いきぎれどうきめまい



 六月を迎え衣替えを過ぎた季節は、なんだか今までより少し景色が違って見える。
 梅雨入り宣言。それにしては雨足が遠い今日、オレは廊下で佇む恋人を発見して、口元を緩ませた。秋月先生は、オレには気づいていない。つられて窓の外に視線を走らせると、ふわふわと蝶が漂うのを見守っているらしい。
「せ、ん、せ、い。秋月センセ」
「わ!?」
 先生は大げさに驚いて、それから顔を赤くさせた。オレと何故か視線を合わせないようにして、ぎこちなく俯いてしまう。…最近ずっとこんな調子で、オレ、なーんか避けられてんだよな。何その反応?超傷つくし。まさか、気づいていないとでも思ってるんだろうか。
 でもそんな疑問は胸にしまって、オレは笑顔を浮かべる。
「後藤くん…。今日も暑いね」
「ほんとになあ。夏とかすぐだよ、…いっぱい思い出作ろう。先生」
 囁くように告げたオレに、先生は本当にいたたまれないような複雑な表情になって、
「う、うん。ごめん、僕、行かないと」
 オレの期待した返事は何故か、返ってこない。
 どうして狼狽える必要があるわけ?オレたち、付き合ってるんだから別におかしいこと言ってないよな、オレ。わっかんね。
「ちょっと待って」
 腑に落ちないので、その細い腕を掴んだ。先生は傍目にもわかるくらいビクついて、
「急いでるから、ごめんね」
 なんて。オレ何にも、何っっにも心当たりないんですけど!?
「…この状況、先生がオレを困らせてるってちゃんと理解してんの?ねえ。秋月先生」
 逃げようとした秋月先生は、ものすごく何か言いたげに振り向いて、やっぱり何も言わない。
 生徒が来たせいで、不本意にもその手を離さなくちゃならなくなった。またね、と慌てて逃げ出した恋人に、オレは深く溜息をつく。あーもう、何だってんだよ。一体。
 アンタ、何か悩みでもあんの。それってオレに言えないこと?別れたいなんて、あるわけない。先生、オレのこと好きだと思うし。…だったら何に、そんなグラグラしてんの!
 素直でわかりやすくてオレの大好きな恋人は、時折こんな風に意味不明な行動を取って、オレを悩ませる。オレはいつも、振り回されてばかり。

「あー暑い。苛つく。眠い。放課後、遠!」
 何の因果かわからないけど、三年に進級してもオレと静はまた同じクラスになって、しかも今隣りの席だ。オレがぼやきながら机に突っ伏すと、悪友はつれなく「あっそ」とだけ仰った。ひでえ。
「静は心もクールビズだな。いよっ、地球に優しい」
「お前うざい」
 こっちを見もしない。静は買ってきたばかりの本に、夢中のご様子。一年の頃なんて、あんなにあんなに可愛かったのに。男前になりやがって。王子然とした雰囲気で、静はいつも通り氷点下だ。なんかむかつく…。
 オレの機嫌が悪い時は、余計に相手をしてくれない。まあ、その態度は間違ってないかもしれないけど。いやその的確すぎる判断が、本当腹立たしいことこの上ない。
「うざくて結構。季節感のない男め」
 静は一年中、大体は一定のテンションだ。オレは浮き沈みが激しいけど、それに比べれば。いつでも涼しい顔。クールビューティだね!って以前、羽柴が言ってた。あながち嘘じゃない。
「眠いんなら寝ろよ。喋りかけてくるな」
「しーずーかーちゃん」
 嫌がらせでもなんでもなく、オレがこんな感じで静に絡んでいくのはもう習慣っていうか。静を構うのが好きなんだよな。嫌がられれば嫌がられるほど、手を出さずにはいられない。
「何かご用でも?苛々してるお前の八つ当たりに親切にも付き合ってやるほど、僕も出来た人間じゃないんだよ。もうすぐ読み終わるし、この本」
「恋人の態度がおかしいんです。どうしたらいいですか」
「僕に聞かれてもね。本人に問いただせば」
 他人事だと思って、アッサリ正論つきつけてきやがって。静は相手にしてられない、って感じで肩を竦める。悩み相談終了。いや、もうちょっと相手にしてほしい。
「いやー。まあ、そうするつもりだけどさ…。何でだと思う?オレ飽きられた?理由が全く思い当たんねえ。で、不安で苛々するっていうか」
「それはないでしょ。あの人の物好きは、僕には全く理解不能だけどお前、すっごく愛されてるから」
 静はオレと先生がデキているということを知っているので、そんな風に言う。
「だよな。だよな?っだよー」
「うざい…」
 静は心底呆れたように吐き捨てて、今度こそそっぽを向いた。
 秋月先生のオレへの愛情なんて、疑う余地がない。だから心配することなんて何もない、って自分に言いきかせようとするけど、オレも先生のことが凄く好きなもんだから、どうでもいい些細なことでも気になってしまうんだよな。はあ。


   ***


 オレは秋月先生の部屋の合い鍵を持っているので、直接行って聞いてみることにした。学校帰りに寄ると制服が目立つので、なるべく一度家に帰って着替えてから、オレは部屋に向かうことにしている。先生も学校でこの恋が見つからないように気を付けてくれてるから、オレも見習わないとな。
 先生はまだ帰ってない。最近オレの私物が増えた、秋月先生の部屋の中。先生は元々物欲があまりない方みたいで、先生の色が見えるものといったら、本くらいだ。あ、あと花。片隅にさりげなく置かれた、水色の紫陽花。
「ただいま…」
「おかえり。秋月先生」
 そこで鞄を落とすあたり、この人は本当にベタだと思う…。ちなみに秋月先生が学校でよく落とすものはプリントとか、出席簿とかだ。照れたように笑って、先生は嬉しそうに続けた。
「後藤くん、来てたんだね。いらっしゃい。今日は暑いから、素麺でも食べようか」
「…?先生、オレのこと避けてるんじゃないの。昼間、学校で」
 この差がオレには理解不能で、首を傾げる。思い当たることはあったらしく、秋月先生は気まずそうに言い淀んだ。やっぱり、何か隠してるな。コレは。
「あ、あれは」
「何」
「言いたくない。恥ずかしい…。言ったら絶対笑うもん。後藤くん」
 そこまで言われたら、追求せざるを得ないだろ?常識的に考えて…。
「オレ、心配してたんだぜ?嫌われたんじゃないかとかさ」
「衣替え」
「え?」
「衣替えしたでしょ、六月になって。…だって!後藤くん、半袖なんだもん。格好いいから困る…直視できない。だからあんまり、校内で話しかけてこないで。ドキドキして、変になる」
 秋月先生は早口でそう言いつのると、そこでハア、と悩ましげな溜息。
「え………」
 予想外すぎた理由に、オレは唖然としてしまった。
「ほら!笑う!!」
 恥ずかしすぎて泣きそうになっているこの人は、なんて可愛いんだろうか。可愛すぎてニヤケそうになるのを、オレは必死で我慢しなきゃならなかった。可愛い。可愛すぎる…。
「笑うっていうか…。そんな、今更見慣れてるだろ?オレの身体なんて」
「見慣れるどころか、その度にときめくんだから僕は心臓が足りないんだよ。もう放っておいて!」
 そのキレ方。もう…放っておけるわけないのに。どうしよう。オレ先生が大好き。あー、先生と付き合っててよかった。オレ愛されてるじゃん。何も心配なんてしなくてよかった。
「僕は、後藤くんのことが好きなの。好きすぎて、もうなんか」
「秋月先生」
「何!」
 普段は穏和で怒ることなんて滅多にない秋月先生の、恋情に向ける怒りの可愛らしさについて。
 キスがしたい。セックスしたい。それは言葉にならなくて、奪うように触れた唇から甘い吐息が漏れる。先生はオレに身体を任せて、目を閉じた。上気した頬が色っぽくて、綺麗だ。
「…ンッ……」
「アンタがオレを不安にさせるから、お仕置きしようと思ってたのに。もう、参った。可愛すぎ」
「ドキドキする度にお仕置きされるのは、僕もつらいよ」
 ぎゅっと抱きしめた腕の中で、秋月先生は苦笑いする。
 昼間の不安が嘘みたいに、こうやって二人でくっついていると安心して、嬉しくて、オレも笑った。


  2009.06.14


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