香水



「先生、同性を好きになったことってありますか?」
 唐突にそんな質問をされて、秋月は驚き、硬直した。
 志賀は優等生然とした雰囲気で、笑って言葉の続きを紡ぐ。
「俺、好きな男がいるんです。でもその人、俺には見向きもしてくれなくて」
「…片思いなら、僕も経験があるよ。苦しいよね」
 秋月は元恋人との思い出を脳裏に過ぎらせると、溜息を殺す。
 つきあっているというのに、想いはまるで、お互い一方通行だったような気がする。
「秋月先生が、片思いなんてするんですか?」
「要領が悪くて、臆病で、おまけに鈍感らしいから。…全部、言われたことだけど」
 苛ついたように罵られる度、自分が嫌になるばかりだったあの頃。
「その人とは?」
「どこでどう、こじれてしまったのか…。とっくに別れたし、今どうしているかも知らない」
(別に、知りたいとも思わないけど)
 決別したことで何か後悔があるとすれば、彼の真意だとか何かを…聞かずに離れたというくらいだろうか。唯一依存していた存在がなくなってしまったことで、秋月は本当に一人きりになってしまったのだ。寂しかったけれど、二人でいる方がずっと辛かった。
(…いや、ヒロオがいてくれたな)
 暫く音沙汰のない親友に思いをはせ、秋月は口元を緩ませる。 
「嫌いに、なってしまったんですか?」
「愛想が尽きたとか…そういう表現は、正しくなくて。好きだから赦せなくて、切なくて、やりきれなくて…、僕は耐えられなくなってしまったんだ」
「…よく、わかりません」
 感情を押し殺したような声音が、ぼんやりと秋月の耳に届く。
 写真でも挟んでいるのか、虚ろな視線が生徒手帳を苦しげに見た。
「うん。…きっと、その方が良いんだ」
「その人のことが本当に好きなら、何でも耐えられると思います」
 昔同じセリフを、親友に対して吐いた記憶があった。
 秋月は顔を上げ、真っ直ぐに自分を見つめる志賀に目を向ける。
(僕も、こんな表情をしてたのかな。志賀くんは令治に似ていると思ったけど、本質は…僕に似ているのかもしれない)
 お前は何もわかってないと、あの時神崎は、悔しそうにきつく唇を噛んでいた。
「ずっとそう、思ってた」
 寂しそうに秋月は笑い、立ち上がる。
「でも違ったんだ。…気がついたのが、遅かったけど」
 もっと早くわかっていたら、こんなにも、傷つけ合わずに済んだのかもしれない。
 教室の戸締まりをしながら、眩むような夕焼けに、秋月は目を細めた。
「もしかしたら、相手も後悔してるかもしれませんね」
「さあ、どうかな」
 考えようとしたけれど、秋月には理解できそうもない感情。
「俺、帰りますね。さようなら、秋月先生」
 何気なくちらついた微笑みが、
「その写真…!」
 真新しい生徒手帳に、挟まれていたその写真。志賀は確かに、笑ったように見えた。その笑みが、写真の人物とそっくりだった。見せつけるように生徒手帳を突きだして、自分を見つめる視線、が、
「これが、俺の好きな人です」
 まるで告白するように、熱っぽい囁きに秋月は瞠目する。
「は」
 言葉が出てこない。どういう態度を取っていいのかさえ、わからない。
「どう思いますか?秋月先生」 
(何か、知って…いるんだろうか。彼、は)
 唾を飲み込む音が、やけに大きく響く気がする。
「別れた恋人のことをずっと想っているんだって、言われました」
「………」
「俺は彼を好きだから、そいつのことが憎くてたまらない。この気持ち、わかりますか?秋月先生」 
 うっすらと笑いながら、志賀は冷ややかな視線を秋月に向けている。本当によく似ていた。寸分の違いなど、今の自分にはわからなくなるくらいに。
 何か言わなければならないのだろうか、それで毎回、墓穴を掘ってしまっているのに。
 乱れた息を整えようと努力しながら、秋月は汗をかいた手をズボンに擦りつける。
「先生、顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?今日は相談に乗ってくださって、どうもありがとうございました。少し、スッキリしました」
 撫でるように志賀の手に触れられて、思わず、身体が先に反応してしまう。
(何でっ、こんなとこまで…似て、る)
 瞬間的に込み上げてくる不快感と情欲に、秋月は軽く混乱した。
(違うんだから、彼は令治じゃない!令治じゃない、これは令治じゃない…)
 身体が震えてくる。自分に何度も言い聞かせながら、秋月は消え入りそうな声で返事をした。
「…い、じょうぶだから。平気……」
「そうですか。それじゃあ先生、また明日」
 静かに、教室のドアが閉まる。一人取り残されてしまうと、秋月は床に座り込んだ。
 刷り込まれた恐怖感に堅く目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をする。

「セーンセ、まだ教室にいたのか」

 顔を上げると後藤が笑って、自分を見下ろしているのが視界に入った。
 どことなく陰があるように見えるからなのか、少しすかした笑顔でさえも、嫌味にならない。それが自然体で身についてしまっているあたり、見惚れるしかないのだけれど。
「後藤くん…」
 すがりつきたくなる衝動を抑え、秋月は名を呼びかける。
 違和感のある空気に気がついたのか、後藤は慌ててこちらに駆け寄ってきた。
「って、何かあったのか!?大丈夫か、まさか…」
「何もないよ、何でもないから!」
 説明しようもない。…したくない。
 ヒステリックに秋月が叫ぶと、何か言いたげに後藤は溜息をつくだけだ。
「なら、いいけど…」
「何か用だった?探してくれてたみたいだけど」
 気を取り直して、問いかける。
「一緒に帰れるなら、帰りたいなって思って」
「ごめん。まだ、用事が残ってるんだ」
 事も無げに嘘をつき、秋月は溜息を殺す。誰かと一緒にいられるような、心境ではない。それどころか、心はどこか上の空で、身体の火照りばかりどうしようもなく気になって、しかたない。
「…そっか。先生も大変だな」
「羽柴くんは?」
 なるべくいつも通りの会話を心がけようとするのに、出てくる声音は正直だった。
(お願い。気づかないで…)
「あいつ、塾に通い始めたんだぜ。勉強に目覚めたとかなんとかで…」
「そう」
 どうでもいい。そんなことより―――――
(したいとか、何考えてるんだよ。こんなの…、本当の感情じゃない。ただの、習慣じゃないか。……あの目。志賀くんの視線に、令治を感じて欲情してるなんて。冗談じゃない)
「…ほら。立てる?」
 角張った指。舐めたいとかしゃぶりたいだとか、湧いてくるのはそんな欲望。
 乾いた唇を舌でなぞると、差し伸べられた手から目を背け、秋月は泣きそうな声をだした。
「ごめん。もう、帰って」
 自分を上手く誤魔化せない。
「先生?」
 真っ直ぐに、後藤の顔が見られない。
「見ないで。帰って。もう、関わらないで」
「…本気で、言ってんの?それ」
 今、ここで。一人で自慰でもしてみせたら、呆れて帰ってくれるのだろうか。
 どう距離を取っていいか、わからない。知らない。
 抱いて欲しくて熱く自分を貫いて欲しくて、他に感情が浮かんでこない。きっとそれは、間違っているのだ。刷り込まれた行為でしかないのだ、恐らくは。純粋な相手への想いだとか、そんな類のものからは、遠くかけ離れたところにいる。
「優しくしないで。これ以上…、好きにさせないで」
 秋月は、拳をきつく握りしめる。涙が零れそうになって、目を閉じた。
「そーはいかねえよ、先生。オレ、もうわかってるんだから」 
 穏やかにそう告げると、後藤は優しく秋月を抱きしめる。
「あっ…」
 身を引こうとしても、浅ましい欲求は見透かされてしまっていて。
 何度もこんな場面を繰り返してきたせいで、自分は変わらないままなのに…まるでいつのまにか、大人のような後藤の笑み。
「したい?オレちゃんと鍵閉めたし、丁度カーテンも閉まってるしね」
 返事の代わりに、求めるように秋月は後藤の舌に吸いついた。
 性欲の強さということなら後藤の若さにも、引けを取らないくらいには強い。持て余して手に負えない。苦しい。どうにかしなければ、そんな感情は空回る。
「…んぅ…っは…ぁ…」
 自分の感情が段々とコントロールできなくなる感覚に、涙が出そうになる。
(欲しくて欲しくて、変になりそうだ…)
「優しくするから、泣かないで。先生」
 そうじゃないとか、もう説明する言葉も出ない。
 好きだという感情を表現しようと手を伸ばすのに、先に耳朶を舐められて息を詰める。相手が後藤なんだと思えば思うほど、掠れた喘ぎ声ばかり、秋月の唇から漏れた。
「あっ、僕…おかしくな…ぁっ……」
 後藤が相手だから嫌われないように気を遣って、けれど、自分の本能的な衝動は抑えきれなくて。その狭間で揺れる苦しさが、快楽の合間に訪れて変になる。
「いいよ、大丈夫。嫌いになんて、なったりしない」
 その確信は、どこから来るというのだろう。彼の愛情がいつからなのか、どれほどのものなのか…秋月にはまだ、よくわからない。
 自分の高校時代と比べたところで、とてもではないが参考にならないのだし。
「何で後藤くんはいつも」
「好きだから。何度も、言ってるけど…わからない?まだ。先生には」
 真っ直ぐに見つめられるともう、
「…っ…僕も好き…後藤くんっ……後藤…く……!」
 好きだなんて後藤の目を見て言える日が、本当に来るなんて…。
「その顔好きだな、オレ」
 指の腹がゆっくりと、秋月の乳首を撫でる。硬くなったそこを押しつぶされ、ざらついた舌で触れられて、ひどく甘い悲鳴が零れた。
「んっ、や……ん、…ああっ……」
「先生としてる時や、先生が一人でしてんの想像して毎日やってるんだけどさ。なんか、やっぱ…こうしてんのが一番、いいよな」
 とんでもないことをサラッと言うと、後藤は口元を緩ませて微笑んだ。
 特に言葉責めのつもりでもなく、正直な感想を呟かれて、秋月は真っ赤になってしまう。初めての時はひどく緊張していたくせに、このリラックスした雰囲気が恨めしかった。しかも先生が一人で〜のくだりが、引っかかってしょうがない。
(否定は、しない、け…ど……)
「あっ」
 唾液で濡らした指をアナルの中に挿されて、我慢できずに秋月は腰を押しつけた。
「…んぅ……ああ、熱っ…」
(足りない、こんなんじゃ…!)
 ねだるように表情を伺うと、指を存分に掻き回しながら、後藤は穏やかに笑う。
「指じゃ、足りない?ココ、ヒクついてオレのこと誘ってる。先生」
「い、れて…くれないの?僕、がまんできな…あっ!」
「…っく……」
 秋月の両脚を抱えると、後藤のペニスが音を立てて、すんなりと侵入してくる。
 ずっと欲しかったその熱さに、秋月は切ない声をあげた。 
「……あぁっ……いい、いいよっ…」
 これだ。自分の求めていたものは。
 声も隠さず、心地良さに秋月は正気に返る。こんなことで、本来の素を取り戻すのだ。
「先生…」
 肉襞に誘導されるように締めつけられると、後藤は苦しげな息をつく。このまま先にいくのも悔しくて、左手を秋月の勃ちあがったものに添えて、扱いた。ヌルヌルとした雫が、指に零れ落ちていく。
「あ、ああっ…はぁん……はっ…んぅ……」
 気持ち良さそうに喘ぐ秋月は、本当に艶っぽく見える。
 自分を受け入れてくれるそのすべてが、愛しくてたまらなかった。
「…好きだよ、先生……」
 わかりやすく反応を示してくれる場所を、後藤は亀頭で抉り腰を打ちつける。
 首に廻された秋月の腕が、しがみつくように力強く抱きしめてくる。愛されているのだと、求められているのだと…何よりそのせつなげな表情が、訴えていた。
「アッ…僕っ…もう……いっちゃう…よ…!」
「オレも……」
 焦らす余裕すらない。お互いに、気持ちばかり先走るばかりで。ズチュズチュと淫音が鳴り激しくなる律動につれ、煽られていく。
「…あ、あ、あ、イクッ…あぁん…ぁ…いい、後藤くんの硬いの、当たって…っ」
 秋月の身体がビクンと震え、続いて後藤も吐精する。
「はっ、んんっ…!」
「…はぁ……」
 名残惜しく感じながらも、後藤はゆっくりと先端を引き抜いた。その摩擦に、恍惚とした表情を浮かべた秋月が淫靡だ。こんな顔を見せる人だなんて、見られるようになるなんて…。
 あんまりがっつくと嫌われるかもしれないなんて、考えていることは知られたくない。
「好き…、後藤くんが好き……」
 うっとりした表情でキスをして、秋月は息をついた。
 セックスすると、本当に気持ちが落ち着くのだ。正しくは、性欲が満たされると…だろうか。
「…センセ、背中…大丈夫?痛くない?」
 労るように触れる手に、どうにか喘ぎ声を抑えて、秋月は微笑んだ。
 痛みのうちにも入らない、こんなもの。
「平気。ありがとう…」
「目、真っ赤。次は落ち着いて、ベットでやろうな」 
「……もう」
 後藤がポケットからティッシュを取り出す。
 秋月の身体を拭おうとするので、慌てて手を振ってそれを拒否した。
「自分でするから…!ごめん。後藤くんに触れられると、また…したくなる」
「いいのに。そんなこと」
 優しく肯定する後藤から、首を振り秋月は目を背けた。
(知らないから、そうやって笑えるんだ。後藤くんは)
「もう帰らないと。先に、行ってもらっていいかな。僕は少し落ち着いてから、帰るよ」
「…うん。わかった。気をつけてな」
 少し寂しそうな笑みを浮かべ、後藤は自分の制服を整える。
「また明日」
「うん。また明日ね」
 ドアが閉まった。気怠い身体を引きずって、教室の鍵を閉める。校庭側の窓は開けた。
 外から入ってくる風に、気持ちが冷静になってしまうと、秋月は深い溜息をつく。
(…喉、渇いた)
 スーツの汚れを落としながら、できるだけ刺激のないように肌に身につける。
 随分と敏感になっている今、これだけのことも神経を使う。
(気持ち良かったな…。やっぱり好きだなあ、後藤くんのこと) 
 教室の戸締まりを点検して、職員室へ向かう。
(志賀くんの話なんて、忘れてしまうくらいに。…あーあ、思い出しちゃった)
「あ、んっ…!」
 不意にちいさく声が上がり、慌てて秋月は口を押さえる。自分の身体が恨めしいというよりは、場所をわきまえてくれない自分に嫌気が差した。
 早く帰って中にあるものを掻き出してしまわないと、落ち着かない。
 職員室に入ると、部活が終わった芝木が、ふと気づいたように首を傾げる。
「あれ?秋月、お前香水つけてたっけ。なんかやらしいな」
「シバちゃん…。何その言い方?妙な含み持たせないでよ」
 毎度のことながら、長谷川の視線が痛い。勘の鋭い人だから、何か気づかれたかもしれない。声をかけられる前に帰ろうと、支度を急いで済ませてしまい、秋月は職員室を出て行く。
 久しぶりのタイミングの良さで、倉内と鉢合わせてしまった。お互い気まずく、しばらくまともな会話を交わしていなかったのだが…倉内は、思わず秋月に声をかけていた。
「あっ、フミちゃん!」
「く、倉内くん」
 戸惑ったような秋月の表情に、苦笑する。無理もない話だ。
 とかなければいけない誤解や話しておかなくてはいけない話が、沢山あった。けれど口をついて出てくるのは、いつも通りの言葉ばかりで。割とそういうものなのかもしれない。人間関係というのは。
「今帰るとこ?お疲れ様」
「倉内くんも」
 随分と見ることの無かったふわりとした微笑みが、秋月の頬に戻る。
 その時に、気がついてしまった。
「―――後藤の、香水の匂いがする」
 誰も知らない秘密に気づいてしまったように、形の良い唇を笑ませて、悪戯っぽい声音がそう告げた。赤くなる秋月を擦り抜けると、倉内は上機嫌な笑い声をあげる。
 なんだか無性に気恥ずかしくなってしまって、秋月は歩く足を速めた。


  2005.03.02


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