涙



『…ぁう…令治っ、イキたいよぉ…もう許して……』
『他の男に告られるのは、お前に隙があるからだろ?自分が誰のものなのか、全然自覚がないんだな。文久は淫乱だから、こういうのが一番辛いよな』
 勃起したペニスの根元を紐で縛られ、アナルにバイブを深々と挿入されて脚を広げた秋月は、すすり泣くように懇願する。このバイブがなかなかの曲者で、数本の触手が内部で蠢き、秋月を翻弄するのだ。両手を後ろ手に縛られているので、自分では動きが取れない。
『ごめんなさ、い…。でも、僕、喋ったこともない人っ…ぁあん!』
『そいつは毎晩、お前をオカズにオナってんのかな。秋月くんの中に出すよ〜とか呻きながら、チンポ扱いてさあ。名前くらい聞いとけよ、本当に…。あーあ。文久が触手バイブ突っ込まれて、アンアン涎垂らしてるのなんか見たら、すごい興奮するんだろうなあ』
 自分が他の男に、妄想の中で抱かれてよがる姿を想像すると、秋月は気持ちが悪くなった。
『ぅぇっ…嫌…ん…ア、アッ……』
『さっきから人間っていうより海老みたいだよ、文久。味ならもう、知ってるけど』
 早く楽になりたい。バイブはわざと微弱な強さのままで、ゆっくりゆっくり追いつめられる。
 機械音は不愉快だし志賀の機嫌は最悪だし、告白されたところを見られていたなんて気づかなかったけれど、自分はちゃんと断ったのに。どうしてこんなに、責められるのだろうか。
『はぁ…は…』
『触手に犯されるってどんな気分?俺想像力乏しいから、どんな風になってるのか、説明してくれよ』
『…わかっ…な……ぐすっ……』
 思考回路が働かない。イキたい。出したい。他に何も浮かんでこない。
『ずっとそのままでいたいの?』
『しょ…触手が当たるの…ぜ、りつせ…ぁん…ジワジワって刺激され…て……イイ、の…。あつく、て…そこだけじゃ…くって……奥…も…っあ…いっぱい感じっ……!』
 その答で志賀が満足したのかどうかは、秋月にはよくわからない。志賀が笑って、ペニスを拘束していた紐を解いた。やっと、楽になれる。
『あああっ、イク…!』
『随分と濃いのが出たね?俺の恋人は、どうやら触手責めがお気に召したらしい』

「いや…もぉ、抜いてっ……抜いて!」

 身体中に汗をかいて秋月が上半身を起こすと、時計の針は、深夜の二時をまわったところだ。
 ひどく、夢見が悪かった。心臓が嫌な速さを刻む。落ち着かせようとして、ゆっくりと深呼吸する。
「…何で、こんな夢」
 志賀令治とつき合っていた頃の、夢。最近は、見ることも少なくなってきていたのに。
 息苦しさに襲われて、シーツをきつく握りしめる。原因なんてわかりきってはいたのだけれど、こんな夢が続くのはとても、耐えられない。
 されている行為が、辛いわけではなかったと思う。途中から快楽で訳がわからなくなるし、そんなことより何よりも、好かれてなどいなかったのだ。それが、
「……終わったことじゃないか。何で、今更」
 昇華できていないからこそ、後藤との恋に進めない自覚もある。
 なのに、別れた恋人のことを想っている…なんて。信じられない、意味がわからない。
(引き留めも、しなかったくせに)
 別れてくれと秋月が切り出した時、笑って彼は答えたのだ。いいよ、とたった一言。秋月はマンションを飛び出して、それが最後の別れだった。
 一抹の期待は裏切られて、悔しくて、悲しくて…そばに神崎が居てくれなければ、どうにかなってしまっていたかもしれないくらいに。どうでもいい存在だったのだ、彼にとっては。夏祭りで会った時だって、別れたくなかったなんて嘯いて。
(そうだ、あれは…。嘘なのに)
 こんなにも、心をかき乱される。そういう風に調教されたからだ。もう、仕組みみたいに身体の中に組み込まれている。自分の感情、快楽のすべて。
 積み上げてきたものが崩されて、怖くて、不安でたまらなかった。自分の基盤は志賀令治で、それが抜けてしまうと本当に空っぽになってしまったのだ。
 教師になりたいと必死で勉強して、外面の良さというものを身につけて。表面上は生徒に好かれる、優しい先生に見えるようにはなっているだろう。結局中身が伴っていないせいで、今こんなに苦しい思いをしている。変わりたくて、なかなか思うようにいかなくて…後藤のことを傷つけてばかり。
(…後藤くん……、ごめんね。いつになったら、僕は君に胸を張って好きだと言えるんだろうか)
 薄々、秋月も勘づいてはきているのだ。生徒と先生だからなんて言葉はただの自分の言い訳で、コンプレックスや不安が後藤と向き合えない要因、だということに。…気づいて、しまった。
 どうせいつかは捨てられるんじゃないかという不安、上手く付き合えないんじゃないかという不安、他人とまともに、向き合うことすらできないのではないのかと……。
 だらしない自分がどうとか、問題はそこではなくて。覚悟さえ決めればきっと、簡単に…大切なものを守れる強さは、身に付いてくるのだろう。
「…っ」
 泣きたくなる。ちゃんと話し合って、別れていればこんな風にはならなかった?
 秋月は唇を噛んで、目を閉じた。堪えきれない嗚咽が漏れる。
(どうしたらいいのかわからない。どうしたら変われる?強く、なれるのかな…。ヒロオや、羽柴くん…。倉内くん……後藤くんみたいに、強くしっかり、自分を持って)
 考えてみても、考えるだけでは…秋月は何の解答も得られないのだった。
 ずっと、引っかかっている存在。
 伝えなければいけないことが、聞かなければいけないことが…沢山ある。絶対に。
(…そうだ)
 秋月は携帯を見つめて、自分の思いつきに我に返る。ためらいそうになる弱さに、首を横に振った。
 今、しかない。逃げたらきっと、後悔する。自己嫌悪には、もう飽きたのだし。
「逢ってどうするかなんて…。でも、何もしないよりきっと―――」
 そう、信じたかった。思いこみだって、いつか強さに代わるのであれば。
 番号を変えていないらしく、通話は繋がり留守電に切り替わる。
「もしもし、…秋月です。明日、会いに行ってもいいですか?」
 幸い、声は震えなかった。緊張のせいで掠れたにしても。
 決戦は土曜日だった。


   ***


 目が覚めたら懐かしい声が、「いいよ。おいで」と一言だけ伝言を残していた。
 秋月は志賀のマンションに着くと、何度も溜息をつきながらエレベーターを上がる。
 五階。502号室。昔とは違う緊張が、どうしても足取りを重くさせる。
 躊躇する前に呼び鈴を押せば、まったく落ち着いた顔がひょっこり、ドアから覗いた。
「いらっしゃい」
 昔とひとつも変わらない笑顔が、胸を抉るようにせつない。
「こんにちは。今日は、突然お邪魔して…」
「変な遠慮はしなくていい。上がって」
「…お邪魔します」
 ドアが閉まった途端、掠めるように唇を奪われてしまった。慌てて秋月が離れようともがけば、あっさりと志賀はキスを止め優しく抱きしめる。身体がゾクゾクした。
「…令治……」
「……ずっと、待ってたよ。本当に長い間」
「待…つ?」
 見上げた顔は、どこかやつれているようにも見える。
 疲れているのかもしれない。そんな自分の状態を、取り繕おうともせず志賀は溜息をつく。
「そうだよ。神崎に文久を奪われてから、ずっと…何年も」
「令治、僕とヒロオはそんな関係じゃない」
 知っているはずなのにどうしてと、抗議する秋月に志賀は、強い口調で続けた。
「そんなこと、問題じゃない。神崎さえいなければ、文久が別れるなんて言うはずなかった。
 アイツにそそのかされたんだ、文久は」
 話はいつも、平行線をたどる。
 悲しくなって、秋月は首を横に振る。そんなことは、ただのきっかけにしかすぎない。
「違う、ヒロオは関係ないっ…。令治はやっぱり、何もわかってない!」
「わかってるさ。何も、見えていないのは文久の方だ。いつだって」
 睨まれていると感じるほどに、真剣な志賀の表情。
 気圧されながらも、秋月は口を開いた。
「どういう意味っ…」
「俺は、文久のことが好きだ。つきあっている時から、ずっと」
 やるせないような声音が、演技だと疑う余地もなくて。
「嘘だ!嘘…。好きならどうして…っ」 
 半ば混乱して、秋月は即座に否定する。
 言っている、意味がわからない。でも…わかりたかった。知りたかった。
「文久が悪いんだ。俺の言うこと何でも聞いて…何でも受け入れて、抱かれて……。そんな関係が、本当に恋人なのか?考えれば考えるほど、苛々してお前に当たって…」
 そんな話は初耳だ。何か言いたげに自分を見て、蔑んだような目で罵って。
 そんなことを考えていたなんて、鈍感な秋月にわかるはずなかった。
「言ってくれれば良かったじゃないか…!そんな風に考えていることを、僕に」
「それができたらこんな風に、なってない。お互いにね」
 諦めにも似た言葉に、涙が浮かんでくる。
「ずっとっ…僕は!令治に嫌われてると思ってた…何をしても、どんなに頑張っても……令治の気持ちは、僕には向けてもらえなくて…だから辛くて!耐えられなかったのに…」
 どうして、気づかなかったんだろう。恋に盲目になりすぎていた?
 あの苛立ちの理由は、こんな…。本当に自分が、原因そのものだったなんて。
「文久しか見えてなかったさ。だから君を家族から引き離したし、友人からも孤立させたのに。これで俺だけのものになると思ったら…神崎洋生が。本当に、清く、美しい友情ってやつだよ。何しろ俺に抱かれてる文久を見ても、平然と友人でいられるくらいだ。ご立派な性格でいらっしゃる」
「どういうこと、それ。令治…」
 確かに神崎は、周りの目も気にせずいつだって秋月に優しかった。
 身に覚えのない出来事に秋月が疑問を抱くと、志賀は唇を歪めて皮肉げに笑う。
「一度だけ、文久とヤってる時に神崎が鉢合わせたことがあったんだよ。文久は気づきもしなかったけど、あの時の神崎の顔。見せてあげたかったな」
「…知っ、て……!」
(……駄目だ落ち着け。令治の思うつぼだ。今は、そんなことが問題なんじゃない)
 冷静になろうと深呼吸する。志賀の言葉は止まらなかった。
「案外、そのうち告白でもされるんじゃないか?文久。アイツに、彼女がいるなんて聞いたことがないし。純情もここまでくると、馬鹿馬鹿しいよ。俺は神崎が大嫌いだ」
「令治…」
「まあいいさ。そんなことより、こうして文久が会いに来てくれたんだから」
「…何か、飲み物もらってもいいかな」
「どうぞご自由に。文久の好きな紅茶なら、前と変わらない場所に置いてある。俺が紅茶を煎れたって、何か混ぜるんじゃないかと思って不安だろうしな」
 秋月は苦笑して、キッチンの棚に常備してあるアールグレイのティーバックに手をつける。
 真新しいパックに何か不思議な感じがして、二人分の紅茶を煎れ戻った。
「話を、しようと思ってきたんだ。僕たちは一度だってまともに…向き合ったことなんて、なかったから」
「いいよ。抱かせてくれる?」
「令治、僕は真面目に…っ!」
 からかいに誤魔化され、志賀を睨む。
 秋月が声を詰まらせると、どこか寂しそうに志賀はぽつりと呟いた。
「…以前の文久なら、そんな風に怒ったりしなかったのにね」
「………」
「すぐに、俺のもとへ文久が戻ってくると思っていた。でも、本当に一人きりになったのは俺の方だったんだ。別れてからは、どれだけ君を好きなのか嫌というほど実感したよ。どうしても認められなくて、気の進まない見合いを引き受けて、このまま結婚しようかとも思った。…でも」
 志賀の話すことを、一言も漏らさず聞いていたい。
 紅茶に口をつけ、秋月は黙って耳を貸す。志賀が表情を隠すように、手のひらを額に押しつけた。
「夏祭りの日、偶然再会して…駄目だった。俺は、やっぱり文久のことしか……!」
(え…?)
 しんと沈黙した静謐に、秋月は怪訝そうに膝を立てる。
 距離をつめると、志賀の手が震えているのがわかった。こんな志賀を見るのは初めてで、…そう、初めて見た。志賀が泣くところを。あんなに長い間、一緒にいたというのに。 
「令治、泣いて…泣いてるの」
 そっと手に触れる。
 志賀は自嘲するように笑った。その間違いない涙に、気持ちを奪われる。
「笑えよ!さぞかし、気分がいいだろう?あれだけ俺に、冷たくされて酷く傷つけられて、それで…」
「…ずっと、令治は最低のひどい男だと僕は思いこんでた。でも、わかったんだ。僕だって令治のことを、傷つけてばかりだった…!令治が何を考えてるのかなんて、全然理解してなかった。理解しようともしてなかったんだ」
「俺は最低で、ひどい男だよ。文久。だからこの部屋に君を、監禁するかもしれない」
 唾を飲み込む。秋月は真っ直ぐに志賀を見て、告げた。
「令治がそんなことをしても、僕は逃げるだけだよ」
「逃がすわけないだろう?」
「逃げるよ」
 お互いの視界がぼやけて、よく見えない。
 志賀は嗚咽を漏らし、秋月の身体を引き寄せた。何度も確かめた体温が、今は胸を詰まらせる。
「知らない男みたいだよ、文久…」
「……今が一番、令治を近くに感じるなんて。おかしいよね」
 遅すぎた。秋月は噛みしめるように、言葉を続ける。
「文久だけだ。俺は苦しくて、死にそうだよ」
「僕たちはきっと、ずっと一緒にいすぎたんだ」
 近くにいすぎて何も、見えなくなっていたに違いない。
「好きだよ、文久。きっと、もう二度と言わない。君を想って泣いたりしない、こんな風には」
「いつかそんな風に…言ってもらいたかったんだ。ずっと。やっぱり、…こんなに嬉しいものなんだ」
 志賀の本音を、聞きたくて聞けなくて。…それももう、終わりなのだ。
「幸せそうに笑わないでくれ!」
「だって…今、幸せだよ。僕」
 結果は、皮肉なものだけれど。
「終わりなんて、ずっと…来ない方が俺は」
「大丈夫。僕の好きになった、令治は強い人だから」
「文久は自分勝手だ。優しそうに見えて頑固だし、気が強いし」
 怖かったのは、自分だけではなかったのかもしれない。何も知らなかったけれど。
「…逞しくもなるよ」
「文久」
「ずっと令治のことが怖かった。…やっと、こんな風に触れられる。初めて」
 秋月は優しく志賀を抱きしめ、小さく吐息をついてみせる。
「過去に、するんだろう。そうやって」
「令治がかまわないのなら…、時々会って、話をしたいって思ってるよ。捨てるばかりじゃなく、ちゃんと…何て言ったら、いいのかな。この頃、よく考えるんだ。人との関わりとか、自分が行動したことの周りの影響だとか…そういうこと。僕は教師だけれど本当に、生徒には教えられることの方が多いんだ」
「似合わないな…」
「うん。でも少しずつ、慣れてくれれば嬉しい」
(言えた…。やっと、これで楽になれる)
「……文久」
「またね」
 きっと、これでいいのだ。そう信じたかった。
 ゆっくりと秋月は立ち上がり、俯いたままの志賀に向かって微笑みかける。
「送らない」
「ありがとう。令治」
 早く行け、と志賀の手が払われた。
 早足だったかもしれない。部屋を出てドアを閉めると、身体中の力が抜けて、秋月はその場にしゃがみこむ。今更、身体が震えてきた。
(…上手く、いった?たった、これだけのことで良かったんだ)
 これだけのこと、がどれだけ大変だったのか。
 自分が一番、よくわかっている。まるで信じられない、夢のようだ。
(そういえば、志賀くんのことを聞くの忘れたけど。…それは、志賀くんと僕の問題だしな) 
 秋月は携帯を眺め、神崎に電話をかける。
 土曜だが仕事かもしれないと、諦めかけた時通話は繋がった。
「もしもし、文久?久しぶりやなー、全然音沙汰ないんやもん」
「ヒロオ。元気?」
「ああ。絶好調や」
 間髪入れずに明るい声。
 ホッとする。ただ、それだけで。今も昔も変わらない親友。
「…そっか」
「そうかそうか。そんなに愛しの親友の顔が見たいか、文久。お前の気持ちはよっぉーくわかった。俺、今中華食べたいなァ…」
「何言ってるんだか。ヒロオ、まだ四国にいるんだろ?」
 神崎の勤め先は四国だ。二年前異動になった時は、随分遠いと驚いたものだ。
 だからたまにしか会えないし、こうして声を聞いたりするのはすごく嬉しい。
「聞いて驚け、文久。俺、今遅まきながらの春休みでな。昨日こっちに戻ってきて、お前んちの部屋の前で帰りを待っとるところや」 
「ちょっ…、ハア!?そういうことは、先に言えって!」
 慌てて腕時計を見ると、昼の三時を過ぎたところだ。一体いつから、そうしていたのか…。
「いやな、驚かそうと思ってな…。あと十分経っても帰ってこんかったら、こっちから電話かけようとは」
「すぐ帰るから!待ってて」
 会いたかった。話すつもりはなかったけれど、神崎の顔が見たかった。
 走りだした秋月の隣りを、俯きがちに早歩きですれ違った少年には気がつかずに。

「…まさか」
 見間違えられるはずもない。秋月が遠ざかると、少年は振り返り眉をひそめた。
 自分の目的地からやって来たのではないのか、という憶測。だとしたら、どういうことなのか。
 土産にと買ってきたケーキが揺れ、思わず地面に落としてしまった。
 少年…志賀京介は唇を噛み、正反対の方向へ走りだす。
 彼までの距離はあと僅かだというのに、今はとても遠く感じられた。


  2005.03.16


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