肌



 一年C組の教室。
 今年も夏の風物詩、例の授業がやってくる。生徒たちは各自、嫌そうに着替えを始めていた。梅雨も明けていないというのに、もう夏だなんて受け入れられない。
「ったくよー、まだ寒いっちゅーの!水泳とか、マジありえねー」
「こんな早い時期から泳ぐの、一年だけだろ?二年は一週間後だし、三年なんて水泳の授業三回しかないらしいぜ」
「冗談じゃねーよ…」
「さっみぃ!」
 口々に文句が飛ぶのも、仕方ないといえば仕方ない。
 今日は真夏日というよりは、梅雨のこもったような気持ち悪い蒸し暑さだった。
「ぶえっくしょい!!」
 後藤は、盛大なくしゃみを飛ばす。ブルッと身体が震えた。風邪を引きそうだ。慌ててバスタオルを巻きつける。夏風邪なんて、馬鹿がひくものだ。
「…何だぁ?そのクシャミ、アハハハ!マサってば」
「ああ?」
「親父くさー」
 何の気なしに、笑いながら羽柴がそんなことを言う。ムッとして、後藤はその笑顔を睨んだ。
「何だと羽柴!てめえ、よっぽど溺れたいらしいな」
 危険を察知した羽柴が、バスタオルを手に走り出す。
 それを追いかける後藤も後藤で、息を切らして走りながら―――――
「ああっ、秋月先生!助けてぇ」
「羽柴くん?どうしたの…。わわっ?!」
 背中から声をかけられて、秋月は振り向こうとしたのだが。それより先、羽柴が自分の後ろに隠れて盾にされる。
 前から後藤が歩いてきた。バスタオルを肩からかけているものの、半裸姿に内心ひどく動揺する。そうか水泳の授業が始まったんだと懸命に、意識を逸らそうとするけれど。
「マサがイジメるっ!暴力・はんたーい!!」
 後ろで羽柴が大げさに叫ぶ。溜息をつき、後藤は腰に手をあてて顔をつきだした。
「…秋月センセ。そいつ甘やかしたって、ろくなことにならないよ」
「いや、あの、離してくれなくて…」
「羽柴、てめぇいい加減にしろよ」
 気のせいだろうか、いつも後藤は羽柴には冷たい。まあケンカするほど何とやら、というやつなのだろうけれど。仲が良くて羨ましい話だ。
 秋月は唇を歪めて笑い、羽柴を自分の前に立たせる。
「二人とも、仲良くね。水泳の授業で、はしゃいで怪我しないように」
 後藤が少し、複雑そうな表情を浮かべた。時折見せる、困ったような顔だった。
「羽柴のせいで、子供扱いだ。オラ、行くぞ」
「待ってよ、マサぁ!怒んないでって。謝るからあ」
「うっわー遅れそうじゃんか!こんなカッコで校庭走っていくなんか、シャレんなんねえ…」
「ゴメンって!!」
 二人が仲良く、校庭を横切っていくのを窓から見ていた。
 余計な肉のついていない、逞しい肢体。格好良かった、思わず見惚れてしまうほど。
(泳ぐところも見てみたいけど…)
 古文担当なんだから、無理な望みというものだ。
 秋月は溜息を殺し、胸に抱えた教材を握る手に力を込める。心臓が、苦しいくらいに早鐘を打っているのがわかった。

 授業中も、プールの方が気になって仕方なかった。受け持ちの授業が入っていないことが、せめてもの救いだ。時折、パシャンという水しぶきの音に耳を傾けながら、秋月はプリントを整理する。
(夏の音って感じだな)
 そう思い、目を細める。

「秋月先生!今、帰るとこ?」
 放課後、後藤はまた羽柴と一緒に帰るところだったらしい。
 乾ききっていない髪が色っぽく、秋月はそっと後藤から目を逸らした。…心臓に悪い。
「僕はまだ仕事が残っているから…、もう少ししたら帰るよ」
「聞いてよセンセ。羽柴の奴、泳げないんだぜ」
 わざとらしく後藤が耳打ちしてくるから、そのくすぐったさに秋月はかたまってしまう。
 聞こえたのか、羽柴が大声で喚いた。
「あああああ!言うなって言ったろ?!マサの意地悪っ」
「羽柴綾は〜、カナヅチですよ〜!!」
「マサっ!!」
 真っ赤になって、羽柴が後藤を睨みつける。
(…ほんっと、仲良いんだよね)
 二人のじゃれ合いを見つめながら、秋月は溜息を殺した。羽柴のことが羨ましい。
「ぶえっくしょい!!」
 後藤がのけぞって盛大なくしゃみをする。羽柴の機嫌が少し、直った。
「出た!変なくしゃみっ…センセ、今の聞いた?!高一じゃねえよ、マサ」
「アハハ、聞いた聞いた!後藤くん、ちゃんと身体拭いた?」
「ちゃんと拭いた?ってセンセ、オレは幼稚園児かっつーの…」
 鼻水をすすり、後藤が濡れた髪をかきあげる。格好いいんだかよくないんだか、それでも見惚れてしまっている自分は相当彼に参ってしまっているのだろう。
「ちょっと、後藤も羽柴も。通路、塞がないでよね」
 一年A組の教室から、呆れたように眉をひそめて倉内がやってくる。まるでそれは、風紀委員のような口ぶりで。今から図書室に行くのだろう、その手には鍵を持っていた。
「静、お前んとこは水泳の授業まだなのか?」
「まあ僕には関係ないよ、サボるから。日焼けしたくないし」
「…男子校にあるまじき存在だよな、お前」
 ぼそっと後藤がそう呟くと、倉内は眉をつりあげて秋月を見上げた。
「フミちゃん、もっと後藤の躾を厳しくした方が良いと思うよ」
「……あのなあ。何でそこで、秋月センセが出てくるんだよ」
 何気ない後藤の言葉に、秋月は引きつった笑みを浮かべる。そんな秋月の様子に、倉内は意味ありげに首を傾げてみせた。
「だって…ねえ?」
「ア、アハハ」
(気づかれてる…。絶っ対、倉内くんには気づかれてる…!)
「オレはこんな、品行方正の見本みたいな男なのに。なあ、羽柴」
「えっ?何、聞こえなかった!!ちょっと意味わかんなくて…」
 容赦ない後藤のツッコミに、痛いひどいと羽柴が騒ぐ。倉内が肩を竦めた。
 そのわかりやすい力関係に苦笑しながら、秋月は倉内を見る。その視線に気がついて、倉内が本当に小さい声で、耳打ちしてくる。
「本当、ガキなんだから。フミちゃんも苦労するね」
 さすがにどういう意味か理解して、秋月は赤くなってしまった。
 そんなこと、言われるなんて思ってもみなかったからだ。生徒から。
「何だって?!今、オレのこと馬鹿にしただろ、静」
「さ、僕は早く図書室に行かないと。お先に〜」
 あしらい方も、天下一品だ。ひらひらと手を振って、倉内は優雅に廊下を歩いていく。
 苦々しい表情でその後ろ姿を見送りながら、後藤が秋月を振り返った。
「センセ、何言われたのかしんないけど…。アイツの言うこと、真に受けんなよな?」
「アハハ…」
 さすがに何の話かなんて、本人に言えるわけもない。
「じゃあねセンセ、また明日!マサ、帰ろ」
「ああ。先生、さよなら」
「二人とも、気をつけてね」
 先生の笑顔、というのも随分上手くなったような気がする。
 二人の姿が見えなくなると、秋月は僅かに眉を寄せた。そっと息をつく。同じ男だというのにどうしてこんなにも、体格の造りや何もかも違ってしまうんだろう。後藤の半裸を思い出して、そんなことを考えていた。
(色んな意味で、ギリギリだよもう…) 
「フミちゃん、バイバーイ!」
「バイバイ、気をつけてね」
 生徒の声に我に返る。何度こんな時があるかしれない、教師とただの男の間で、グラグラ揺れているような錯覚を感じる。こんなんじゃいけない。
 唇をきつく噛んだ。窓の外から下校している後藤と羽柴の姿が見えても、もう胸は痛まなかった。


  2004.06.08


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