火遊び



 後藤が自分へと向ける授業中に感じる視線、というのはむしろ以前からあったのだけれども…最近はそれがあまりにも顕著で、秋月はどうも反応に困ってしまう。
 普通の授業をしている最中に、そんな風に熱っぽい眼差しを見てしまったら、正直言って、もう勘弁してくれ!と言いたい衝動にかられるわけで、ただ、無自覚のようだから扱いにも困る。
 確かに自分は、愛されているんだろう。くすぐったさを通り越して、ひたすらに恥ずかしい。ドキドキする。止めてほしい。
 でも後藤が授業中、昼寝をすることは少なくなったから、それはいいことなのかもしれない。秋月と目が合うと、後藤は優しく微笑んで教科書に視線を移した。
「フミちゃん、まだ一時間目ですよー。何ボーっとしてんのー」
「ボーっとしてなんていません」
「青田、しょうがないって。春だから今。な?」
「まあな、春ならしょうがない…って何でだよ!」
 教室に笑いが巻き起こる。後藤に見惚れていましたなんて、言えるわけがない。
 こんな空気になると、いつも後藤は困ったような表情で俯くのだけれど。後ろめたいというよりは、面白くないのだと以前聞いたことがあった。ぽつりと、呟くように。
 からかいやすい先生、は相手が後藤に限った話ではないからだろうか?
「みんな静かにしてください」
「センセー顔真っ赤。かわいー」
「あのねえ、僕はもう、そんな可愛げのある年じゃないんだから…」
「え、でも可愛くない?おれフミちゃんなら全然オッケー。年上でも男でも」
「馬鹿お前、どさくさ紛れで告白とかすんなよ。授業中に。超迷惑だから、色んな意味で」
「授業を真面目に受けてくれない子の話は、先生は本気にしませんから。はい、静かに!」
 そこでしんと静まりかえるあたり、深く考えると怖い(そう。色んな意味で…)。
(あーあ…)
 後藤は機嫌が悪くなってしまったようで、机に突っ伏して堂々と寝る体勢を整えている。
「後藤くん、起きてください。寝るなら、保健室でね」 
「……………」
 無反応。絶対に狸寝入りだという自信はあるにせよ、恋人の機嫌を損ねたままなのは気になる。
 溜息を殺して、秋月は後藤の席まで歩いていった。優しく、身体を揺り起こしてやる。
 触れると思い出してしまうのに。昨日の夜、部屋でこの腕に抱かれたこと…。
「ほら、起きて」
「…………」
「後藤くん」
 教室が妙にどよめいたのは、後藤が秋月を不意に引き寄せたからだった。
「あ、あ、あのっ。後藤くん!?」
 瞬間、硬直した秋月は裏返った声音で、恋人の名を呼びかけた。
 後藤は真っ直ぐに秋月を見ると、笑いもせず動揺もせず、初めからそれを狙っていたかのように飄々とした態度で、秋月から手を離す。
「あー…、すいません。間違えました」
「うわ、ずりー」
「マサの奴、役得じゃんよ」
 いつも、触れられるのは大抵は不意打ちで。
「…っ!」
 こんな悪戯、可愛いなんて笑って許せるものじゃない。意地悪に近い。
(落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け…。生徒に変に思われる、落ち着いて!)
 どうにか授業を軌道に戻して、秋月は上の空で残りの時間を乗り切った。
 一度も後藤の方は見もせずに、逃げるように次の教室へ。いつになったら、この胸のざわめきが
 静まってくれるのか…。


   ***


 秋月は白い煙を吐き出して、続けざまに溜息をつく。なんだかその昼間の出来事が腑に落ちなくて、長谷川に一本拝借し、久しぶりに煙草を吸った。
 相変わらずまずいし、長谷川の吸っている煙草は心なしか苦い気がする。
 不機嫌な理由を聞かれたけれど上手く答えられず、それでも伝わっているんだろう。長谷川は笑顔で、いつでも浮気には付き合いますと冗談を言った。本気なのかもしれないけれど。

「セーンセ、まだ怒ってる?ごめんなさい。反省してます」
 自分の部屋に後藤がいる、という風景がなんだかもう、すっかり馴染んでいる。
 心のどこかでそんな現実を実感しながら、秋月は唇をとがらせた。
「そんなこと、思ってもないくせに…」
 愛してるから何でも赦されると思ったら、大間違いだ。していいことと悪いことの区別くらい…なんて、そんな説教できるほど、出来た人間でもないが。
 現に秋月にだって、後藤には言えない、怒らせてしまうような不実は山ほどあるのだし。
「秋月先生が油断ばっかりしてるから」
「油断なんかしてません。…いくらなんでも、授業中にああいうことするのは…僕だって、」
「…ごめん。そんな顔しないで、困らせたかったけど泣かせたいわけじゃないから」
「………よく言うよ」
 恨みがましい気持ちになる。確かに好きだ、それは自惚れではなく事実だけれど。
「どうしたら赦してくれる?」
「今から一週間、僕に触らないこと。これは場所問わずね、何もしないで我慢して」
 秋月がそう宣告すると、後藤は本当に驚いたように目を丸くする。
 あまりにも表情が変わったので、思わず秋月も笑いそうになってしまった。我慢する。
「そ、そんなに怒ってた…!?」
「当たり前です。僕は、子供の火遊びに付き合う気はないよ」
「…だって、どうすんの。一週間も」
「僕のことなら、ご心配なく。一週間くらい、一人でなんとかなります」
(秘密を守れる浮気相手なら、心配せずともいつでも相手くらいしてくれるだろうし)
 後藤が聞いたらやっぱり怒りそうなことを、つんとしたまま秋月は考えるのだ。
 別に、今だって好きじゃなくともセックスすることは可能だ。もう、半ば開き直っている。
「……………」
「想像しないでくれる?」
 秋月が指摘すると、後藤は乾いた笑みを浮かべた。
「ハハ」
「それじゃあ、今日はもう帰って。明日も、遅刻しないようにね」
「せ、せんせ…」
「情けない顔しない!帰りなさい」
 何か言いたげな後藤を無理やり追い出して、秋月は玄関のドアを閉めてしまう。
 後藤はもう、今のやりとりだけで相当堪えたようだった。…まだ、足りないくらいだけれど。
(心臓止まるかと思ったんだから、本当に)
 つきあい始める前も、今も。お互いの立場が、教師と生徒であるという現実は変わらない。
 忘れようもない、忘れてもらっては困る。その危険性を、ちゃんと認識しておかなくては。

「先生」

 インターホン越しに、後藤の声がした。
「何もしないから、せめて一緒にいさせてよ。先生の気が済むまで、オレ、何度でも謝るから」
 項垂れた姿。この恋人が自分以外の誰にも、そんな風にならないことを知っている。
(…ああ、もう!)
 きっと五秒も経たないうちに、自分はこのドアを開けてしまう。
 線なんて、驚くほど簡単に越える。…いつも、いつもだ。秋月にも後藤にもそれはわかっていて、だからこそ、いたたまれないような気持ちになる。
 彼の前では、どこまでも弱い。それが恋だというのなら、為す術がない。
 秋月はせめて平静さを取り繕おうと、時間稼ぎに、火照った顔を静めようと努力した。


  2007.04.20


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