顔



「後藤くん、顔を上げて。教科書の92ページから」
 ふ、と顔を上げた後藤と目が合う。寝ていないのは、何となく雰囲気で知っていた。
(たけど、真面目に授業を聞いてくれないのは相変わらずだ)
「お前さあ、寝てんのフミちゃんの授業だけじゃん?嫌がらせか何か?かわいそー」
 ひそひそと話しかける隣りの生徒の声が、耳につく。
 聞かなければ良かった。知りたくもない事実だ、秋月は教科書で顔を隠すと溜息を殺した。
(やっぱりそうなんだ…。僕の授業、だけ)
「うるせーバカ」
「いってえ!」
 足が伸びて、思わず叫んで臑を押さえる生徒に向かって。
「村上くんも静かに」
「…秋月先生の言う通りだぜ、村上」
「お前なあ」
 村上の抗議も、もっともというものだ。秋月は眉を寄せて、後藤を見る。
「後藤くんも。授業、真面目に聞く気はあるのかな」 
「先生、あのね。オレ、お腹が痛いので保健室行ってもいいですか」
 教室に小さく失笑が湧いた。教卓の後ろで、秋月はギュッと拳を握りしめる。落ち着いた声を出すのに、少し時間がかかってしまった。
「保健委員は、宇高くんだったかな。つきそってもらえる?」
「わかりました」
 ざわついた生徒たちに声をかけ、何事もなかったかのように黒板に文字を書く。
 頭の中は後藤のことばかりで埋め尽くされ、ろくに授業に身が入らない。不意にチョークが折れてしまい、秋月は唇を噛んだ。
 
 結局、放課後になっても後藤は教室に戻らなかった。
「後藤ときたら、ここを自分ちのベットと勘違いしてますね」
 養護教諭の阿部が、秋月に気づいて苦笑いを浮かべる。上手く笑い返せなかった。
 椅子を勧められ、温かいコーヒーが出されて。ようやく気持ちが平静に戻る。
「ここによく、来るんですか?」
「家だと、ぐっすりとは眠れないらしいですよ」 
 穏やかな声に、とっさに言葉が出なかった。多分、感じたのは嫉妬かもしれない。
「悩めよ青少年、てとこですかねえ。アハハ。若いって羨ましいですよ」
「…悩みなんて絶対に、ない方がいいんだ」
 カップを握る手に力が込もる。秋月は、吐き出すように告げた。
「どこを探したって、そんな人いないですよ。秋月先生。いいじゃないですか、青春青春」
「僕は後藤くんに、そんな話をしてもらったことがないんです」
 もしかしたら教師とさえ、認められていないのではないか。なんて、
「格好つけたい年頃なんですよ。何でもないって笑って…あなたに、余計な心配をかけるのが嫌なんだ。かわいいじゃありませんか」
「阿部先生」
 あいにく自分はそこまでは、前向きな思考を持ち合わせていない。
「恋というものはいいものですね。子供たちを見ていると、そう思いますよ」
 後藤は彼に何を言い、自分の知らない後藤の何を、彼は知っているのだろうか。
 白いシーツの向こうでふああと欠伸が聞こえ、後藤が顔を覗かせる。柔らかく微笑む阿部を恨めしげに睨むと、それから秋月を見、後藤は笑った。
「阿部先生、お喋りなんだな。静といい勝負だ」
「後藤くん、保健室は寝にくるところではないよ」
 こんなセリフただの八つ当たりで、先生ぶった物言いに紛れた嫌な感情。
「いいんですよ、秋月先生。生徒それぞれ、好きに使ってくれればいい」
 自分は一体どういう立場で後藤と接すればいいのか、
「アハハ、静みたいなこと言うぜ。まあアイツは、ケチくさいとこあるけどな」
「…いいな」
「え?」
「いえ、何でもありません」
 阿部が養護教諭という責務を、ちゃんと果たしているように感じた上での言葉だった。教師ではないが、自分の理念というものを持って接しているということであれば、倉内も同じ。長谷川なんて、教師の見本そのものだと思う。秋月が考えるところの。
「それじゃあ、僕は」
 後藤を心配して様子を見に来て、仮病ならそれ以上ここにいることもない。保健室のドアを静かに閉め、歩きだす。途中、後藤の鞄を持った羽柴とすれ違った。
 ふと窓の外を見れば、裏庭で倉内が誰かと話をしているのが見える。倉内がそんなところにいるのも珍しいと思い、秋月は瞬きした。
「なあ、つきあってくれよ。倉内」
 切羽詰まった告白の声に、他人事ながらドキリとする。そういう噂があるのは知っているけれど、実際その場面に出くわすと妙な気分だ。立ち聞きする罪悪感よりも、好奇心の方が先立つ。
「悪いけど、他に好きな人がいるから」
 意外な返答に、秋月は驚く。初耳だった。
 会話にあがるのは自分のことばかりで、倉内の恋愛観なんて聞いたこともない。
「それってC組の、後藤真之?」
(え?)
 はあ?という声があがる。
「何でそこで、後藤が出てくるわけ?頭おかしいんじゃないの」
 心底嫌そうに倉内が続け、秋月は複雑な気持ちで苦笑いを浮かべる。
「何でって。仲良いじゃん」
「あのねえ。…はあ。まあいいや。とにかく、僕はそこまで趣味悪くないよ」
(……………)
 脱力したのは、倉内も同じだったようだ。
「じゃあ誰なんだよ?」
 なおも食い下がる相手に、段々倉内も苛々としてきたようだ。
「しつこいな。本人以外に言う気はないよ」
「納得できるかよ、そんなんで」
「うるさいな。…あ」
 目が合ってしまった。助けて、と倉内の視線が訴えてくる。小さく、秋月も頷いた。
「倉内くん!探したんだよ」
 窓から身を乗り出し秋月が声をかけると、相手は逃げて行ってしまった。
 倉内はふうと吐息をついて、意地悪い笑みを浮かべる。
「今ので、フミちゃんの盗み聞きは許してあげようかな」
「…さっきの子、勘違いしていたけど。でもその気持ち、わからないでもないよ」
「後藤のこと?蒸し返さないでよ、フミちゃん。冗談じゃない」
 全否定されて心底安堵する秋月の気持ちを、倉内はわかっているのだろうか。
「ああでも、僕ひとつだけ後藤で好きなところがあるよ」
 フォローしておいた方が良いのかな、そういう意味にとれなくもない。
「え?」
「顔」
 理由も何も、これ以上わかりやすい答が存在するだろうか?
「顔、って…」
 絶句する秋月に、ようやく倉内はいつもの笑みを見せる。
 初めて後藤を褒めたところを、聞いた。
「いいよね、あの顔。フミちゃんが惚れるのもわかる気がする」
「倉内くん」
 ダメだ、何を言われても…どう捉えていいのか、秋月にはわからない。
 秋月の様子に、困ったように倉内は自分の頭をかいた。
「そんな目で見ないでよ。言っておくけど、顔以外にいいところなんてないよ」
「…顔って、性格が出るんだから」
 どういう結論が出れば自分は納得するのかも、わからずじまいで。
「そうとも限らないと思うな。あ、噂をすれば仮病の後藤だ」
 今から帰るところらしい後藤は、倉内を見つけるとわざと大きく溜息をつく。
 秋月がいるところでは、大抵の場合後藤はこういう表情で、倉内と話をしている。…自分の知らないところではどうかなんて、そんなこと知らないが。
「お前、また秋月先生にろくでもないこと吹き込んでんだろ。あーあ、嫌な奴」
「そんなこと言って、仲良いくせに」
 呆れたように口を挟んだ羽柴が両方から睨まれ、肩を竦めた。
「フン、羽柴ほどじゃないよ」
「ちなみに俺は妬いてるんじゃなくて、マサたちがケンカになった時、とばっちりを受ける自分が可哀相で、嫌味を言ってるだけなんだけど…」
 自分を弁解しなくてはならないなんて、羽柴も大変な友達を持っている。
「とばっちりなんてとんでもないな。構ってやってるんじゃないか」
「言っておくけど。誰かさんと違って、僕は羽柴に暴力行為を働いたことはないよ」
「ただのスキンシップを暴力行為だなんて、そりゃ大層だな」
 不毛な睨み合いは続く。
「今時、幼稚園児でもそんなスキンシップ取らないと思うけどね」
「静、てめえ前から思ってたけどオレに何か恨みでもあんだろうが?」
 仲裁しようにも、割って入る隙もない。
「残念なお知らせだけど、僕の頭の中に後藤の入る隙間なんて微塵もないんだから自惚れないで」
「誰が…っ」
 苛ついた後藤の手が伸びる。慌てた羽柴が体当たりで、それをどうにか押しとどめた。
 全く動じていない倉内は、澄ましきった顔で二人のやりとりを傍観している。
「わ、マサストップ!倉内の顔に傷つける気?!」
「…羽柴よぉ。何だ、そのセリフ」
 勢いがそがれるのも、無理はないかもしれなかった。
「だ、だって倉内が美形だから…。俺、きれいなものは大事にしたい主義なんだっ」
 羽柴は真剣そのものだ。まったく羽柴ときたら、純粋で羨ましいことこの上ない。
 願わくばいつまでもそのままで、清い友情は恋に変わらないままで。
「羽柴、お前もう一度美について真剣に考えた方がいいと思う」
「俺の審美眼を、いくらマサでもどうこう言われたくない」
「オレが悪かった、羽柴。な?考え直そう。二人でラーメンでも食べながら…」
 なんだか秋月も、漫才を見ているような気になってきた。
「馬鹿馬鹿しい。つきあってらんないね。貴重な時間の無駄遣いだよ」
「さっさと図書室に消えやがれ。静」
「お前に言われなくたって、今から戻るところだよ。…ったく、誰とは言わないけどこんな奴を好きな物好きがいるなんて、信じられないね!」
 そんな捨て科白を吐いて、倉内は図書室へ向かう。
(…いいなあ。やっぱり、後藤くんと倉内くんは仲が良いなあ) 
 二人に聞かれれば激しくつっこまれそうな感想を抱き、秋月は後藤を盗み見る。
(確かに、僕は後藤くんの顔も好きだけど。好きになったきっかけは、容姿じゃないんだよね)
 仲良く後藤と羽柴の言い争う声から遠ざかり、秋月は思い出すように目を閉じた。
 風が冷たくなってきたような気がする。駆け足で秋が過ぎ、すぐ冬がそばに迫っているような。
 五月。あの日は暖かい、春の日だった。 
 後藤を、好きになったのは。


  2004.08.22


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