甘く苦い感情



 二月十四日。バレンタインデー、というものがどうして存在するのか…秋月は落ち着かない気分で、デパートの地下を挙動不審にうろついていた。
(チョコ、あげたいけどな…)
 買うことに抵抗はないにしても、どうやって渡すのか他色んなことを考えると、気乗りしない。
 第一羽柴に釘を刺されたのだし、その気持ちは実際よくわかるのだし…
「はあ」
 溜息をつく。色めきたった女たちがチョコを吟味している姿を、羨ましくさえ思った。
(後藤くんはきっと、沢山貰うんだろうな)
「秋月?何やってんだ、こんなとこで」
「う、わっ!!」
 突然声をかけられて驚き、秋月は胸を押さえる。芝木が笑って、そんな自分を可笑しそうに見ていた。赤くなりそうな頬を、必死で堪える。この状況、上手い言い訳が思いつかない。
「そういう、シバちゃんこそ」 
「俺?俺は甘いもん大好きだからな。味比べだ。ホラ、もうこんなに買ったんだぜ。余ったらサッカー部の奴らにでも配ろうかと…秋月も食うか?」
「いっ、いい。いらない!ありがと」
「長谷川先生にでも渡すのか?俺も、義理なら受けつけてるぜ」
 ありえない話の展開に、秋月は一瞬の沈黙の後、
「ななっ、何でそうなるんだよ…!?違うったら!あの人は関係ないだろ!シバちゃん」
 半ば本気で、芝木の肩を揺さぶる。
「照れることないって!俺、そういうの偏見ないしさ。ヒューヒュー」
(なんか段々、コメントする気もなくなってきた…)
 秋月はコホンと咳払いをし、横目で軽く芝木を睨んだ。
 まさかとは思うが、一応確認はしておいた方がいい。…予感は外れてほしかったが。
「………シバちゃん、あのさ。まさかそういうこと、言いふらしたりしてないよねえ」
「あったり前だって。陣内先生にチョロッと、酒のつまみで話したくらい…」
 何でよりによってそこで彼の名前が出てくるのか、秋月は目を丸くした。意外な交友関係だ。というより、そんな可能性考えたこともなかったのだ。階段で後藤との会話を聞かれたことを思いだしながら、秋月は疑問を言葉にする。
「はあ!?陣内先生?まさか、司書の?何で?」
「秋月、怖いってちょっと落ち着けって。…ホラ、倉内が陣内先生に懐いてるから、コツを教えてもらおうと思って話を聞いているうちに、仲良くなったっていうか。ま、酒飲み友達だな」
「ま、じゃないよ!何それ!!聞いてない…だって、っていうことは……」
(陣内先生づたいに倉内くんが、僕と長谷川先生がつきあってるって誤解してるかもしれない…。そういうことじゃないか!…うっわ、最悪だ)
「…秋月?オーイ、大丈夫か」
 突然黙り込んだ秋月の顔を覗き込み、心配そうに元凶は笑顔を見せる。
「シバちゃんの馬鹿!」
「俺は確かに馬鹿だ」
「……はああ」
 秋月は盛大に溜息をつくと、頭痛のしてきた頭を押さえる。
(なんか、倉内くんに避けられている理由がわかった気がする…)
 倉内は後藤への恋心を知っていたからこそ、秋月に不信感を持ったのだろう。
「陣内先生も、口が軽い方じゃないし大丈夫だって!そんなに、気にするなよ」
「だから、誤解なんだって。長谷川先生とは、つきあってないんだし」
「そうなのか?!」
 まるで信じてくれなさそうな態度に、秋月は何度目かの溜息をついて頷く。
 身の潔白を理解してもらえるまで、悪いがチョコはお預けだ。
(まあ、身体の関係はあったけどね…。自業自得か)
「そうなんだってば」
「そうだったのか…」
 何故かひどく残念そうに、芝木は肩を落としている。
「何でそこでガッカリしてるのか、わかんないんだけど」
「べっつにぃ。茨の道より近くの同僚、お手軽かもしれないけど俺はそう思っただけさぁ」
 優しく頭を小突かれた。
「え…?」
「んじゃな、秋月!また学校でな」
「ちょっ、シバちゃん!…もう、何なんだよ」
 秋月は呆然と芝木の後ろ姿を見送ったが、気を取り直して売り場を廻ることにした。
(…気にするの、やめよ。キリないし。渡せなかったら、それはそれでいいや)
 散々悩んだ末、甘さを控えたビターチョコを買って帰る。
 丁寧に包装されたそれはなんだか、とてもではないが渡せそうもない代物に思えた。


   ***


 バレンタインデー、当日。正門にたかる女子校の生徒を前に、秋月は思わず立ち止まった。
「うわぁ…。すごいな」
(後藤くんに渡したい子とか、いるのかな。やっぱり)
 生徒指導の教師たち―――それには長谷川も含まれるのだが、その対応も大変そうだ。
「おはようございます」
「ああ、秋月先生。ハッピー・バレンタイン」
「……えっ」
 気障ったらしい長谷川の口調に軽く引いて、秋月は硬直してしまう。 
「俺は義理でもいいなんて、遠慮はしていませんからね」
「………ハハハ」
 朝からこの調子で、今日一日こんな機嫌が続くのだろうか。そう思うと、なんだかうんざりする。
 浮ついた校内に足を踏み入れ、秋月は深呼吸をした。
 共学ではなく男子校だから、そう騒がしいというわけでもないのだけれど。
 
 結局チョコを渡せないまま、とうとう放課後になってしまった。
 職員室に戻ろうとしたところで、後ろから肩を叩かれて秋月は振り返る。
「セーンセ、チョコちょうだい♪」
「後藤くん」
 嬉しいなんていう感情は、隣りの羽柴にどう思われることだろう。
「マサったら、何個もらえば気が済むんだか。お腹壊すよ」
 詳しくその辺の話を聞かせてもらいたいところだったが、後藤はどうでもよさそうだ。
 どんな告白を受けたのかとか、どんな可愛い子だったのかとか。聞きたいことは沢山あった。
「他のはいらないから、先生のチョコ頂戴」
 チョコならばポケットに入っているのだけれど、この状況で渡せるわけがない。
 溜息をついたのは、羽柴の方であったが。
「先生あんまり困らせないの、マサってば…」
「可愛い生徒にチョコ欲しいなんておねだりされて、嫌がる先生なんていないぜ?」
「俺たち男子生徒に可愛い…、ねえ」
 羽柴は段々呆れたような声に変わっていくが、後藤は意に介さない。
「少なくとも、秋月先生はオレが可愛い。間違いない」
「どっちかっていうと、格好いいって思ってるよ…」
 つい口を挟んでしまった。秋月の言葉に、思わず羽柴は苦笑してしまったようだ。
 照れ隠しなのか、後藤が羽柴の背中を叩く。軽快な音がパン、と鳴った。
「だってよ、聞いたか!?羽柴。いやあやっぱり、オレって天下に轟く色男だよなァ」 
「あーあ、調子に乗っちゃった。ホント、単純なんだから」
「何だって?」
 もはやこの流れは確立されすぎて、額にデコピンされた羽柴は大きな声で喚く。
「いたっ!せんせー、たすけてー」
 羽柴が後藤の攻撃を避けながら、しがみついてくる。
 本当に、嫌われているわけではないのだろう。秋月は、少しだけ安堵した。
「大丈夫?羽柴くん」
「大丈夫じゃなーい。人権侵害だっ」
「ああもう、うるせー!」
 後藤の手から逃れるように軽やかにターンを踏むと、羽柴は慌てて走りだす。
「そうだ!俺、宇野くんに呼ばれてんだった。それじゃっ」
「逃げたな、羽柴の奴…」
「………」
 一度だけ悪戯っぽい笑顔で、羽柴が振り向いた。気を利かせてくれているようでもあった。
 その姿が廊下の隅に見えなくなると秋月は小さく息をつき、緊張を解く。
(…羽柴くんが何を考えているのか、よくわからないけれど)
 これは、またとないチャンスかもしれない。
「……あ、のっ…コ、これっ!」
 真っ赤になって、秋月は後藤にチョコを差しだした。少しだけ、手が震えてしまう。
 向かい側から歩いてくる生徒の目がこちらを見ている気がして、唇を噛む。
「え?」
「バレンタインの…チョコ……。その、正門でっ、後藤くんに渡してくれって…もらって、くれる?」
「先生」
 後藤は驚いたようだった。何に、なのかはわからない。
(ごめん、違うけど。本当は…僕からのものなんだけど。今は言えないんだ。ごめん)
 後藤は困ったような笑みを浮かべ、手を上げた。
「ゴメンな。受け取れない」
 落胆でなく、そこは喜ぶべきだったのかもしれない。冷静に、考えてみれば。
 自分で口にした言い訳をすっかり忘れ、秋月はぎこちなく手を引っ込めた。
「あ、そっか…そう、だよね……!ありがとう、ごめんっ」
「………ん。また明日」
 いたたまれなくて、秋月は逃げるように走りだす。立場上は廊下を走るなと、いつもは注意する側なのに。何度それを破っているのかもう、わからない。ただ何か…とてつもなく、恥ずかしい気分だった。
(うわー、やっちゃった。またやっちゃったよ、いつもの如く!)
 廊下を走り抜けて、秋月は浮かんできた涙を拭った。
(バッカみたいだ。本当、何やってるんだろ…あんな、あんな顔が見たいわけじゃなかったのに。
 もっとマシな嘘…なかったのかな。あったらとっくに言ってるって……!)
 頭の中で不毛な議論をしながら、買ってきたチョコをゴミ箱に投げ捨てる。
「先生!」
 背中を追いかけてきた声に振り向くと、息をきらした後藤が立っていた。
 後藤は泣いている秋月を目に留め、小さく溜息をつくと優しく、穏やかに笑う。
「やっぱ、頂戴。それ」
「…でも」
 可笑しそうに首を横に振り、後藤は言葉を続ける。
「きっとその子は、嘘が下手で不器用でよく泣く、ボーっとしてる人だな」
「……全然、褒めてないよ」
 身体中が熱くなってくる。ますます恥ずかしくなってきて、秋月は俯いた。
 拗ねるようにそう呟くと、笑いながら後藤が顔を覗きこんでくる。
「あばたもえくぼって言葉、知ってる?」
「今、ゴミ箱に捨てちゃったよ」
「じゃあ、オレ勝手に拾うから」
 後藤がチョコを、ゴミ箱から拾い上げて口に運ぶ様を、ぼんやりと見ていた。見惚れていた、という表現の方が正しいのかもしれない。ドキドキした。
 好きだとかしみじみとそんなことを、いつもの如く思うばかりで。
「おいしい。センセ、ありがとね」
 気持ちがもう、伝わってしまっているのだろう。
「そのチョコは正門で今朝、女生徒が僕に託した」
「ハイハイッ、そーだったな。追加、往生際も悪い…と」
「後藤くんは一言多いよ」
 唇をとがらせて、秋月は軽く後藤を睨む。
「先生の言葉が少ないから、丁度いいんじゃねえの。コレで」
「大ざっぱだし」
「何とでも言うがいいさ。オレは今、最高に嬉しい!」
 目の前でガッツポーズをされるくらい喜んでもらえると、渡した甲斐もあるというものだ。自分で渡せた、ベストな方法ではないにしても、わかってくれた。秋月はプッと吹きだして、その表情を和らげる。
「…子供、だなあ」
「ガキの特権は利用するよ、オレ」
 悪びれもせずそんなことを言われたら、降参するしかない。
「ほんとに、敵わないんだから」
「あ、先生!」
 後藤からぽんと放られたものを受け取り、秋月は信じられなくて瞬きをした。
 小さな、けれど丁寧に包装された箱。思わず、後藤を伺う。
「オレから」
 視界が霞んで、まともに顔が見られなかった。


  2005.02.03


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