共犯者



 電話の着信音に、後藤は握りしめていた携帯を耳にあてる。
 手が汗ばんでいた。心臓が煩くて仕方ない。
「もしもし…先生?やっぱり、夢じゃ…なかったんだな……良かったぁ」
 長谷川は聞こえてくる嬉しそうな声音に、無言のまま眉をしかめてみせた。
 秋月の落とし物は、彼の想い人への経路だったようだ。
「オレ、先生のこと好きだよ。電話くれてありがとう、すごく嬉しかった」
「……………」 
 疑いもせずに、純粋な感情は長谷川の嫉妬を煽るだけだ。胸がむかついてしょうがない。
 二人がつきあい始めたとでも、言うのだろうか?
 秋月は確かに落ち込んでいたようだったし、まだ確証には程遠い。
「…センセ?何か喋ってよ」
 通話ボタンを切る。電話の向こうで今、後藤はどんな気分なのだろう。
 想像しようとして長谷川は、唇を歪めて笑った。これは利用できそうだ。
 秋月に知られたら、嫌われるだろう。…そもそも、最初から疎まれていた存在だった。長谷川の監視するような態度を、当人も勘づいていたせいだろう。先生と生徒の恋愛なんて、上手くいくわけはないのだ。身を以て、それは長谷川も体験済みだ。
「今度こそ、必ず…」
 誓うようにきつく目を閉じる。脳裏に蘇る初恋の少女の姿は、未だに長谷川の胸を灼く忘れることも思い出を愛することすらできずに、長谷川は携帯を睨みつけた。
 どんな手段を使ってでも、秋月と後藤が結ばれるのは赦さない。正義という名の下に、自分が間違っているだなんて微塵も思わないままに。


   ***


 翌日、秋月が学校の門をくぐろうとすると、誰かが軽く背中を叩いた。飛び上がって驚き、慌てて振り返ると悪戯っぽい笑みを浮かべて、後藤がおはようと挨拶をする。
「…おはよう」
 もしかしたら、夢だと思っているかもしれない。秋月は保健室に、見舞いに行かなかったのだ。羽柴の懇願に、そんな気はなくなってしまった。昨日はよく、眠れなかった。
 八方美人というにはあまりにも中途半端で、誰しも平等になんて文句はただの綺麗事。口だけの約束なんて、出来るわけはない。…行動で、示さなければいけないのだと思う。結局は。
(プラスになるかどうかなんて…。僕にはわからない。否定も、肯定もできない)
「セーンッセ!」
 明るい笑顔を浮かべて、後藤は秋月の隣りに並ぶ。それがどれだけ嬉しいのか、きっと本人は知らない。
「マジでオレ、夢かと思った!最近、よく意識が混濁してるからさ」
「……大丈夫、なの?」
 不安げに問う秋月に、後藤はしっかりと頷いた。それから力強く、断言する。
「ああ。もうこれからは平気だと思う。昨日なんて、興奮して眠れなかったし」
 秋月は表情を和らげて、後藤から視線を逸らした。
 こんな自然な会話があまりにも久しぶりで、涙腺が弱まるのを、必死で堪えなければならなかった。
「ほんと、後藤くんがこんなに早起きしてくるなんてすごくすごく久しぶり」
「アハハ。いい点取ったら、ご褒美くれる?」
 揶揄した口調に頬が赤くなるのを隠すように俯き、秋月は笑う。
「その前に、授業中の居眠りをやめてほしいな」
「ああ、そうだな…まあいっか。ご褒美なんて贅沢言うの止ーめよ」
「そんなごまかし方、ありなの?」
「アハハハ」
(まったくもう…)
 隠れた睦言のような会話に、秋月は小さく息をついた。
 今なら、理由を聞けるだろうか?後藤の不調の、原因を…もしかしたら、今ならば。
「マーサっ、先生!おっはよー」
(羽柴くんっ)
 ぎくりとして振り返る秋月に、羽柴は柔らかく笑う。
 まるで昨日の出来事が嘘みたいで、秋月は惚けたように二人のやりとりを聞いていた。
「何だよ羽柴、別に走って来なくても良くね?」
「寒かったから走っただけだって。ね、センセー。マサ、ひどくない?」
「…うん」
 無邪気な羽柴の笑顔は、いつもと何ら変わりない。
 秋月がそっと友人に同意すると、面白くなさそうに後藤が口を挟んでくる。
「秋月先生は、オレの味方だろ?」
 そうでありたい、とは思う。けれどそんな表現を使うなら、生徒に対して抱く感情そのものでしかない。
 後藤には悪いけれども、結局最後の線を引くのは自分かもしれないと秋月は目を伏せた。
「アハハ」
「うわ、ごまかしてる。人のこと言えないけど」
 それじゃあ、また教室でな!なんて、一瞬後藤の手が肩に触れた。
 頬が赤くなる。秋月は返事もできず、曇った表情の羽柴に気がついて、ハッとした。
「またね、先生!」
 すぐにそんな表情はかき消えて、羽柴は後藤の後を追いかける。
 秋月は取り残されたように、二人の背中を見ていることしかできなかった。 

 何が正しくて間違っているのか、そもそもそんな定義なんていらない。
 
「ああ、羽柴。お前確か今、週番だったな。ちょっと、ノートを取りに来てくれ」
「はーい」
 長谷川がC組の教室に顔を見せたのは三時間目の休み時間、呼ばれた羽柴はすぐに席を立つ。同じ週番である中尾を道連れにしようと思ったのに、こういう時に限って教室にいないのだった。後藤の席をちらりと見ると、案の定爆睡している。
「わかりました」
 黙って二人は並んで歩き、やがておもむろに長谷川は口を開いた。
 羽柴は呼び出された用件が、雑用とは無関係なところにあることをすぐに知る。
「羽柴。俺に、協力する気はないか?」 
 よくわからない、提案。何のことかと尋ねようとして、不意に秋月を思い出し羽柴は足を止める。
 長谷川を見上げると、無表情が少しだけ口元を緩ませた。羽柴はそっと、目を伏せる。
「何か、勘違いしてるみたいですけど。俺、ただマサの味方なだけですよ」
 勘の良い教師だと思う。注意深く観察していなければ、わからないような羽柴の態度だ。
「頭が良いな、君は。数学の成績も優秀だし…」
「どうもありがとうございます。…倉内が、あなたと秋月先生がつきあっているって言ってたけど。嘘、ですよね」
 長谷川の気持ちなんてあからさまで、知りたくもないのに知ってはいたのだけれど。
 あの倉内がそんな嘘を信じたことも羽柴には不思議だったが、きっと上手く言いくるめられたのだろう。そうかなあ。違うんじゃないかな?そう返事をした羽柴に、倉内はそれきり閉口してしまった。
「今はな。そのうち…必ず、手に入れる」
「俺、めんどくさいこと嫌いなんです。恋愛とか、そういうの…なるべく関わりたくないし。何も知らない振りしてるのが、一番楽だし。そういうわけなんで、悪いですけど」
 そんな感情に散々振り回されている後藤や倉内を見ていると、どうしても積極的になれない。
「いくら出せばいい?」
「えっ?」
 告げられたセリフが、一瞬信じられなかった。どう考えたって、教師が発する言葉ではない。
 瞠目して、羽柴は言葉を詰まらせる。嫌悪感より、苛立ちが先に心を占めた。
「俺のことバカにしてるんですか!?」
「そういうわけじゃない。それじゃあ、等価交換といこうか。君も何か、俺に望めばいい」
「俺はあなたに叶えてもらう願いなんて、一つもありません」
 早口で拒絶する。そんなことで、何でも言うことをきくというのか。
「…強情だな。羽柴、君は後藤に惚れているわけじゃないんだろう?」
「マサは、俺の大事な親友です。ホント、それだけ。
 長谷川先生だって、マサのこと知ったらきっと好きになるよ」
「遠慮するよ」
「そう?」
 どうやら、切り返しは上手くいったようだ。心情を表す苦い返事に、思わず羽柴は笑ってしまう。
 彼にとっては、憎き恋敵。まあ、無理はないのかもしれないが。
「考えておいてくれないか」
「利用できるものは、何でも利用するって感じなんですね。やだな、大人って。でも、それってきっと大人だけの特権じゃないと思うけど」
 少し前、倉内がそんな風に長谷川をなじっていた。今ではその気持ちが少しだけ、わかる。
 自嘲するような笑みを浮かべた長谷川は、どこか寂しそうに呟いた。
「こんなに欲しいものが、まあ…君には、まだないんだろうな。それはそれで、幸せだ」
「俺だって、秋月先生のことは普通に好きだけど。そんなに、魅力のある人かな」
 それは素朴な疑問だった。秋月は明るくて優しくて、男なのにきれいな先生だ。まるで、先生のテンプレのような。ただ、後藤のぞっこんぶりを見ても羽柴にはピンとこないだけで。
 恋愛感情というものは、本当に理解できそうもない。苦しいなら、好きにならなければいい。
「わからなくていいさ」
「……わかんないな〜」
 羽柴ははあと溜息をついて、真っ直ぐに長谷川の目を見る。
「あなたに協力すれば、少しは理解できるのかなあ。…いいよ、協力してあげても」
「そんな理由で、か?後悔するかもしれないぞ」
「好奇心は立派な理由だよ。先生」
 肩を竦めてみせる羽柴は、すっかり決意を固めてしまったようだった。
「好奇心身を滅ぼす。そういう言葉だってあるだろう」
「身を滅ぼすのは、誰だろうね」
 ぽつりと呟いて、羽柴は肩を竦めた。長谷川が、ひどく楽しそうに笑う。
 この教師のそんな顔を見たのは、初めてだった。
「これで、君は共犯だな」
「別に、そんなつもりはないよ」
 教室にいる親友の顔を思い浮かべると、知られたら嫌われるだろうか。なんて、ぼんやり思う。ならば知られなければいいだけの話であって、その点において長谷川の考え方と、自分の考え方は似ているところもあるのかもしれない。
 結局、感情のずれなんてそんな些細な揺れ動きにしか過ぎないのだ。

 羽柴が教室に戻ると、後藤は変わらず机に突っ伏して居眠りをしている。
 小さく微笑んで、その肩にそっと手を伸ばす。指先が触れたくらいでは、後藤はピクリともしない。
「俺は、マサを裏切ったりしないよ。…それにしても、よく寝てるなあ」
 その誓いに、嘘はない。あまりにも気持ち良さそうなので、つられて羽柴は欠伸をひとつ。
 友達想いの共犯者は、そのまま微睡みの中に引きずられていった。


  2005.01.14


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