苦み
職員室。帰ろうと立ち上がり、長谷川の席を通り過ぎようとしたところで腕を取られた。
秋月は息をつめ、自分より背の高い顔を見上げる。
「あの、何か?」
「飲みに行きませんか、たまには」
その申し出に、秋月は心底驚いて目を丸くした。
きょとんと自分を見つめてくる視線から目を逸らし、罰の悪そうな表情で長谷川は続ける。
「用事があるなら、無理に誘ったりしませんが」
「………はあ」
すっかり毒気の抜かれた表情で、秋月は呆然とかたまっていた。
長谷川には嫌われているとばかり思っていたのだけれど、これは何かの嫌がらせの一環なのだろうか。当人に知られたら一笑にふされるようなことを、思い悩む。
(ど、どうしよう…?)
用事があると断れば良いのに、そういうところは正直というか、上手く嘘がつけない。それに、いつまでも苦手意識を持って生活するというのもしんどい話だ。
もしかしたら、これはお互いにとって良い機会なのかもしれない。仲良くとまではいかなくても、せめて普通に接せるようになればと思い、秋月は頷いた。
「僕はあまり、お酒が得意じゃないんですけど…。それで、よければ」
長谷川の笑った顔なんて、初めて見た。用意するので待っていてくださいと、機敏に帰り支度を始めている。ぼんやりとそれを見ながら、なんだか妙に可笑しくて、秋月は声を殺して笑った。
***
初めて入る店だった。
広すぎない店内は薄暗く、けれど陰気に感じない明るい活気がある。
「いらっしゃいませ!何名様ですか?」
「二人」
長谷川がちらりとこちらを見た。着物を着たスタッフに、窓際の席に通されて。
畳の上、座布団に腰を下ろして秋月は長谷川と向かい合う。ひどく落ち着かない気分になったけれど、メニューを広げてそれを誤魔化した。
「素敵な店ですね」
別にお世辞のつもりではなく、黙っているのも気まずくて秋月はほほえむ。
「あれっ?!」
「?」
聞いたことのある声に秋月が顔を上げると、後藤が驚いた表情で立っていた。
手にはおしぼりを二つ持っている。藍色の着物がよく似合っていた。ここでバイトをしているらしい。当然だが、バイトをしていることさえ秋月は知らなかった。
あまりにも格好良くて、秋月の頬が赤くなる。暗くてよく見えないのが、せめてもの救いだ。
「どしたの、センセ?なんか珍しい組み合わせだけど」
おしぼりを広げながら、後藤はいつもと変わらない笑みを浮かべている。緊張感が取れていくのがわかる。…いや、これは違う意味で緊張するのだけれども。
何に対してなのか、長谷川が溜息をついた。
「どうしたの、じゃない。居酒屋のバイトは、うちでは禁止されているはずだが?」
「フン。こないだ来た時もそう言ってたけど、結局見逃してくれてるよな。長谷川先生。今日は秋月センセのこと、連れてきてくれたんだ?へえ〜」
「別にそういうわけじゃない。俺は焼酎ストレートで。秋月先生は?」
「…えっ?!何がですか!」
後藤に見惚れて、話を聞いていなかった。
わかりやすいその態度に長谷川は頭をかかえ、後藤が更に上機嫌になる。
「……秋月先生」
「やだなー、そんなオレ、この格好似合ってる?センセが見惚れちゃうくらいに」
バレバレなことに慌ててしまい、秋月は誤魔化すようにメニューを指さした。
「っ、えっと、僕は生グレープフルーツサワーで」
「アハハ、かわいい。長谷川先生、酔ってオレたちの秋月センセにおかしなことしないでね♪」
「早く酒持ってこい、馬鹿」
「へいへい」
ハンディにオーダーを打ち込んで、後藤は奥へと消えてしまった。
(かっ、かわいいって!言われた…)
秋月の思考回路はそこでストップしていた。嬉しいとか何とかよりも、ドキドキしているのが収まらない。苦しいくらい、何も他に考えられない。
そんな秋月を長谷川はしばらく眺めていたが、飽きたのかやがて口を開いた。
「秋・月・先・生!」
「はいっ?!」
きっとすごい顔をしていたのだろう、長谷川が呆れたように唇を歪めて笑う。
「注文。何、食べますか」
「僕はほっけと、あと、厚焼き玉子があれば…」
「はい、お待たせ。焼酎ストレートに生グレね。こちら本日のお通しは、ひじきの煮物になっております」
丁度後藤が、酒とお通しを持ってやってくる。秋月の鼓動が早くなった。
「串盛りと、砂肝の唐揚げ。それからほっけに、厚焼き玉子な」
「ご注文ありがとうございます〜。センセ、ゆっくりしてってね」
「後藤くんも、頑張って」
後藤がウインクなんてするから、上擦った声になってしまった。
料理を運んだり、オーダーをとる姿をどうしても追いかけてしまう。料理も素朴だが手が込んでいるのがわかり、とても美味しかった。
「そういえば、今日は何かお話があったんじゃ…?」
誘われた時のことを思い出し、秋月はそう長谷川に問いかける。
「話も何も、ただ確認に来ただけですよ」
五杯くらいは呑んでいるような気がするのだが、長谷川の顔色は変わらない。相当、酒には強そうだった。秋月はもう、ウーロン茶にシフトしているのだが。
「確認?」
「まあ、するまでもないって感じでしたけど。あなたの好きな人ですよ」
その言葉に完璧に、秋月の酔いが醒めた。
何を言えばいいのかわからなくて、静かな長谷川の目を見つめる。
「どうして、ですか…?」
「さあ」
お互いに多分、言葉は足りなかったかもしれない。
空になったグラスを置いて、長谷川が目を伏せて笑った。
「ここの焼酎は、少し苦いな。秋月先生、またつきあって頂けますか?」
長谷川の真意がわからぬまま、秋月はただ頷いた。
遠くで「いらっしゃいませ」と言う後藤の声が聞こえたような気がしたが、空のグラスから目を離せないで、長谷川と向かい合っていた。
たまらなく乾いた喉に、勢いよくウーロン茶を流し込む。グラスが空になったというのに、注文もせず、お互いに黙り込んだままだった。
意識ははっきりとしているが、酒の余韻が苦く胸の奥に居座っている。
「お茶ください」
長谷川が後藤を呼び止めて、それから秋月の方を見た。
(…やっぱり、苦手だ)
何か言いたげな視線に、秋月は俯く。
おかしな空気に気がついたのか、後藤は二人を見て眉を寄せた。最初から、妙な組み合わせだとは思ったのだけれど。
「センセ、大丈夫?オレ、薬持ってるけど…」
「う、うん。ありがとう、平気だから」
まるで観察するように、長谷川に見られている。気持ちが悪くなってきた。
後藤がお茶を持ってきてくれても、真っ直ぐに顔が見られない。心配そうにこちらを伺う、後藤の気配は伝わってきたのだが。
「そろそろ出ましょう、送りますよ」
「結構です。タクシーで帰りますから」
気まずい空気の中、居酒屋を連れ立ってあとにして、秋月は逃げるようにタクシーをつかまえる。一度も振り返らなかった。
後藤から薬をもらえば良かったと、柔らかい髪を指で梳きながら後悔する。
胸の奥がたまらなく苦しかった。
2004.06.07