なつやすみにっき



 海に行こうと誘ったら、別れたはずの恋人だった男はきれいな顔を微笑ませて、頷いたのだ。

 それが、一週間前。そして今、二人の目の前に広がる海。
「わー、綺麗だね!光を弾いて、海がすっごいキラキラしてる…。来てよかった」
 素直な感想。打てば響く、令治の行動に文久はダイレクトな反応を返すのだ。知っていたけど、知らない振りをしていた長所。他にもいいところは沢山あるのだと、最近そんなことを考えたりもする。
「はしゃぐのはいいが、転げるなよ。子供みたいな文久」
「楽しい〜。あー、ねえ。綺麗な貝とか落ちてないかな?どっちが先に見つけるか競争しようよ」
「遠慮しとく」
 返事は予想内だったのだろう、
「えーーー」
 屈託なく笑って、文久は足下に気を付けながらしゃがみこむ。散らばる色どりを真剣に吟味している姿を、令治は黙って眺めていた。
 夏が来たのである。海が特別好き、というわけではない。つきあっていた間、思い出せることといえば想い人の泣き顔と笑顔と貪るように重ねた肌だけで、そこに季節感は皆無だったように思う。
 テレビで映った他人事のような海を、自分のものにしてみたかった。その隣りにいてほしい人なんて、たった一人しか思いつかなかった。叶った。
「…なんで来たの、文久。俺は嬉しかったけど」
 呟いた言葉は、結果独り言になってしまった。少しだけ離れたところで、岩と睨み合っている文久には届かない。転んでしまいそうで危なっかしいのに、その手は自分を必要としない。
「滑るから気をつけるんだよ!文久」
「アハハッ、大丈夫大丈夫!令治もこっちおいでよ、蟹がいるよ」
「蟹?文久、貝を探してたんじゃなかったの…」
「フフ」
 悔しいくらい楽しそうだ。こうしていると文久は、実年齢より五歳くらいは若く見える。少なくとも見た目には、思い出の残像と変わりがない…。
「俺は蟹より貝より、文久がいいよ」
「光栄です」
 海に連れてきたところで、身体に残る痕のせいで、文久は泳いだりしないだろう。温泉にも、多分行けない。…色々と、酷いことをしてしまった。行事の着替えや、修学旅行の引率なんかではどうしているんだろう。そんなことを疑問に思う。
 それでも誘いに乗った文久の気持ちが、令治にはよくわからない。
 来てくれて嬉しかった。つきあっていた時よりも、別れてから今の方がお互いに通じ合っている気がする。これって幸せなんだろうか?この瞬間瞬間を喜ぶ自分なんて、馬鹿みたいに滑稽すぎる。
「生き物がいっぱいいる」
「小学生の夏休み日記」
「きょうは、れいじくんとうみへでーとにいきました。きれいでたのしかったです。りょかんもふとんが、ふかふかだとうれしいです。ごはんもおいしいといいです」
 教科書を読み上げるようにそう言う文久に、たまらない気持ちが込み上げてきて令治は近づいていった。不意に足が滑り転びそうになったところを、細い腕が支える。顔を上げると、柔らかい微笑みにぶつかって目を逸らした。
「危ないって言ったの、令治だよ?」
「文久…」
「僕がいるから、大丈夫だけどね」
 色んな意味でそれは正しく間違っているようで、令治は言葉を飲み込んだ。
 お互いに必要としていると思いこめればいいのに、文久の恋人は自分ではなく別の男で上手くいっていて、幸せそうだ。その幸せを壊したいのかと問われればそんなことは望んでいないのに、一番に望まれないやりきれなさが時折、処理できない。馬鹿だと思うけれど。
 車の助手席で、携帯を忘れたと思い出したように告げた唇。故意なのかどうなのか、浮気がバレないようにとでも思っているのか…浮気とすら多分、認識されていないような気はする。ただそれを他人が客観的に見てみれば、その二文字以外に浮かばないだろう。喜んでいいのだろうか?
「暑くて眩しくて、頭がぼぅっとする…」
「僕のが移っちゃったねえ」
 のんびり告げられた言葉に、眩暈がしそうになる。
「足先だけでも、少しつかるか?海」
「うん!」
 繋いだ手をしっかり握りしめ、裸足で踏み込んだ波の冷たさに笑って、透明な夏を指ですくいとる。
「気持ちいいねえ」
「ああ、気持ちいいな…」
「連れてきてくれてありがとう、令治。嬉しい」
 この陽光に、すべてを焦がされてしまえたらいいのに。どこかの神話みたいに、波の遠くへとこの人を連れ去ってしまえたらいいのに。
「どういたしまして」
 きっとまた誘って、こうやって同じせつなさを繰り返すのだろう。会う度に好きになっていく。歯止めを知らない想いが抱えきれなくなっても、そんなことは関係なしに。


  2009.03.08


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