暑中見舞



「先生」
 自分の目の前で笑う後藤の姿が信じられなくて、秋月は瞬きを繰り返した。
 今は自宅謹慎中のはずでとか、面白味のない言葉が口をついて出てきそうだった。
「反省文十枚、書き上げたら学校に来ていいって言ったろ?昨日のことなのに、もう忘れたのかよ」
「…だって、」
 あの嫌がり方といったら、一週間で終わるのかどうかもわからないといった様子で。
 秋月の態度に満足したのか、後藤は得意げに口を開けて笑う。
「本当は初日で終わらせてたんだよ。オレだって、やるときゃやる男なの」
「お疲れ様、後藤くん。これは僕が、長谷川先生に届けておくから」
 もしかしたら後藤のことを過小評価していたかもしれないと、秋月は心の中で苦笑する。
 好きなのだという気持ちばかりで、冷静に相手のことを見られていないかもしれない。
「先生」
「え?」
 呼ばれて、我に返った。
「先生」
「ど、どうしたの。何?」
「…ちょっと、再確認っていうか。先生はオレの担任で、オレは先生の生徒だってこと、時々忘れそうになるから。まあ、だから静みたいな呼び方はしないんだけどさ」
 そんな理由があったなんて、知らなかった。秋月は赤くなった顔を俯かせ、眉をしかめる。
「もうすぐ夏休みだから、今みたいに毎日は逢えなくなるけど。暑中見舞い、書くよ」
 その大人びた気遣いに、どう返事をしていいかわからないで。
 大切そうに原稿用紙を抱きしめると、秋月は軽く首を傾げる。
「読書感想文、書いてみたら?」
「夏休み中に読み終わるか、わかんねえのに?」
 一話だけなら三十分もしないで読めてしまうような短編集を、そんな風に言う後藤が可笑しい。楽しそうに笑い声をあげて、チャイムの音に教卓の前につく。後藤も自分の席に着いた。視界の中に後藤がいるというだけで、秋月の心が弾む。
(夏休みなんて、なければいいのに)
 半分、本気でそう思った。

 自習続きの授業の後、忙しい職員室の中、秋月は作業を終え小さく吐息をついた。
 視線を感じ顔を上げると、長谷川がこちらを見ている。
「はかどってますか、長谷川先生」
「ええ、まあ」
「僕はなかなか…。時間の遣い方が下手みたいで。長谷川先生を見習いたいくらいです」
「……はあ」
「長谷川先生?どうかしましたか」
「いえ。何でもありません」
 秋月を避けるように席を立ち、長谷川はそのまま職員室を出て行ってしまった。
「珍しいこともあるもんだな。いつもと逆じゃないか?秋月」
 芝木に面白そうに声をかけられ、秋月も軽く笑み返す。
「アハハ、嫌われたかもしれないな」
「何言ってんだよ。長谷川先生、秋月のこと大好きじゃないか」
「シバちゃんの方こそ、何言ってんだか」
「冗談だって」
「当たり前だよ。当人に聞かれたら、静っか〜に怒られるよ。シバちゃん」  
「それだけは勘弁」
「だよね」
 自分を晒した秋月に、長谷川は呆れたのかもしれない。それは少し残念で、仕方がないと諦めてもいた。色欲の強さだけは、秋月自身持て余すほどだ。
「そういえば、後藤が戻ってきたんだよな。良かったな、秋月。お前心配してたもんな」
「うん」
 秋月が頷くと、言いにくそうに芝木が続ける。
「…余計な、お節介かもしれないけど。あんまり生徒に入れ込まない方が、良いんじゃないか?」
「え?」
 真意はどういう意味なのかとか、
「ストレスとかたまるだろ、一々生徒に肩入れしてちゃ。俺たちは俺たちの生活があるし、アイツらにはアイツらの生活ってもんがあって…それが重なる場所みたいなもんが、学校っていうか。同じところにいるんだけど、やっぱり違うだろ?立場とか」
 尋けるわけもない。多分、墓穴を掘るだろうから黙っているのが懸命だ。
 にっこりと意地悪く反撃することに決め、秋月は芝木の肩を叩いた。
「…ただの練習試合で大泣きするような部活の顧問にだけは、言われたくないセリフだけどね」
「それは言うなって…!」
「シバちゃんの言うことも、ごもっともでーす」
 正しすぎて反論もできない。だからどう、ということもない。
「今かなり怒ってるだろ、秋月」
「ありがとう。肝に銘じるよ」
 心配してくれる気持ちは純粋に、嬉しいと思うくらいだけれど。
「俺、秋月と同期だしさ。なんか、頑張ってほしいし」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
「あーもう!今後、こんなこと絶対言わないからな、俺は」
 照れくさいのか頭をかくと、芝木は缶コーヒーに口をつける。
 秋月はただ、目を逸らした。
(同じところにいるのに、か…)
 警告なのか牽制なのか、後藤への思いは気づかれているのだろうか。
(後藤くんは僕を「先生」と呼ぶことでセーブして、だけど僕は、どうしたらいいだろう?)
 そもそもそんなもので誤魔化されるような気持ちでは、ないことだけは確かなのだから。中途半端に歳だけ取って、プラトニックな関係だなんて満足できないでいる分は。
 一度きりの関係をずるずると続ければ、取り返しのつかないことになることはよく知っている。
(…考えたって、なるようにしかならないんだから)
 夏休みはすぐそこに迫っている。暫くは、後藤の顔を見ることもない。
 答は先延ばし先延ばしで、いつ決着がつくのかどうか。自分でもどうしたいのか、気持ちが計れない。そこまでぼんやりと考え、秋月は休めていた手を動かした。


   ***


 あっという間にやってきた夏休みは、ひどく退屈なものだった。生徒のいない学校に足を運び、ある日自分の机の上に届けられた暑中見舞の葉書に秋月は目を細める。
 差出人は後藤だった。始まりは暑中お見舞い申し上げますという、単純なものだったけれどもあろうことか紙面に読書感想文を書き連ね、最後はこう締めくくられていた。
「明日、先生に逢いに行きます」
 目を疑う。はっきりとした文字に間違いはなく、ひどく落ち着かない気分になる。
 秋月がカレンダーを見て登校日だと気づくまで、そんなに時間はかからなかった。


  2004.07.30


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