幼き憧れ



 好きになった時にはもう、失恋してしまっていた。
 彼の隣りには恋人が寄り添い、自分の入る隙間なんてどこにも見あたらなかったのだ。

 二年A組の教室にひょっこり顔を覗かせて、羽柴は明るい声を張り上げる。
「くーらうちっ、お願いがあるんだけど」
「何」
 その倉内の、不審そうな目といったらない。見慣れているとはいえ美形に睨まれると怖いし、傷つく…。羽柴は肩を竦めて、彼の隣りの席へと助けを求めたのだけれど。
「うわ冷たいマサぁ」
「………」
 まあ、いつものことではある。
「後藤なら見ての通り、爆睡中。で?頼みって」
「んっとね、引き受けてくれる?倉内」
 なかなか本題を切り出さない羽柴に、ますます怪しそうな視線を向け倉内は返事を渋る。
「まずは話を聞いてみないことには、頷くにも頷けないけど」
「ん〜…。じゃ、いい。気にしないで。アハハ」
 少なくとも倉内の性格は、熟知しているといっていいだろう。
 羽柴が笑って誤魔化すと、倉内は深い溜息をついた。
「…ちょっと。そういうのずるいよ、羽柴。一体、どこでそういう駆け引き憶えてくるんだか…」
「えへへっ」
「いいよ。羽柴の頼みなんて、最初で最後かもしれないし。人懐っこそうに見えて、羽柴ってけっこう、何でも一人でやっちゃうんだもんね。何?」
 さりげなく嫌味を混ぜられた気もするが、そんなこと気にもしていられない。
「俺、生徒会長に立候補しよっかなって思って。それで、倉内に応援演説頼みたいんだ」
「は?」
 聞こえてきたセリフの意味が、とっさに理解できなかった。
 倉内は目を丸くして、にこにこと笑う羽柴を睨む。
「だからァ、せ・い・と・か・い・ちょ・う!」
「いきなり何で?」
 話の展開に、ついていけない。
「倉内の応援があれば、当選確実だと思うんだよね。うん」
「答えになってない。どうしたの、いきなり。羽柴?」
 そんな話を聞いたのは初めてで、…きっと隣りの後藤も、聞いていないのだろう。
「変?俺の狙ってる大学、ちょっと厳しいんだ。内申点があると助かるし」
「だから塾に通い始めたって?最近、ちゃんと睡眠取ってる?少しは後藤、見習いなよ。まさかとは思うけど…長谷川におかしなこと、吹き込まれたわけじゃないんだろ?」
 お節介とは知りつつも、ついつい口を出してしまう。本当はこんな性格ではないはずなのに、どうしても言わずにはいられなかった。
 意外そうにきょとんと首を傾げ、失礼にも羽柴は笑いだした。
「長谷川先生?全然関係ないけど…。俺が、したいからやってることだよ」
「本当に?」
 ずっと長谷川の存在が、引っかかっているのだ。自分にまでちょっかいを出してきたのだから、後藤の親友である羽柴に何も言っていないとは考えにくい。ただ、もし何か言われたとしても…羽柴はきっと、誰にも話してはくれないだろう。そういう性格なのだ、羽柴は。
「俺、友達には嘘つかないよ」
 ひどく悪戯っぽい口調で、羽柴が笑う。
 これ以上追求したところで、無駄なのだろう。倉内は、溜息を殺した。
「…わかった。必ず、当選させてあげるよ」
「サーンキュ、倉内!今度、ご飯奢るね〜」
 軽やかに過ぎる背中を見送り、暢気に寝息をたてる級友に恨めしげな視線を送る。


   ***


 その日は、すぐにやってきた。
「僕の推薦する羽柴くんは、明るく正義感に溢れた性格で―――――…」
「羽柴綾です。先生や生徒関係なく、我が校の一員であるという自覚を持ち、より良い意識、より良い環境を目指し誇れるような場所を、皆さんと一緒に築きあげていきたいと考えています。一人一人の意見に耳を傾け、近く―――」
 倉内の応援の甲斐もあり、もっとも羽柴自身の人望の厚さによるところが大きいだろうが…羽柴は生徒会長に見事、当選したのだった。

 吉報を聞かされ蚊帳の外だった後藤が、自分の眠気を棚に上げ怒りだしたものだから、倉内は困ってしまった。扱い慣れているらしい羽柴がどうにかその場を丸く収め、すごいなと感心してしまう。
 いつの間にか先に行かれてしまったような気がして、複雑な気分だ。自分は、何か変わっただろうか。変わっているのだろうか?
「静。君が応援演説した友人が、生徒会長に当選したそうだね。おめでとう」
 パソコン画面から視線を逸らさず、司書の陣内はそんな風に祝辞を贈る。
 思わず、上擦った声が出てしまった。
「…恥ずかしいから、今後その話は出さないで。陣内さん」
「堂々とした演説、格好良かったよ。それに、少し安心したかな」
「安心?」
 陣内が振り向いた。彼はいつも、まるで保護者のような視線で倉内を見る。
 穏やかな声、穏やかな表情で…倉内の心を、乱すのだ。
「静も、成長しているんだと思って。わかってはいたつもりだけれど…ああいう風に見せつけられると、素直に感動してしまった」
「どれくらいいい男になれば、好きになってくれる?」
 本心からの問いかけに、ずるい男は困ったような笑みを浮かべた。
「私は別に、いい男が好みなわけではないからねえ」
「あっそう」
 余計なこと喋るんじゃなかったと、何度後悔しても同じ事を繰り返す。
「だからそんなこと、考えなくていいんだよ。静」
 遠回しな拒絶なのだ、それは。
 倉内はギュッと手を握り締め、できるだけ平静に努めようと大きく息を吸った。
「…迷惑なら、そう言って。うっとうしいなら、ちゃんと口に出して、言って。陣内さん」
「もし仮に、私がそう思っていたところで…絶対に、口には出さないよ。君も知っているだろう、静」
 やりくちだけはしっかりと見せておいて、真意は絶対に覗かせてもらえない。
 泣かないように唇をきつく噛み、倉内は震える声で続ける。
「そういう言い方、ひどいよね。馬鹿にしてるの?
 幼い憧れなんかじゃないよ、わかってる?陣内さん」
「幼き憧れ、か。詩的だね…司書なんかより、作家でも目指してみたらどうだい」
「…っ!」
 将来の夢なんて、誰にも話したことはない。
 それなのに、見透かされているのだ。無表情ともいえるような顔で、陣内の説教は止まらない。
「よく、考えてみるべきだ。もう一度…いや、何度でもいい。簡単に、自分の人生を決めるのは」
「ほんとに、何でも…わかってるんだね。陣内さんは」
 その上ではぐらかすのだ、何もかも。
「適当に言ってみただけだが…。静、司書を目指しているのかい?」
「目指してるよ。あなたみたいになりたいって…そう、思ってるよ!」
 泣き声になってしまった。
 鼻を啜る倉内を前に、陣内はただ頷くだけだ。
「そうか」
「……陣内さんを好きでいるの、苦しいよ」
 吐き出すように告げる。何か期待しているわけではなく、本音が口をついて出た。
 言うんじゃなかったと…この時ばかりは、本気で後悔したのだけれど。
「そんな辛い恋、止めてしまえばいい。私も静の苦しそうな顔を見るのは、いい気分じゃない」
「…もう、今日は帰る」
 昼休みは始まったばかりで、けれど傍にはいられなかった。
 優しい声音が耳に響く。傷つくだけだ、その度に。
「ありがとう。お疲れ様」
「…っ…陣内さんの、馬鹿…!」
 逃げるように図書室を後にして、倉内は教室へと戻った。
 珍しく起きている後藤が、弁当を食べる手を休め驚いたように瞬きする。
「静、どうしたんだ?」
「…うっ……」
 取り繕えない。泣いてしまいたい。
 必死でその欲求を堪えて、倉内は思いきり顔をしかめる。
「静?」
「後藤のことでも、好きになっとけば良かった」
 ぽつりと呟けば嫌そうに、ムッとした素直な反応を返してくれるのだ。
「おいそれ、その言い方すっごい失礼だと思う。訂正しろ、…静?」
「フミちゃんの、どこがいいの」
「お前に話す話題じゃないな…。何だよ、いきなり」
 かわすのも上手いのだ。こんな男に、好きになってもらえたらきっと、幸せだろう。
 なんだか秋月のことが、羨ましくなってきてしまった。
「どうしたら、好きになってもらえるのかな。何かもう、自信、なくなってきた。後藤、僕のいいところ一つでもいいから挙げてみてよ」
「まあ、顔だろうな」
「顔…」
 その即答もどうかと思うが、以前同じ返事を秋月に告げたことを思い出した。
 ある意味両思いってやつじゃないかなんて、どうでもいい考えに辿りつき、憮然とする。
「お前の顔、好きだけど。もっと笑えば、もっといいな」
「顔って……」
「何だよ。不満か?実はけっこういい奴なとこも、好きかもしれない。あと、一緒にいると居心地がいい。それから、毎日ジョギングが続いてるのとかすげえ忍耐力だと思う。あと…」
 照れくさい。こんな話を振るんじゃなかった。
 赤くなった顔を背けて、倉内は形の良い唇をとがらせる。
「かもしれない。…そういう曖昧な表現、好きじゃないよ。僕は」
「カリカリしてんなァ。泣きたい時は素直に泣けよ。それじゃ、可愛げがないだろ」
 誰もがそんな直情人間ばかりでないと…、頭の隅で文句を言う。
 とてもそんな気分にはなれない。けれど倉内は今はただ、後藤に甘えてしまいたかった。
「……じゃあ泣くから、むこう向いててよ」
「ハイハイ」
 ふい、と後藤の視線が外れる。そのまま弁当に手が伸び、あっという間に空になる。
 やっぱり顔だけは好きだなと、倉内はそっと思った。
「……………」
「静。お前は可愛いと思うよ。もう少し、自分に自信持ったら」
「……僕の何が不満なのか、さっぱりわからない」
 倉内の本心に後藤はお茶を喉に詰まらせて、むせてしまった。
「すごい自信だな。失礼」
「教えてくれないし、意地悪だし性格悪いし…なのに」
 どうして好きなんだろうなんて、それがわかったところでどうにもならないけれど。
 お茶を飲み下し、後藤はしみじみと同情するように笑った。
「オレに惚れてればよかったなあ、静。可哀相に」
「あのねえ今そういうこと言うと、本気にするよ。言葉にはちゃんと責任持ちなよ、後藤」
「まあ、それも面白いかもな」
 ありえないとわかっているから、そんな風に軽く流せるのだ。
「…ふうん?」
「元気出せ」
 いやに爽やかな態度が、癇に障ってしょうがない。
 嫌がらせをしてやりたくなった。とはいっても、ささやかなものだが。
「……ほんとに、好きになっちゃおうかな」
「………」
 その時の後藤の顔ときたら、失礼極まりない態度だ。
「冗談だよ、冗談。誰がお前のことなんか。勘違いしないでよね」
 全否定したくなってしまう。真に受けるものだから、こっちが焦ってしまうではないか。
 後藤は憎たらしい笑顔で、にやにや唇を緩ませている。まったく、感じの悪い男だ。
「…静。お前、ホントはけっこうオレのこと、大好きだったりするだろう?」
「いっぺん死ね」
 うんざりして、倉内は吐き出すように言った。

「お前なあ、いい加減その執着止めたら」

 ふと、耳に飛び込んできた言葉。倉内は教室を見渡して、窓際の席で話をしている二人を見た。
 一人は同じクラスの生徒、もう一人は…
「執着?」
「幼稚だよ」
 倉内の視線に気がついて、後藤がのそのそ身体を動かす。 
「どうかしたのか?静」
「あいつ、うちのクラスじゃないよね。誰か知ってる?後藤は」
 秋月のことを大嫌いだと、睨んでいたあの時の生徒。
 倉内が問いかけると、後藤は窓際に目を向けたまま硬直している。
「後藤?どうか、した…?」
「あいつ…!」
 知っているなんてものじゃない。後藤は血相を変え、志賀を凝視する。
 屋上で、見たのだ。自分は。見たくもないものを、知りたくもないものを…見せつけられた。
「知ってるの?」
「……いや、たぶん…人違いだな。何で…」
 頭痛がしてくる。精神的なものだとわかっているだけに、厄介だった。
 後藤があの時見た男は、生徒ではなかったのだ。別人だ。それなのにあまりにもすべてが似ていて、気になってしょうがない。
「じゃあね。辞書、借りてくから!」
「おう」
 残像が、視界から消える。いつから、どうして…気づかなかったのだろう。一体、誰だ?
 話し終えたクラスメイトに近づいて、後藤は唾を飲み込んだ。落ち着かなければいけない、とりあえずは。眠気と、欠伸を噛み殺す。
「岡。今の奴…」
 何と言っていいのか、わからない。
「どうしたんだ、後藤。怖い顔して。さっきの奴は志賀京介。B組の生徒だよ」
「…B組?」
 秋月が受け持っているクラスだ。無性に嫌な予感がする。
 どういうつながりがあるのか…、どこからどう、何を考えていいのか。
 体育が合同なのに、全然気にも留めていなかった。遅すぎるくらいだ、この不安感は。
「ああ。隣りのクラスだな」
「フミちゃんのクラス…」
 厄介事は、どうも避けて通れないようだ。後藤と、つきあいのある限り。結局はこうやって、深入りする羽目になるらしい。そろそろ、諦めた方がいいのかもしれない。溜息をつき、倉内は顔をしかめる。
「倉内?京介が、どうかしたのか?」
「ううん、別に…。何でもないよ」
 話したところで彼には、何の関係もない話だ。自分にも、だが。
 後藤のこの妙な…知っているような態度は、どこか引っかかるにしても。
 笑ってみせる倉内に、穏やかに岡が目を細める。
「なら、いいけどさ。あいつ馬鹿だから、俺も心配で」
「さっき、何の話してたの?」
 まるで自分に言われたみたいな一言に、意識が向いたのだ。
「憧れは恋に変わるか、という話だな。どう思う?」
「変わるだろ、それは」
 確信したように、後藤が告げる。いつも気持ちに迷いがない、この男は。腹が立つくらいに。
 この間、秋月とすれ違った時、久しぶりに声をかけた。思わず、触れずにはいられなかった。今までのぎこちなさを飛ばしてしまうくらいに、彼の、匂いが気になったのだ。
 香水。きっと、そういうことなのだろう。ひどく緩やかではあるけれど、二人の関係は。…羨ましい。
「へえ。後藤は、そう思うのか」
「変わらないものなんてないさ」
「なるほどね」
 気障ったらしい物言いに、ツッコミも入れず岡は頷く。いちいち鼻につくのはどうやら自分だけらしいと、倉内は心の中で悪態をついた。陣内を思い浮かべて、小さく苦い息をつく。
 幼き憧れと一笑にふされた感情が、悔しくてたまらなかった。


  2005.03.08


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