夕暮れ



「センセは、何で教師になろうと思った?」
「公務員が一番安定していて、生きやすいと思ったから」
 秋月は教卓の前で、大事そうに古い本を仕舞いながらそう答えた。
 それが予想外の答えだったのか、一瞬眠そうな目を瞬きして後藤はふ、と笑う。
「ごめんね。イメージ違ったのかな」
「何で?そんなことない。ただ…、先生ってそういえば大人だったって思い出しただけだよ」
 どういう意味だろうと、秋月は僅かに苦笑する。
「そうだね。多分、君たちよりは割り切った考え方をしているかもしれない」
「格好いいね、そんなかわいい顔してるのに」
 何気なく後藤が言うから、
「コラ。大人をからかうのは、やめなさい」
 こちらも精一杯、何事もないかのように応戦する。
 時折見せる何ともいえない表情を浮かべ、後藤は教卓の上で頬杖をついた。ふとしたそういう雰囲気が大人びていて、いつもの明るさに紛れ際だつ。
「悔しいな。オレがセンセに何言っても、子供の戯れ言で済まされちゃうんだ?」
「…そんなわけ、ないよ」
(後藤くんに、振り回されてばかりなんだから。僕は)
 ただ、秋月は首を振った。そうできたらどんなに楽だろう?どこまで好きになればいいのか、限界が見えなくて想いが募るばかりだった。
「後藤くんはまだ、帰らなくてもいいの?」
 教室の窓から漏れるオレンジの光が眩しくて、秋月は目を細める。
 放課後の教室は、先ほどまではまばらに人がいた気がするのに。もう二人きりになった。誰かの気配を感じていれば、まだこの感情を抑えることもできるのだ。後藤のことを、好きなんだと。
 …二人きりなんて、落ち着かない。
「オレはもう少し、秋月先生と話をしていたいでーす」
 あんまり素直に好意を表現されてしまうと、どうしていいかわからない。
(ああもう…、赤くなるな!お願いだから……) 
 秋月は俯いて、唇をきつく噛んだ。不意打ちでドキリとさせられて、対処のしようがない。いつも。
 人の気も知らないで、後藤は心配そうに秋月の顔を覗き込んでくる。
「セーンセ、どしたの?…大丈夫?」
「…大丈夫じゃない。全然、」
 肯定、できなかった。上擦った声が漏れる。感情をコントロールしようとして、目頭が熱くなった。
 喉もとまで出かかっている、後藤のことが好きなのだと。でも絶対に言えなくて。
「先生?」
 後藤の手が伸びた、触れられてしまったらこの熱がバレてしまう。心まで見透かされてしまいそうで、慌てて秋月はそれをはねのける。大きく肩で息をした。
 驚いた顔の後藤が、自分を見つめているのがわかった。
「ご、ごめん!何でもない…、おかしいんだ、僕は」
 訳もわからないだろう、きっと。誤解されたに違いない。
「あのね、先生」
 後藤が優しく笑った。振り払った手は今度はもう一度、秋月の髪を優しく撫でる。
「オレ、先生と違ってガキなんだわ。怖いもんもあんまり思いつかないし、今んところ。区分なんて知ったこっちゃないよ?だから、何でもできそうな気がする」
 指が秋月の髪を梳きあげる。後藤の顔が近づいた、そのまま額に唇が触れる。発火するんじゃないかと思った。耳まで赤くなって、秋月は教材を抱え教室を飛び出した。
 後藤の目の前には、古い本がぽつんと寂しげに置かれてあるだけで。
(一体何が、どうなったんだ…?!うわっ、もうダメだ本当に……)
 例の如く廊下をダッシュする秋月の腕を、向かい側から歩いてきた長谷川が捕まえる。長谷川がいたことも気がつかず、秋月はそのまま廊下の上に座り込んだ。腰が抜けそうだった。多分、原因は色々ありすぎて。
「秋月先生、廊下は走らないように」
 いつも通り冷たいくらい低い、長谷川の声が今は、いくらか秋月に感覚を取り戻させてくれる。
「はあ、すみませんでした…」
 どこか上の空で返事をする。しばらく起きあがれそうにない。気力を全部、持って行かれた。
 長谷川は秋月を掴んだ腕を離さずに、隣りで何も言わず突っ立っている。
「…あ、あの」
「何か?」
「長谷川先生は、どういう理由で教職に?」
 会話をなぞる。
「好きだからといったら、あなたは笑うでしょうね。きっと」
 秋月は長谷川を見上げた。なんだか寂しそうな笑顔で、長谷川は自分を見下ろしている。
「…そんなこと、ありません」
「面白い仕事ですよ。生徒もかわいいですし、…飽きることがない」
 長谷川は淡々と、静かな声で喋っていた。大分、落ち着いてきたかもしれない。
「あの、お願いがあるんですけど。長谷川先生」
「どうぞ」
「叱ってもらえませんか、僕のこと」
 今が放課後で良かった。こんなところを誰かに見られでもしたら、いたたまれない。そんな風に考えられるようには、なったみたいだ。段々と、自分を取り戻してきている。
「本当に、駄目な人ですね。あなたは」  
 聞いたこともない、優しい口調。今まで我慢していたものが、瞼から零れる。どうして涙が出るのかはわからなかった、もう思考が麻痺している。
 泣きやむまで、長谷川はずっと秋月の隣りに寄り添ってくれていた。よくわからない男だ。
 手の甲で涙を拭うのを見て、秋月をそっと立たせてやる。
「ありがとうございました。…もう、平気ですから」
 のろのろと秋月は歩きだす。何か長谷川が言ったような気がしたけれど、聞こえなかった。
「貸しに、しておいてあげますよ」
 溜息混じりに長谷川が呟く。
 窓の外の燃えるような夕焼けと、秋月を交互に見やる。彼の感情のようだと思った。
 教室に向かおうとして、途中で後藤とすれ違う。
「もう遅い。早く帰れよ」
 後藤はちらりとこちらを見て、唇を歪めて笑った。大人のような陰りだった。その右手には、何か本を持っている。職員室で何度か見かけた、秋月の愛読書のようだ。
 先ほどの秋月の様子が、思い出された。やはり、原因は後藤しかない。
「秋月先生と、何か…」
「今日の夕暮れはきれいですね、という話を二人でしていました」
 後藤は振り向いて、告げた。その真偽がどうだかなんて、長谷川にはわかりはしない。
 面食らったような表情を浮かべる長谷川に、可笑しそうに後藤は笑った。
「長谷川先生、さよーならー」
「待っ、」
 あまりにも素早かった。
 軽やかに後藤は視界から消え、廊下には夕暮れ色に染まる長谷川の姿が残った。


  2004.06.08


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