この瞬間、
天気の良い、爽やかな朝。単純なもので、こういう日は自然と、背筋も真っ直ぐに伸びる気がする。
すれ違う生徒たちと挨拶をかわしながら、秋月 文久は校舎へと歩いていた。
「センセ、おはよーございます」
もしかしたら彼も、陽の眩しさに目が覚めたのかもしれない。
呟くような低い声に、秋月はふわりと表情をほころばせた。
「後藤くん、おはよう。今日は早いんだね」
「アハハ、センセー!早いんじゃなくて、これが普通なんですよ?マサが異常」
後藤 真之に、羽柴 綾。二人とも一年C組、秋月が受け持っているクラスの生徒だ。
賑やかに笑う羽柴に向かって、容赦なく後藤の足が伸びる。いつものことだ。
「うるさい羽柴」
「いってえよ、暴力反対!先生も何か、言ってやってくださいよぉ」
「二人とも、仲良いよね」
しみじみと、秋月はそんな感想を述べる。
どこかずれているその発言に、後藤は複雑そうな表情を浮かべ、羽柴は溜息をついた。天然というか何というか…まあ、そういうところが好きではあるのだけれど。
「…先生、今のちゃんと見てた?!臑ですよ、す・ね!コイツが蹴ったの」
涙目になりながら、羽柴はそう訴える。大げさなんだよ、と軽く睨む後藤を無視して。
「大丈夫?羽柴くん」
「そう、それそれ!普通、先にそっちですよ?!
…ってああ!一人で行くなよぉ、マサってば!」
「………」
後藤はちらりと、こちらを振り返っただけだった。
「そんじゃ先生、また教室で!」
「うん、後でね」
秋月は息をついた。胸の奥が痛むような感覚を、自覚したからだ。
(後藤くんの一挙一動に一喜一憂して、気分まで左右されるなんて…)
振り切るようにすぐに首を振り、唇を噛む。朝からこんな調子では、これから先が思いやられる。
そんな時不意に肩をぽんと叩かれて、ビクッと秋月の身体が反応した。
「秋月先生、職員会議に遅れますよ?」
「長谷川先生…。おはよう、ございます」
ぎこちなくほほえむ秋月に、同僚の長谷川 庸一は何か言いたげに目を細める。
そういうところが、秋月が彼を苦手とする一因でもあった。
「元気がないようですが、後藤に何か言われでもしましたか」
「いえ、何でもありません」
内心ぎくりとしながらも、秋月は平静を装って返事をした。
鋭い長谷川には、この気持ちを気づかれているんじゃないのかと思うことが度々ある。確信には迫らないくせに、それをにおわせてくるような彼のやり口。好きじゃない。
「…すみません、僕は先に」
「そんなに、嫌わないでくださいよ」
長谷川は前に塞ぐように立って、秋月を見下ろした。
「あの、長谷川先生…?」
表情が引きつりそうになる。随分と長谷川に対して、神経過敏になっていた。
「センッセー!秋月先生!!ちょっといいですかぁ?!」
遠くの方で、自分を呼ぶ声がする。視線を向けると、とっくに教室に行ってしまったと思っていた後藤が、にっこり笑って大きく手を振っていた。
(あ…!)
「急いでくださぁい、センセー!」
「呼んでるから、僕…行きます、ね」
長谷川のことは見なかった。秋月は逃げるように走り出すと、水飲み場に立っていた後藤の前に並ぶ。息が上がった。目が合うと可笑しそうに、後藤が表情を和らげる。
「アンタ、長谷川のこと苦手だろ?」
単刀直入に問いかけられて、秋月は目を丸くした。後藤の観察眼に驚いたというよりむしろ、
「えっ?!何で…?そんな、態度に出てるかな?!」
その現実に、驚いたからだった。もう少し、気を付けた方が良いのかもしれない。
「っかしーよ。センセ、みんなに優しいのにアイツにだけつれないっていうかさ」
さっきは不機嫌そうだった後藤が、どこか楽しそうなのも嬉しかったが。
「みんなに…優しい?」
「慕われてんじゃん?オレたちに。まあ、お節介だったかもしんないけど」
その言葉を喜ぶより先、せつなさを感じるなんて。教師失格だ。
精一杯微笑んで、秋月は礼を告げる。
「ありがとう。助かった。…そういえば、羽柴くんは?」
「ん、便所」
後藤がそちらを指指して、ニヤッと笑う。その真偽がどうであるかなど、秋月の知るところではない。
「もう行くわ。あっ、今日はオレのことあてないでね♪」
「いつもあててるんじゃなくて、僕は後藤くんを起こしてるんだけど…」
「アハハ」
快活に笑って誤魔化されてしまうと、秋月も何も言えなくなる。
温かな気持ちで後藤を見送り、チャイムの音に慌てて職員室へと向かった。
毎朝恒例の職員会議。何が嫌って、長谷川の席が自分の目の前だということだ。
…これから三年も、長谷川とつきあっていかなければいけないと思うとゾッとする。それくらい、秋月は長谷川のことが苦手だった。
眠くなりそうな、毎朝の校長の長話に欠伸を殺す。視線を感じて顔をあげると、長谷川が自分を見ていた。目が合うと、フッと逸らされる。
「………ふう」
(今日はせっかく、朝からいいことがあったんだし、気にするのはやめよう…)
そう思い、無意識のうちに秋月の頬が緩んだ。
朝からあんなに後藤と話せることなんて、めったにない。後藤は朝が弱いらしく、いつもは遅刻ギリギリなのだ。だから、嬉しかった。
目の前で聞こえた、わざとらしい咳払いに秋月は我に返る。…何の恨みがあるのかは身に覚えがないが、長谷川はよっぽど自分を嫌いなようだ。
「それでは、今日も一日頑張りましょう」
校長が惰性の挨拶で締めくくり、会議が終わる。既に用意していたプリントを抱えると、秋月は足早に職員室を出て行った。
この、教室へ向かう時間。後藤のいるところへ、歩いていく瞬間。毎日何度も繰り返すたったそれだけのことが、秋月にはたまらなく幸せだと思えるのだった。
2004.06.05