、ロランは自分が僕を身請けしたのだと説明してくれた。レイは旅ついでに、ロランに協力しただけだったと。恋の魔法使いは邪魔をしたくないからと、もう消えてしまったらしい。
「迎えに行くのが、遅くなってごめん」
「ううん…。そんなこと……!」
 いつかの優しい謝罪を、僕は思い出した。ロランの気持ちを彼は伝えてくれたのだと知り、胸がいっぱいになる。けれどそんな秘密は一言だって、レイは口にせず去ってしまった。
 彼の願い通り僕たちの恋はきっと、永遠に成就するだろう。


  2008.06.04


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